第10話 夢のミカタ

 わたしは夢がない子供でした。


 毎年、小学校の年度末に書かされる文集の自己紹介ページには必ずと云っていいほど「将来の夢」という欄がありました。同級生のページを見てみると、パティシエだとか美容師だとか消防士だとかプロ野球選手だとか云ったご立派な夢が並んでいます。わたしにはそれがひどく不可解に思えました。日常における彼らとそれらの夢のイメージがどうしても結びつかないのです。わたしは彼らがケーキを焼いたり、誰かの髪を切ったり、燃え盛る火に立ち向かったり、バットをスイングする姿をまるで見たことがありません(いや、最後のはありますが)。


 自分が体験したこともないようなことをどうして自分の未来として想像できるのだろう――それが、わたしの感じた謎、あるいは溝でした。


 そもそも、わたしには将来の自分というものがとても希薄で縁遠いものに思えて仕方がありませんでした。将来に何か希望があるとすれば、それはこの日常が延々と続くこと。仲のいい友だちに囲まれて、意地悪な同級生や口うるさい大人たちから隔絶されたネバーランドで一生を過ごすことくらいのものでした。わたしが望むのは今という時間の引き延ばしであり、未来における自己実現など考えたこともなかったのです。将来の夢などと訊かれても答えられるはずがありません。「将来の夢」の欄には毎年決まって「長生き」と記しました。


 けれどわたしがいくら望んだところで時間の流れは止まってはくれません。わたしたち子供はそのことを成長というかたちで否が応にも実感させられるのです。わたしたちの背丈はめきめきと伸び、いち早く声変わりを迎える男の子もちらほらいました。いわゆる「将来」というものはまだ先だとしても、小学生でいられる時間、子どもでいられる時間はどんどん短くなっていきました。


 小学六年生になったとき、わたしは学年でも有数の優等生になっていました。遅刻や欠席は皆無と云ってよく(これは五年生のときに学校の近くに引っ越したおかげでもありますが)、宿題を忘れたことは一度もありませんでした。テストでは常に高得点を記録し、中学受験を控えて塾に通っている同級生たちをも上回るほどでした。素行の面でも問題らしい問題はなく、先生の云いつけを誤って叱責されることもなくなりました。一学期、他薦で学級委員長に選出されたときは戸惑ったものでしたが、それも客観的に見れば当然の、納得のいく結果だったのでしょう。そんなわたしにも躓きがないわけではなく、それがあの忌々しい将来の夢というやつでした。


 六年生に進級すると、格段に増えたのがこの「夢」を問われる場面です。お約束の文集、卒業式での発表、図工のテーマ。わたしはそれらの場面に相対するたびに縮み上がり、答えるまでの時間が引き延ばせないものかと頭を悩ませませたです。その時期のわたしは、いまに空襲警報のサイレンが鳴るのではないかと恐れる戦中の市民も同然でした。学校のあらゆる場面で「夢」という言葉が不意討ちをかけてくるのではないかとびくびくしながら生活していたのです。


 六年生のとき、図工の時間は月曜日の一時間目と二時間目のセットで組まれていました。


 それまで取り組んでいた作品を終え、来週からは版画を始めると聞いたとき、わたしはひそかに胸を高鳴らせたものでした。わたしは版画が好きだったのです。正確には、ノミが木版を削り取っていく感覚が好きでした。実際、制作のテーマが「将来の自分」などでなければわたしは存分に楽しんだに違いないのです。


 将来の自分。


 繰り返すように、それはわたしにとってはまったく未知の存在でした。夢。いったい、どうしたらそんなものが持てるというのでしょう。たとえば、パティシエ。けれど、わたしは自分で料理をしたことがありませんでした。たとえば、美容師。無論、他人の髪にも鋏を入れた経験もありません。消防士。わたしには体力がありません。プロ野球選手。論外。


 みなが思い思いの自分とやらを下書きの紙に描いている間、わたしは手を忙しく動かすフリをしながら考え続けました。しかし、一時間目が終わっても紙は真っ白で、二時間目が終わっても紙は真っ白のままでした。白紙のまま提出するのが恐ろしく、わたしは先生の隙をうかがってこっそりと紙の束に自分の紙を滑り込ませました。けれど、それはもちろん急場しのぎの知恵に過ぎません。来週にはイヤでもその白紙と対面することになることになります。先生も、わたしが何も描かずにこの二時間をつぶしてしまったことに気づくでしょう。そうなれば、何を云われるか解ったものではありません。何より、叱責を受けたところで来週までに「将来の自分」とやらを見つけられる自信がありませんでした。


 ――夢ってなんだろうね。


 ある日、副委員長の江川さんとそんなことを話したものでした(彼女もまた夢がなかったのです)。


 ――なりたいものとかやりたいことなんてなんかある?


 わたしは首を振ります。


 ――ていうか、親を見てたら働きたいなんて思わなくない?


 江川さんの云うことはいちいち尤もでした。子供だったわたしに労働の何たるかが解っていたわけではありませんが、それでもなんとなく大変なもの、人といやおうなしに顔を突き合せなければならないものという認識くらいはありました。それを「夢」と称して嬉々と語る。語るように強いる。その感覚がどうしても理解できなかったのです。好きと労働。それらを結びつけるのは、月に橋を渡すことよりも難しく思えました。


 わたしは云います。


 ――労働なんていやいややることなんだから、これがやりたいって云うよりは消去法で決めるべきなんじゃない?


 ――たしかに。じゃあ、とりあえず何がイヤかな。


 わたしの頭にぱっと浮かんだ言葉がありました。


 ――教師とか。


 ――それ。アホしかいないもん。


 ここで、わたしと江川さんの関係について簡単に述べておく必要があるでしょう。


 先述の通り、わたしと江川さんはそれぞれ上半期の学級委員長と副委員長を務めていました。江川さんは転校してきたときからずっとわたしと同じクラスでした。わたしたちは学級の優等生として先生の頼みを引き受ける機会がよくありましたから、自然と話す機会も増え、次第に気安く打ち解ける仲になっていったのです。


 彼女と話すのは、その多くが先生への愚痴でした。自分たちにクラスの監督責任を丸投げして、個々の生徒の事情など気にもしないことへの愚痴、自分たちを勝手に習字のコンクールに参加させようとしたことへの愚痴。彼らの不手際や理不尽をあげつらって笑うのがこのささやかな絆の確認のようなものになっていたのです。ですから、わたしにとっての江川さんは、友だちというよりは世の不条理への怒りを共有する同志に近い存在でした。


 さて、版画の授業が始まってから一週間後のことです。わたしの懸念は現実のものとなりました。一週間が経っても、自分の夢が見つからなかったのです。図工の時間が組まれている月曜の朝、わたしはお得意の手に訴えました。問題の先延ばしです。腹痛を訴え、図工の時間が終わるまで遅刻することにしたのです。いまやすっかり優等生となっていたわたしの訴えが疑われるはずもなく、母も担任もわたしの云うことををころっと信じました。尤も、腹痛というのもあながち嘘とはありませんでした。わたしは昔から、嫌なことがあるとそれがすぐ身体に現れる体質だったのです。まるで口ではうまく喋れないことの代償だとでも云うように、身体は雄弁に不具合を訴えました。


 そんなことが二週、三週と続いたとき、母と担任はようやく何かがおかしいことに気づきました。最初に訊いてきたのは母です。問い詰められたわたしは仕方なく、図工が嫌なのだと答えました。何が嫌なのかと問われ、将来の自分なんて云われても想像できないと答えました。母はそれを連絡ノートに書いて、わたしを登校させました。担任の呼び出しを受けたのはその日の放課後のことでした。


 ――図工の課題がイヤなんだってな。


 わたしの担任はひげ面に眼鏡をかけた中年の男子教師でした。


 ――夢がないって云うけど、何でもいいんやで。■■も何か好きなものはないんか?


 わたしは曖昧に首を振りました。


 ―― たとえば好きな教科は?


 わたしは曖昧に首を振りました。先生は困ったように問い続けます。


 ――国語は?


 ――好き……


 ――算数は?


 ――好き……


 ――社会は?


 ――好き……


 ――理科は?


 ――好き……


 ――図工は?


 ――好き……


 ――なるほどな。


 何がなるほどなのでしょう。わたしが訝しく思っていると、先生は云いました。

 ――■■は好きなものが多いんやな。それで決められないと。


 なんだかよく解らないことを云っている。それが率直な感想でした。


 好きなものが多い。本当にそうでしょうか。勉強に限って云えば、たしかにそうかもしれません。わたしは確かに何かを知るということが好きでした。当時、始まったばかりのあるクイズ番組に熱中しており、いい大人が馬鹿げた回答をするのを尻目に正解を的中させるのが何よりの喜びだったのです。


 けれど、それはあくまでお遊びです。担任の求める「将来の夢」とはつまり、将来就きたい職業のことでしょう。お遊びのことではありません。居間のテレビでクイズ番組に野次を飛ばす事に報酬を出す仕事があるでしょうか? 好きと仕事、好きと夢がどうして結びつくのか、やはりわたしには理解不能でした。


 あの時、わたしはどんな版画を彫ったのでしょう。あれだけ苦しんだのにもう思い出すことが出来ません。少なくとも、自分の夢を見つけることが出来なかったのは確かでしょう。もし、あの時そんなものが見つかっていれば後々になってあんなに苦しんだりはしなかったはずですから。


 それから数ヵ月後、三学期に入ってしばらくが経った頃でした。始業式から間もなくして、いよいよ始まったのが卒業式の練習です。われわれ六年生は毎日のように講堂に集められ、そこで入場から卒業証書の授与、壇上での唱歌などの練習を強いられました。


 そして、そこでまたも問われたのが将来の夢でした。われわれ卒業生は、校長先生から卒業証書を受け取るため、一人ずつ壇上に上がっていくのですがその際に自分の夢を発表しなくてはならないというのです。それも講堂の全体に響き渡るような大声で。

 

 わたしのように夢を保留にする生徒もいないではありませんでした。不安というのはそれを共有する仲間の数だけ薄められるものです。しかし、それもだんだん数が減っていきます。彼らも徐々に自分の夢を見つけそれを誇らしげに叫ぶようになりました。タカ君、Iはプロ野球選手、Tは美容師、Aは警察官でした。そして驚いたことに、江川さんが選んだのは教師でした。


 ――なんで教師?


 わたしの問いには、あれはすべて嘘だったのか、というニュアンスが含まれていました。教師。それはわたしたちにとって不条理のシンボルだったはずです。しかし、江川さんはあっけらかんとしたもので、半ば笑うように、


 ――だって、あんな人たちでも勤まるんだよ? わたしの方がよっぽどましな教師になれるって。


 江川さんの答えに、わたしは雷に打たれたような衝撃を覚えました。わたしはただこの世の悪を、不条理を憎み破滅させたいと願うばかりで、自分が社会のよき歯車になろうなどとは考えたこともなかったからです。


 わたしと彼女は大人たちを反面教師としてみているという点で共通していました。しかし、そこから発展して自分の将来を考えられたのは彼女だけでした。


 江川さんが、不意に遠く感じられました。


 ――■■君はどうするの?


 わたしは答えることができませんでした。


 卒業式の当日、結局何を発表したのか。それもまた忘却の霞に消えてしまいました。わたしはついぞ将来の夢を見定められなかったようです。つい最近開いた卒業文集にはやはり「長生き」と書かれていました。


 あの時、江川さんのように自分の夢を見出せていれば、何かが変わったでしょうか。世の不条理にただ噛み付くのでなく、それを内から変革しようという発想が芽生えていれば、わたしもあのような手段に訴えることはなかったのでしょうか。

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