おかえりなさい。いただきます

 翌日からは、またいつも通りの日々が始まった。


 一日遅れの仕事始めとなった俺だが、別にその件で周囲のあたりが冷たくなる──ということもなかった。あるいは後輩の言う通り、俺が鈍いだけで恨まれているのかもしれないが。いずれにしろ、本人が気づかなければ同じことだ。


 同じように一日遅れでの仕事始めとなった後輩だが、なんとあいつは『こんなこともあろうかと』去年のうちから少し長めの有給申請をしていたらしい。


 考えてみれば、実家への帰省が決まった時点で部屋の片付けをしていたわけだし、本当に如才ねえなあいつ。


 なにをどこまで先読みして生きてるんだ。


 そして、そこまで先の先の手を打つ奴が、なぜ私生活となるとあそこまで手遅れになるほど部屋を放っておくのかが分からない。


 汚部屋になる前に、毎日ちょっとずつでいいから片付けろ。

 使い終わったら元の場所に戻せ。


 そんな後輩だが、面白いことが一つ。 


 年末年始の休暇あけに、頬と目元を赤く腫らして出社した後輩の姿に、社内にはとある噂が広まった。曰く、あの足立さんが彼女と大喧嘩してふられたらしい、と。


 相手に浮気がばれたんだとか、実家に挨拶に行った時に父親と喧嘩したんだろうとか、特に根拠もないくせにまことしやかに様々な噂が流れたものだが、中でも笑ったのが『どうやら足立の彼女は伝説の右手の持ち主らしいぞ』というやつである。


 なんでも、後輩の顔面のあまりの腫れ具合に、よほどの逸材でなくてはああはならないだろう、と推測されたそうだ。


 女の腕でなく、男の腕力の全力でぶん殴ったのだから威力が桁違いなのは当然なのだが。


 というかそもそも、殴ったのはあいつの彼女ではなく俺なのだが。


 なお、例の企画はありがたいことに無事、うちの会社で引き受けることになったらしい。当然、担当は俺から課長へと変更になったが、それだけで済んだなら上等というものだ。


 部長からは軽く背中を叩かれたが、叱責はなかった。代わりに、次はお前がやれ、と言われた。ただ申し訳なく頭を下げた。


 メインの担当は俺から課長に変わったものの、それまでずっと中心で準備を進めていたということもあり、俺は企画から外されはしなかった。代わりといってはなんだが、なぜか後輩までアサインしてきた。本人は「部長にバレました」とあっさり自白した。


「バレたってなにがだ?」

「俺が企画書の手伝いしてたこと。んで、もともと新人の時にチーム組んでたし気心知れてるならそのまま一緒に手伝っておけ、だそうです」


 どうせ手伝うなら業務時間内に仕事としてきっちり手伝いをしろ、とのことだ。


「なんでお前が手伝ったって分かったんだ?」

「んー、強いて言うなら資料の作り方の癖? あと、俺の端末を一度経由してますからねあの資料」

「はぁ……」


 そんな程度で分かるものなのか。

 頭のいい奴らの考えることはよく分からない。


 そんなわけで、今後は久しぶりに仕事でも後輩と組むことになったわけだが、これは個人的に助かった。なにが助かるって、こいつがいると課長の態度がめちゃくちゃ緩和するのだ。


 さすが老若男女に好かれる男。


 目元と頬を赤く腫れあがらせていても、その実力は健在である。


 そんなこんなで定時あがりとはいかなかったが、残業もそこそこに切り上げ初仕事を終えて帰宅する。


 久しぶりの仕事で疲れたし、今日の夕飯はなにか簡単なものでも──と、思いながら鍵を開けると。


「あ、とおるくんだ! おかえりー!」

「お、先輩おつかれさまっすー!」


 年の離れた、だけどとてもよく似た兄妹たちが、まるで自宅のごとく出迎えてくれた。


「……なぜ」


 俺は冷静に靴を脱ぎ、コートをハンガーにかけ、カバンを棚に置きながら憮然と呟く。


「なぜお前兄妹が当然のようにここにいる? お前らの家はここじゃなくて隣だろうが」

「いやー、いつもお呼ばれするもの悪いと思って、今日は呼ばれる前に来ちゃいました!」

「そんな気の使い方、聞いたことねぇよ」


 あと多分、それは絶対に気づかいではない。世間で気づかいと呼ばれる類のものではない。


「つーか、部屋の鍵はどうやって……」

「先輩が、年末にモモに預けてくれた鍵で。ちゃんと返しに来ましたよ」


 はい、と手渡されたのは、俺が百瀬にお守りがわりに預けていた合鍵だ。


「人のなけなしの親切心を当然のように悪用するな。前世が魔王かなんかだったのかお前は」

「えー、ひっでー。だからこうやって、コピーを作ったあとでちゃんと返しにきたのに」

「勝手にコピーを作るなよ!?」


 想像以上の悪だった。

 魔王であってもここまでの無法はしない。


「ねーねー、とおるくんおなかすいた。今日のごはんなーに? モモがおてつだいしてあげるよ」

「あ、じゃあ俺も味噌汁作るー」


 人の家でなぜかいそいそと料理支度を始める兄妹たちを尻目に、俺はため息をついてエプロンを装着する。



 さて。今夜はどんな料理を作ろうか。


 やがてキッチンの方から、隣の家の兄妹たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 

 

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ビストロとなりの部屋 真楠ヨウ @makusu

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