パンケーキと真実
道路で立ち話をするのもなんだから、場所を移しましょう。と、現実的な提案をしてきたのは後輩だった。近くにいい店がある、という怪しい文句に従って案内されたのは、こじんまりとした喫茶店だ。
中に入ると他に客の姿はなく、カウンターの奥で老人がのんびりと新聞を読んでいる。店主らしきその人物に一声かけて、後輩は勝手知ったるとばかりにずんずんと奥に進んでいった。
「この店、昔はよく通ってたんですよ。客がいないから落ち着いて話するにはうってつけだし、こう見えて味は確かなんです。特にナポリタンが絶品で」
先輩の飯ほどではないですけどね、と冗談ぽく嘯く姿は、まるきりいつもの後輩だ。殴られた頬だけが痛々しく腫れているが、それ以外はまるで変わらない。
後輩は兄の服の裾をぎゅっと掴んで離さない妹のためにサンドイッチとジュースを、そして自分用にナポリタンとコーヒーを注文した。俺は迷った末に、おすすめのナポリタンではなく厚焼きパンケーキとカフェオレを注文した。
「先輩、意外と甘党ですよね」
「別に顔で飯食うわけでもねぇしいいだろ。それに、店で食べる料理は自分が作る時の参考にもなるしな」
「そうか…料理する人ってそういう発想になるんだ」
それでも感心したように頷きながらブラックのコーヒーを啜る後輩の方が、俺より遥かに様になっているのは、癪だが認めないわけにはいかないだろう。くそ、この野郎。平然とブラック飲みやがって。
「──で、どこから話ます? ここまで来たらもう隠し事は一切なしで、聞かれたことに素直になんでも答えますよ」
「じゃあ一つ目。なんで連絡を返さなかった」
ようやく本題が始まった気配に、俺はずばりと切り込んだ。
対する後輩は「なんだ。そんなことか」と言いながら、ポケットからスマホを取り出した。正確には、表面の液晶がバキバキに壊れたその残骸を。
「……なんだこれ」
「帰った初日に、キレた親父にぶっ壊されました。いやー、流石にスマホが壊されるのは想定外でしたね。おかげで、ここ数日不便で仕方ねーのなんの」
人間、もうオフラインでは生きていけないんですねぇとしみじみ語る後輩の口調には妙な実感が籠っていて、本人にとっても本当に予想外のアクシデントだったことが窺える。あまりに予想外の真相に、俺は思わず拍子抜けした。
まさか電池切れでも無視されているわけでもなく、端末そのものの故障とは。
道理で連絡がつかないわけだ。
「だからって、電話の一本くらい……」
「スマホに連絡先が入ってるから先輩の番号もアドレスも分からないし、うちは家電もねーし、実家にいた間は軽い軟禁状態でネットにすら触らせて貰えませんでしたからね……俺のほうからも連絡取りようがなかったんです。すみません」
なんだそれは、本当に現代日本の話なのかと思わず疑いたくような話を平然とした後輩は、申し訳なさそうに頭をさげた。
「納得してくれました? なら俺からもちょっと質問なんですけど先輩、仕事はどうしたんですか? 今日から仕事始めのはずですよね。うちの会社」
「ああ、それか。サボった」
「はぁ!?」
あっさりとした返答に、後輩が裏返った声を上げる。百瀬は一瞬びっくりした表情を浮かべてから、すぐまたサンドイッチからレタスを抜き出す作業に戻った。
「いや、ちゃんと昨日のうちに課長に連絡は入れたぞ。なんで、今日は朝から有給だ」
「朝からって……あんた、今日は朝一でブラジルとの会議があったはずじゃ……!?」
後輩が殴られた時にすら出さなかった焦りの声をあげるが、こちらからすれば、この野郎ここまでのことをしでかしておいて、何を今更と言った感じだ。
「お前、阿呆か? 隣に住んでいた後輩が年末に突然失踪して、挙げ句の果てに幼い妹を残したまま音信不通になってたんだぞ? その状況で呑気に会社に行けると思うか?」
ちらりと向かいに座る百瀬を見る。今はもう比較的落ち着いた彼女は兄の隣で、お出かけ用の鞄から取り出したシルバニアの人形(ウサギ)に、せっせとレタスを食べさせていた。
「ううっ……重ね重ね本当にすみません……それじゃ例の企画は……」
「課長に連絡したっつったろ。そのまま資料を送って、今日の会議の代理を頼んである」
電話で平謝りしながら事情を説明したとき、課長は「本当に俺でいいんだな?」と確認してきたが、こちらとしては是非もない。結局、俺の事前準備やら何やらは全て課長の手柄となってしまったわけだが、こんな土壇場での休みをその程度で認めてくれただけで御の字だ。
だから別に、後悔はしていない。
期待を裏切ってしまった申し訳なさはあるが。
しかし後輩ときたら、当人である俺よりもずっとショックを受けた顔をしていた。ともすればまるで、自分の企画がポシャったような悲惨な表情で、絞り出すように呻く。
「なんか……本当に、すみません……せっかく先輩が頑張ってた仕事を、俺なんかのせいで……」
「お前は関係ねえ。強いて言うなら百瀬のためだ」
理由はどうあれ、今日休むことを選んだのは俺で、決めたのも俺だ。別にこいつに謝られる筋合いはないし、責任を押し付けるつもりもない。
それは当然のことなので素っ気なく告げるが、後輩には気遣いと取られたらしい。なぜか決意に満ちた表情で「迷惑かけた分は、ちゃんと俺が責任とりますから」と妙に力強く断言された。
「責任ってなんだ。お前は一体、何に対するどんな権限を持ってるんだよ。そんな与太話より、そろそろお前が失踪してた理由を教えろ」
後輩はきょとんとなった。
「え? 先輩、その辺のことはもう知ってるんじゃなかったの? こんなところまで、わざわざ迎えにくるくらいだし。てっきりうちの事情はお見通しなもんかと」
「やめろ。勝手に人を察しのいいキャラにして説明を省こうとすんな。ここまで来れたのは、お前の部屋で百瀬の保険証を見つけたからだ。ちゃんと一から事情を説明しろ」
「そうだった……そういや、先輩は察しがいい系のキャラじゃないというか、むしろその対極だった。んー、でも保険証見たってことは、モモと俺の苗字が違うってことは知ってるんですよね?」
問いかけというよりは確認するような後輩の言葉に、俺は「ああ」と頷いた。
あの日。後輩の部屋で発見した百瀬の保険証には、彼女のフルネームが書いてあった。
『久遠寺百瀬』と。
あれを見た瞬間、俺の脳裏に例の探偵女史の姿が浮かんだ。
曰く『親御さんが探している百瀬という女の子』。
曰く『足立百瀬という名前の子供の行方不明届は出ていない』。
なんてことはない。行方不明届がないのは名前が違ったからだ。
だけど、それを知って尚、俺が警察への相談に踏み切れなかったのは──
「つっても俺たち、義理の兄妹とかってわけではなくて、ちゃんと血は繋がってるんですよ」
「それは見ればものすごくよく分かる」
そう。この二人の兄妹があまりにもそっくりだったからだ。実際、こうして並んでいるのを見ても、この兄妹たちはそっくりだ。後輩を子供にして、性別を入れ替えたらきっとそのまま百瀬になる、と思えるぐらいには。
うん、と後輩が軽く頷く。
「俺たち、父親が同じで母親がそれぞれ別なんです。俺の母親は小さい頃に死別してて、百瀬は後妻さんの娘だから」
平日の午後。緩やかクラシックの流れる、世界の時取り残されたようなひとけのない静かな店内で。後輩は穏やかに語りだした。
「俺の実家──もう戸籍抜いてるけど、便宜上は実家って言っておきますね──は、久遠寺って言うんですけど、まあ、地元の名家というか、この辺りじゃそこそこ名の知れた古い家なんですよ。親父はそんな家の、本当に悪い意味でステレオタイプな日本男児ってやつで。長男の俺はそれはそれは小さい頃から厳しく育てられたもんでした。当時は躾で通るけど、今だったら虐待って言われるレベルで」
そんな過去を語っている後輩は、まるで他愛無い世間話でもしているような気楽さだ。手にしたカップのコーヒーを、美味そうに一口含む。
「なので当時から自立心旺盛だった少年時代の俺は、小学校卒業と同時に家を飛び出て一人暮らしを始めたのでした」
「独立が予想以上に早いな」
真剣な話だと思って聞いていたら、後輩のアクティブすぎる行動のせいで神妙になりきれなかった。
ガキの頃からそんなだったのかお前。
「あれ? でも確かお前、結構有名な男子高の出身じゃなかったっけ?」
「うん。全寮制のね。家にいたくないから、寮のある学校選んで受験したの。偏差値さえ高かけりゃ親も文句言わねーし」
実際、勝手に受験をしたのが日本有数の名門校だったため、親父さんには特に咎められなかったという。
そりゃそうだろう。後輩の出身校は全国でも御三家と名高い学校だ。あそこに入学できて咎める親はあるまい。
自立心が旺盛というべきか、小賢しいというべきか。子供時代の後輩に俺が密かに舌を巻いていると、百瀬が突然まっすぐに手をあげた。
「ちーちゃん! モモ、デザートたべてもいいですか!」
「おう! いいぞ! 今日は特別だ。アイスでもケーキでもなんでも好きなもの食え!」
気前のいい兄の言葉に、百瀬がわーいと歓声をあげて迷わずにチョコレートパフェを頼む。この子はいつまでもこのままでいて欲しい。心からそう思った。
「幸いなことに俺、当時からそれなりにまとまった金は持ってましたからね。母方の実家が素封家だったもんで。母親が早くに亡くなったおかげで、あの人が相続するはずだった遺産が代襲相続で全部俺に回ってきたんです」
「悪ィ、代襲相続ってなんだ?」
「簡単に言うと、本来の相続権を持つ人間が相続前に亡くなってしまった場合、その権利が子供に移ること。ちなみにこの場合、相続権があるのはあくまで母なので、夫婦の共有財産とはならず、全部俺に相続されます」
「ふむ……」
そう言われてしまえば、はいソウナノデスカとしか言いようがない。
先祖代々、由緒ある庶民である我が家にとっては相続なんて縁遠い話だ。
俺も長男だが、実家から受け継ぐものなんて母が育てた鉄鍋くらいしか思いつかない。
そんな事情で、行動力に加えて独り立ちに充分か資金まで持っていた足立少年は、実家に帰らぬまま大学を受験し、成人と同時に実家から籍を抜き、以後は久遠寺ではなく、恩のある母の姓である足立を名乗ることにしたそうだ。行動力がありすぎる。
ちなみに、母親の遺産というそれなりにまとまった額をもっていたはずの後輩が、それでも社会人として働くことを選んだのは父親に対する意趣返しの部分もあったらしい。俺は、あんたのようにはならない、と。自分の力で生きていってやると。
「そんなわけで、大学卒業後は社会人として真面目に働いていた俺ですが、ある日、親父と再婚したって女性から連絡が来たんです。娘を助けてほしい、と」
父親が再婚していたことを知ったのは、その時が初めてだったという。妹の存在も。
「モモのお母さん──美咲さんて言うんですけど、身体を壊して入院することになって。どうしても一人娘を家に残していくのが心配だから、保護してくれって言われたんです。このままだと」
──娘が死んでしまうかもしれない、と。
他の人に話しても、なにを大袈裟なと言われるかもしれない。百瀬の母親はいわゆる一般家庭の出身で、身分違いの家に嫁いだりしたから馴染めないだけだ、と。
だが、当時の彼女は本当にそう感じていたのだ。単なる躾と呼ぶには、幼い娘に対する父親の態度は度を超している、あまりにも厳しすぎる、と。
一緒に暮らしている間は庇うことができた。でも自分が入院なんてことなったらこの先、父親から娘を守れない。だから彼女は助けを求めた。娘の『兄』にあたる人物に。なぜならば。なぜならば──
「俺だけは彼女の言葉を『大袈裟』とは言わない、と思ったんでしょう。親父から同じ目に合わされて家を飛び出した俺ならきっと、モモの味方になると。だから俺は、彼女の頼みでモモの保護を引き受けたんです」
最初は、入院している間だけということだった。しかし、彼女の容体はいつまで経っても回復しなかった。
「親父が家の事がまったく出来ないっていうのは本当なんですよ。なので、入院中はモモは美咲さんの親戚に預かってもらってるって事にしてました。でも、さすがに半年以上続くとそれで誤魔化しきれなくて」
なので後輩は、小学校卒業以来、実に十数年ぶりに実家に戻り腹を割って親父さんと『交渉』することにしたそうだ。百瀬を自分の元に引き取りたい、と。
「結果は……?」
後輩は清々しく笑った。
「まー、最初の方はそれこそスマホぶち壊される程度にはキレられましたけどね。最終的には大勝利ってやつですよ。今後はちょくちょく実家に顔見せにいく必要はありますが、美咲さんが回復するまでモモはうちで預かるってことで決着しました」
後輩は本当に嬉しそうな笑顔で、サンドイッチを完食してチョコレートパフェに手を出している隣の妹に、ぐりぐりと頬擦りした。
「ふぅん……じゃあお前も、親父さんと仲直りできたのか」
「え、それは無理」
後輩は即答した。
「無理というか……ガキの頃のことは、もう過ぎたことだし気にしてないんですが、そもそも抜本的に気が合わないんすよねー、あの人と。正直、モモのことがなけりゃ一生帰らなかったと思います」
俺は兄妹の親父さんに面識がないので、その言葉になんと返したものか困ったが。ともあれ、これで一件落着ということらしい。
俺としては、まだ解決していないいくつかの疑問が残っていたが。
とりあえずその場は、会計を済ませて三人でマンションへと帰った。
注文したパンケーキは、名に恥じぬ分厚さでとても美味しかった。
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