おやすみなさい、また明日

 ピンポン、と呼び鈴を鳴らす。考えてみれば、この部屋の呼び鈴を鳴らすのは珍しい。

 待つまでもなく、すぐに扉はガチャリと開いた。後輩が不思議そうな顔を見せる。


「どしたんすか先輩? なんか用?」

「用ってほどじゃねぇけど……お前の今日の話でいくつか気になることがあって。あとこれ」


 差し出したのは、この三日間の百瀬の着替えた。もちろん、ちゃんと洗って畳んである。紙袋に詰めた子供服を差し出すと、後輩はどうも、と頭を下げた。


「ウワァ、柔軟剤の香りがする……あ、突っ立ってるのもなんなんで、入ります? 散らかってますけど」

「それは知ってる」


 その言葉が比喩でも謙遜でもない単なる事実であることは、よくよく知っている。


 幸い、帰宅したばかりだからか部屋はさほど汚れておらず(せいぜい、服が床に脱ぎ捨てられオモチャが散らばっている程度だ)足の踏み場に困るほどではなかった。ソファに座ると、後輩が缶ビールを持ってくる。


「百瀬は?」

「もう寝てます。良い子だから寝るのはえーの」


 さて、どう切り出そうかと悩んでいたら、自分も遠慮なくビールを飲みながら、隣にどっかりと腰掛けた後輩があっけらかんと言ってきた。


「どうせあれでしょ? 先輩が聞きたいのって『親父が本当に百瀬を諦めたか』どうかってやつでしょ?」

「……なんでわかった?」


 驚くこちらに、後輩がにやりと笑う。


「さすがに、昼間のあんな雑い説明だけで納得できる人間はいないでしょ。逆にわざわざすみませんね。モモが寝るまで待ってもらっちゃって」


 百瀬が寝る時間を見計らって訪ねてきたのだが、どうやらバレバレだったらしい。まあ、当然かもしれないが。

 それでも若干の気まずさを感じながら、俺は尋ねた。


「百瀬に聞かれたくないってことは、やっぱりまだ実家とのゴタゴタは片がついてないのか?」

「いや、そこんところは没問題ですよ。先輩が想像するよりも、多分五億倍くらいドロドロした感じの戦いではありましたが、一応ケリは付いてます。書面も交わしましたし、今後クソ親父は一切モモの養育に口出しをしてきません。ということになりました」

「……マジか? ていうか、一体どんなえげつない手段を使ったんだお前」


 いくら後輩と百瀬が実の兄妹とはいえ、普通に考えれば兄より父親の方が、子供に関する立場は絶対に強いだろう。親権とは読んで時の如く、『親』が持つ権利と義務なのだ。両親が他界しているならともかく、存命中の父親から娘の養育権を奪い取るのは並大抵のことではない。


「エゲツナイなんてそんな。単に武器になる材料揃えて、専門家の力を借りて、これ以上ゴネんなら出るとこ出ようぜーって言っただけ。あと、母親である美咲さんがこっち側だったってのがでかいかな。えーと、まとめるとですね。今回、俺は親父に三つの条件を提示したんでんすよ」


 その一、百瀬の母親の病状が回復するまでは、兄である自分が百瀬を引き取ることを承認せよ。

 その二、百瀬の進路は今後、本人の意思を尊重する。親が勝手に決めることは認めない。

 その三、先の二点を破った場合、百瀬を養育する資格の是非を専門機関に問う(ただしその場合、第一子である自分への過去の扱いを証拠として提出する)


「最後脅迫じゃねーか」

「え、そうですよ? 俺は証言力のある大人で、しかも親父に育てられた当事者ですからねー。これを利用しない手はないかと」


 当然ながら、この条件を提示された親父さんは激怒したという。しかし最終的には、後輩の意を呑まざるを得なかった。なぜならば──


「世間体ってものがありますからね。俺じゃなくてあっちには、だけど。俺はまあ、実家風評とか評判とかは今更どうだっていいんですが、あの人にとってはそうはいかないらしくて」


 後輩曰く親父さんはステレオタイプで時代遅れの──言い換えれば、昔ながらの家の評判やら格式やらをなによりも大事にする人で、だからこそ『子を虐待していた』などというレッテルを貼られるのは死んでも避けるだろう、と。


 案の定、後輩の予想通り、渋ったものの最終的には親父さんはその条件を受け入れた。 そうは聞いても、俺にはにわかには信じがたいのだが。


「お前が親父さんを脅迫したってのはまあ、納得できるんだが」

「納得できるんだ」

「けど、親父さんがそれに屈したっていうのが、俺の中でイマイチ消化できないんだよ。お前は確かにいろいろ準備はしたんだうけどさ、そうは言っても実際に出るとこ出て争ったら、負けるのは間違いなくお前のほうだっただろ? 絶対に勝てる勝負で、わざわざ自分の娘を諦める親なんているのか?」


 俺の質問に対し、後輩は。


 何かひどく、眩しいものを見たような、尊いものを見たような、嬉しいような泣き出しそうな不思議な表情を見せた。


「……先輩って、本当に良いご家庭で育ったんだろうな、ってよく分かりますよね」

「うちか? いや、普通だぞ。別にお前の家みてぇに歴史があるわけじゃねえし」


 我が家は先祖代々由緒正しい一般家庭だ。両親との仲は普通で、実家にだってそう頻繁に顔を出すわけじゃない。姉は人使いが荒く、お互いに独り立ちしてからは滅多に顔を合わせることもない。


 そう言うと、後輩はゆるやかに首を振った。


「そういう意味じゃなくて。なんか先輩を見てると、ご両親の人柄が目に浮かぶっていうか、いいご家族の中で育ってきたんだなって、そう思うんですよ。だけど世間は広くって、きっと先輩が想像したこともないような親ってのが実際にはいくらでもいるんです」


 俺の親父はそういう人間なんです。と、彼は静かに断言した。


「……俺はまあ、別にいいんですよ。今更、この歳になって親恋しいってわけでもないし。でもモモは──」


 後輩は、何かを言い惑うように一瞬口をつぐみ、だけど結局続けた。


「正直、最初に美咲さんから話を聞いた時は面倒臭えって思いました。実家とはとっくに縁を切ってたし、俺の中ではもう『なかったこと』になってたから。でも反面、


 これを引き受けたら、父親への嫌がらせになるのではないか、と。


 家を捨てたロクデナシの長男とは違い、まだ小さな妹が、兄と同じくその手の中から出て行ってしまったら、果たしてあの父親はどんな顔をするだろうか。


「そんな最低な気持ちで気楽に引き受けました。せいぜい、慌てて──吠え面の一つでもかかせられれば上等だって。俺にはそのくらいの仕返しをする権利はあるだろうって。なのに……だけど俺は、思ってもみなかったんです……そんな理由で預かった妹が、まさかあんなに……」


 声に。


 微かな湿り気が混じた気配を感じて、ちらりと見やり──ぎょっとする。後輩の薄い色瞳から、ちょうど涙の粒がこぼれ落ちるのを目撃してしまって。


「俺は馬鹿で、どうしようもないクソ野郎で……だけど、モモはもっと頭が悪かったんです。あいつ──あの子は、こんな俺に懐いてくるんですよ……俺は、親父への復讐のつもりで小うるさいガキの相手をしてただけなのに、そんな俺に対してちーちゃん、ちーちゃんって……あいつ、本当にっ、馬鹿で」


 抱え込んだ膝に顔を埋めた後輩が、くぐもった声で漏らす。涙に滲む声に鼻を啜る音が混じるのは、気づかないふりをした。


「最初のうちは、一時的に預かるだけのつもりで、バレたら面倒なことになる前に返せばいいやくらいに思ってました。でも途中から気が変わったんです。あの子を、誰も守ってくれる人がいないまま、あの家に帰したくなくなった」


 かつて自分が逃げ出したのと同じ環境に、妹を返したくなかった。

 だけど自分にその権利はない。だからそのために準備をした。勝算を持てるだけの材料を揃えて勝負に出た。


「……だったら」


 俺は振り絞るように声を出した。

「だったら、なんで黙って出て行ったんだ。そんなに大事な相手なのに、何も言わず勝手に消えてんじゃねーよ! お前がいない間、百瀬がどんな思いをしてたか分かってんのか!?」


 全てを話すことは無理でも、少しくらい相談をしてくれていれば。

 何も事情がわからないまま、嘘と言い訳で塗り固めて過ごすしかなかったあの日々を、お前は知らないから。


 だけど俺の言葉に、後輩は泣き笑いのような表情でくしゃりと顔を歪めた。


「すいません……だけど、言えない。言いたくない。こんなこと、モモだけには絶対に知られたくなかったんです。よりによって、あいつの親父と兄貴が、こんなロクデナシだなんて……」


 だって、モモはあんなにいい子なのに。


 嗚咽の狭間に漏れる後輩の声からは、普段、彼が鎧のように身に纏っている取り繕った気配が全て剥がれ落ちていて、多分、今この瞬間に漏れ出た言葉こそが、紛れもなく後輩の『本心』なのだと確信できた。


 膝を抱えて鼻を啜る後輩に、しかしこういう時にかけるべき言葉も思いつかず。俺は黙ってぐびり、とビールを飲んだ。


「……あの、先輩」

「あん? なんだ」

「……俺、恥を忍んでいろんな打ち明け話とかして泣いてるんですけど。人としてアンタ、なんか言うこととかないんですか」


 そうは言われても。


 自慢だが、俺はこういうシーンで的確な慰め言葉とかをかけられるタイプではない。むしろ、そんな気の利いた部分があるなら、元カノと別れていない。これで泣き出したのが百瀬だったら、まだ抱きしめるなり頭を撫でるなりとか慰める方法も思い浮かぶが、相手は成人過ぎた野郎である。一体どうせよというのか。


 俺は戸惑ったもののさりとて特に解決策も浮かばず、最終的に手を伸ばして近くにあったティッシュ箱を箱ごと渡した。渡されるまま素直に受け取った後輩が、俯きながら肩をふるわせ、やがて堪えきれないように「ふくくくく……」と笑い声が漏れる。


「ティ、ティッシュ箱って……いや間違ってねーけど、泣いてる相手にティッシュ箱ってアンタ……本っ当にデリカシーねえな!」


「うるせぇな。他にどうしろってんだてめぇ」


 腹を抱えてゲラゲラと笑い出した後輩に、憮然と返す。生憎だが、泣いてる野郎への付き合い方なんて特殊な技術、人生で一度も学んだことはない。これからも、必要とされる機会がないことを願いたい。


 俺は少し温くなってしまった残りのビールを一気飲みすると、立ち上がった。

「あれ? もう帰るんすか先輩」

「ああ。聞きたいことは聞けたからな。俺としちゃとりあえず、お前ん家の問題がひとまず片付いたってのが確認できれば、それで充分だ」


 片付いたといってもそれは一段楽みたいなもので、きっとこの先にも彼ら兄妹が解決していかなければならない問題は山積みなのだろうが、それは彼らの物語であって、俺が関わるか否かはまた別である。


 俺は彼らの家族でもなんでもない。あくまで、ただの隣人なのだから。

 飲み終わった空き缶を濯いで片付けると、後輩は目元と頬が赤く腫れたものの、すでに涙の気配の去った顔で笑った。



「はい。んじゃ、おやすみなさい先輩。また明日」

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