小学校編
第2話 ボクには致命的なズレがある
わたしは小学校に進級し一年二組の生徒になりました。
最初の担任は自分のことを永遠二十歳と云ってはばからない、中年の女性教師でした。彼女の雰囲気にはどこか有名な巨大怪獣を思わせるものがあり、怪獣が火を噴くかわりにとても大きな声で喋りました。そのよく云って快活な、悪く云えば粗暴な明るさはわたしにとって恐怖の対象に違いありませんでした。わたしは昔から、エネルギーを常時発散しているような人間が苦手でした。それはいわば天気の悪い日に上空でごろごろと唸る積乱雲に対する恐怖と同じでした。堆積したエネルギーがいつ雷となって自分に落ちるか解らない恐怖があるのです。隣のクラスは優しそうな女性教師だったので、何度そっちに移りたいと思ったか解りません。実際、ゴジラ先生は何度もわたしに雷を落としました。
当時のわたしを苦しめたのは何と云っても給食の時間でした。
わたしは食べるのが遅い子供でした。昼休みの鐘が鳴るまでの間に、給食容器を空にすることがどうしても出来ないのです。クラスのみんなが校庭に繰り出しどっぢボールなどに興じる中、わたしはのろのろと(もちろん、本人の意識としては精一杯速く)パンをかじり、スープをすすっていました。一年生の教室は一階にありましたから、校庭からはクラスメイトたちの声が盛んに入ってきます。その楽しそうな声。対するわたしは、いつまでも終わらない地獄を味合わされているようでした。
これはおそらくどこの学校でもそうなのでしょうが、入学したての児童は学校生活における諸々の義務から自由な立場にいました。授業は午前中までしかなく、昼休みの掃除も他の学年の生徒にゆだねられていました。そして、児童を学校生活に慣らすようにして徐々に義務が加わっていったのです。わたしの学校でも、まず午後の授業が追加され、そして昼休みの掃除が追加されました。
子供の適応性とは侮れないもので、誰もが次第に自分たちに課せられた義務を受け入れそれをそつなくこなすようになりました。掃除の時間にはみんなで協力して教室の机を後ろに移動させ、それぞれが自然と分担し教室の四方でせっせと箒を動かしていました。そんな中、わたしだけはのろのろと給食を口に運んでいるのでした。無人の机とともに教室後方に移動させられ、ほとんど身動きも出来ないような状態でただ給食を咀嚼する。それはまるで、罰でした。食べるのが遅いがための罰。掃除の義務から逃れた罰でした。
罰と云うならそれだけではありません。
これもおそらく全国で見られる光景なのでしょう。給食の時間は同じ班で机を一塊にして食べるのが決まりでした。これは食事の時間を通して児童同士に交流を持たせるという意図があるのでしょう。しかし、わたしが誰かと談笑などしていると「喋ってる暇があったらさっさと食う」とやはり先生に雷を落とされるのでした。これはもちろん、わたしが食べるのが遅いからです。その証拠に、先生はわたし以外の生徒が談笑していてもそのことを一切注意しません。それどころか、自らも会話に参加して笑みをこぼしているくらいなのです。 これはいったい何と云う不条理でしょう。
クラスの中でわたしただ一人が会話に参加する権利を奪われていました。わたしと話していた同級生も、わたしが注意を受けた後は他の同級生と話し始めました。わたしには話しかけてはいけないのだと、教室中が悟った瞬間です。事実、翌日もその翌日もわたしに話しかけてくる同級生はいませんでした。談笑に沸く班の中でただ一人黙々と給食を口に運ぶ、その時間の息苦しさ。疎外感。わたしだけが輪の外。これが罰でなくてなんだと云うのでしょう。
先生の中にはもしかしたら「義務を守ってこその権利」という考え方があったのかもしれません。しかし、先生は義務を守ろうとしても出来ない生徒がいることを一度でも考えたことがあるのでしょうか。出来ないことをやれと云われる。その苦痛を考えたことが一度でもあったのでしょうか。
給食を速く食べろというなら、最初から席をくっつけさせなければいいのです。生徒間で交流を持てというなら、給食を速く食べろなんていう無茶は云わなければいいのです。なのに、なぜその両方をわたしたちに強いるのでしょう。その両方が出来て当たり前だから? 出来ない生徒の存在なんて考えたこともなかったから? そんなはずはありません。彼女にだってキャリアと云うものがあるでしょう。わたしのような生徒はいくらでも見てきたはずです。それなのに、彼女はこのシステムに何の疑問も持たなかったのでしょうか。
思うに、先生には食べるのが遅いのは怠けているだけだと、だから権利を奪われてもしょうがないのだと、そういう考えがあったのではないでしょうか。彼女もまた、わたしが後に出会う教師たちと同様スポ根漫画的な「やればできる」思想に毒されていたような気がしてなりません。
わたしとしても他人に迷惑をかけている自覚はありましたから、当然速く食べるための努力は怠りませんでした。
喋るな、と云われればその通りにし、食べ物を運ぶ以外はまったく口を開きませんでした。それでも、掃除の時間までに食べ終えることはどうしても出来ませんでした。
当番のクラスメイトに自分の分は少なく盛るよう頼んだりもしましたが、先生は許してくれませんでした。こればっかりは現在に至ってもまったく理解できない考え方なのですが、「みんなと同じ量をみんなと同じ時間で食べなければいけない」そうです。
平等主義。
それが先生の硬直的な思考、融通の利かなさの正体だったのです。生徒にはみな一律して同じノルマを課す。それが先生にとっての絶対正義、平等だったのでしょう。
顔も身長も頭のよさも違う子供たちをスタートラインに並べさせ「よーいドン」の合図で同じゴールに向かって走らせる。遅れる子供には容赦ない叱咤が飛び、リタイアは決して許されない。速く走るよう努力を強いられ、先生が認めた以外の「努力」は無碍に否定され、理解しがたいルールに阻まれる――自分の邪魔をするという以上の意味がまるで見出せない不条理なルールに。これが教育でしょうか。いっそ教育の「教」に「強」あるいは「矯」という字を当てはめた方がまだ妥当に思えるのはわたしだけでしょうか。
わたしのクラスには知的な障害を持った同級生がいました。彼は、一部の時間を除いては別の教室で授業を受けていたようです。運動会での徒競走も、みんなよりゴールに近いところからスタートしていました。
そのように特別な例を設けるだけの発想があるなら、どうしてわたしに無理な適応を強いるのでしょう。学校の教育というものは(あるいは社会というものは)、大多数の適応的な生徒と一部の極端の例外を基準にして作られており、そのどちらでもない者、そこから溢れる者には必要以上の苦痛を強いる仕組みになっているような気がしてなりません。
食べるのが遅い。それに付け加えて、わたしには他にも弱点がありました。学校というのは子供が最初に経験する社会と云えるでしょう。わたしの弱点は云わば、社会で生きるうえで致命的とも云えるものでした。わたしがこの年になってまでとうとう社会に適応できなかったのは、あのときの躓きを未だ引きずっているからなのかもしれません。
わたしは最近でも「どこか抜けている」と評されることが多いのですが、その頃はそれに輪をかけて「抜けている」子供でした。先生の指示をうまく遂行することが出来ないのです。
たとえば、よく覚えているエピソードにこんなことがあります。
その日、わたしたちの班は給食当番に任命されていました。わたしたちは何の問題もなくクラス全員分のご飯が入った容器を運び、何の問題もなく配膳を終えました。怒られる要素は何もありませんでした。問題となったのは、その片付けの段階に入ってからでした。先生はわたしに緑色のボールを渡しそれに水を入れてくるように云いました。わたしは頷いてボールを受け取ると、教室の近くにある洗い場へと向かいました。水を汲んで戻ってくる。いま思えばなんてことのない、簡単な仕事です。が、帰ってきたわたしのボールは空でした。
ゴジラ先生は云うまでもなく、わたしに雷を落としました。なぜ、云ったことができないのか。人の話を聞いていないのかと何度も何度もなじってきました。わたしは怯え、わけも解らず涙を流していました。なぜ自分がボールに水を汲まず戻ってきたのかうまく説明することが出来なかったのです。
いまにして思えば、それは簡単なことでした。
洗面台に着いたわたしは、蛇口をひねりボールに水を注ぎ始めました。が、水がいっぱいになろうかというところで、同じ班の女の子がわたしと同じボールを手にやってきてそれを洗い始めたのです。彼女はどうやらボールを洗うように云いつかっていたようでした。水を汲み、ボールを逆さにしてそれを流す。その一連の動作を見ていると、わたしは自分もそうしなければならないような気持ちになってきました。そのとき、わたしの頭から先生の指示は消えていました。自分のやるべきことはこのボールに溜まった水を流しにあけること。それ以外にないと思ってしまったのです。わたしには昔からこういう傾向がありました。言葉で云われたことよりも、視覚的に強い印象を持ったものに思考が引きずられてしまうのです(高校時代、先生に「呼んできて」と云われた生徒のかわりに、たまたま目に付いた同級生に声をかけてしまったこともあります)。
が、それは大人になった今だからこそ解ることで、当時のわたしにそういう心理状況を説明できる能力はありませんでした。そもそも、そんなことが説明できるようならそもそも失敗などするはずがありません。当時のわたしに出来たのはわけもわからず先生の叱責を浴びること。それだけでした。
叱られながらうつむいていると、視界の片隅に同じ班の男の子がボールを持って教室に入ってくるのが見えました。出来損ないのわたしの代役というわけです。自分にはその程度のことも出来ないのだと云われているようで悔しかったのをよく覚えています。あの時、なぜ先生はもう一度水を汲んでくるように云わなかったのでしょう。わたしだって一度失敗したことをそう簡単に繰り返したりはしません。先生はわたしにその程度の信用さえ置いていなかったというのでしょうか。
当時のわたしが「不条理」と云う言葉を知っていれば、学校での毎日はその言葉で埋め尽くされたことでしょう。
云われたことがきちんと理解できない。その通りに行動できない。意思の伝達という点において、コミュニケーション能力に決定的な遅れ、あるいは生まれながらの欠陥がある。それはわたしの背負った十字架でした。家庭の宗教的事情に加えて、それはわたしと世間とを隔てるもうひとつの「ズレ」でした。それがためにわたしは他人の意図するところがうまく飲み込めず、そのために叱責を受け、ますます自信を失っていくのでした。
そのような子供でしたから、当然周りの子供たちともうまく馴染むことができませんでした。
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