わるいおとなと正しい子供


 辿り着いた先は、東京から電車で約一時間ほどの場所だった。


 通勤電車に慣れている身としては、さほど長いとも思わないが、普段は自転車と三輪車くらいしか乗らない四歳児にとっては、なかなかに大変らしい。百瀬は途中ですやすやと眠ってしまった。


 眠った子供をわざわざ起こすのも面倒なので、おぶったまま乗り換えを済ます。子連れの長距離移動は大変なのだ。長距離ではなく、近場でも大変だが。 


 俺は東京生まれの東京育ちで、根っから『都会の子』だと自負しているが、この辺りであれば駅を降りても都内の風景と殆ど変わりはない。違いといえばせいぜい、富士山以外の山が見えることだろうか。ひとけはまばらだが、それは単に今日が平日だからだろう。


「とおるくん、もうついた?」

「着いたけど、まだ駅だからな。ここから歩くぞ。眠いならこのままおぶってってやろうか?」

「ううん。モモ、赤ちゃんじゃないから自分であるけるよ。もうおねえさんだからね」


 自称、四歳のおねえさんはそう言って俺の背中からえんやこらと下りると、隣に並んで手を繋いできた。


 特にすれ違う人のいない道を、百瀬を一緒にのんびりと歩く。駅からタクシーを使っても良かったが、別に歩けない距離でもない。それよりも、ここから先どうするかを考える時間が欲しかった。


 なにせ、勢いでここまできてしまったが、具体的なプランがあるわけではない。このまま兄妹たちの実家まで押しかけてもいいが、それも問題がある。俺は隣を歩く子供に、ちらりと視線を送った。


 問題というのは他でもない。この百瀬だ。 


 兄妹たちの事情を鑑みるに、多分この子は実家に連れ帰らない方がいい。かといって、ここまできて後輩を捕まえずに帰るという選択肢はない。


 せめて後輩のスマホに連絡がつきさえすれば、あいつだけを近くまで呼び出すことも可能なのだが。


 いっそ、百瀬は近くの電柱の影にでも待機させておいて、俺だけが訪ねるという手もあるか。出社日なのに連絡がつかないので、上司の指示で迎えにきたとかなんとか言って。俺と後輩は同じ会社なので、この言い訳は別に不自然ではない。念のため、会社の名刺も持ってきているし。


 よし、これでいくか。


 そうと決まれば、先に事情を話して百瀬と作戦を練っておかなければならない。少し早いが、その辺のファミレスに入って昼食がてら作戦会議と行くか。いっそのこと、家の近所をふらふらと出歩いている後輩にばったり遭遇でも出来れば話が早いのだが。そんな都合のいい話が、あるわけが──


「……あれ? モモに……先輩? 二人とも、どうしてこんなところに……」


 あるわけが……あるわけが──


「ちーちゃん!!!!!!」


 あった。


 あまりに都合の良すぎる展開に、俺が思わず呆然と立ち尽くす横で、いち早く反応したのは百瀬だった。繋いでいた俺の手を振り解き、脇目も振らず一目散に兄に向かって走り出す。


 走り出してそして──まったく失速しないまま、百瀬は弾丸のように勢いよく兄の懐に飛びついた。


「ちーちゃん!!!!ちーちゃん!!!!ちーちゃんだあー!!!!!」


 大声を上げて泣き叫ぶ小さな妹の全身全霊の突撃を、兄は驚きながらも危うげなく受け止める。


「え、ちょっ、ちょっと、待って。マジでなんで二人がここに──」


 首にすがってわあわあ泣き叫ぶ妹の背中を宥めるようによしよしとさすりながら、珍しく混乱している後輩が正気に戻るのを──待つ気はなかった。


 俺は百瀬の後を追うように、戸惑う後輩へと一足飛びに迫ると、渾身の力を込めてその顔面を殴り飛ばした。


「──がっ!?」


 まったく手加減も容赦もない、完全に本気の一撃である。ここまで本気で人を殴ったのはきっと学生時代以来だ。


 派手に殴り飛ばされた後輩が、それでも妹を手放さなかったのはさすがというべきか。しかし衝撃で唇を切ったらしく、口の端から血を流している。いつもの男前が台無しだ。


 言ってやりたいこととか、聞き出したいこととか正直、山ほどあったのだが。それらが全部まとめてどうでもよく思えるくらいには、渾身の一撃を叩き込んでやった。


 正直。

 ものすげぇスッキリした。


「……ってぇ」

「よォ、後輩。殴りにきたぞ」

「……っ、殴ってから、言うなよ、この……蛮族っ……!」

「蛮族ってまた、罵倒が随分と時代錯誤だな……」


 一応、殴られることをしでかした自覚はあるのか、痛そうに頬をさすりながらも反撃はしてこない。代わりに、烈火の如く反応したのは百瀬だった。


「コラー!!! ちーちゃんをいじめるなー!!!」


 先程まで兄の首っ玉に抱きついてわあわあ泣いていたとは思えない、実に機敏な切り替えである。百瀬はウサギのように真っ赤に腫れた目で、まるで親の仇でも見るかのように、ぎっと俺を睨みつけていた。  


 厭悪でもなく憎悪でもなく悪意でもなく殺意でもなく、自分の大好きな人を傷つけられたことに対する純粋な怒り。


 溢れんばかりの怒気で、きらきらと恒星のように燃えがある百瀬の瞳を見ながら、俺はこんな時だというのに、少しばかり愉快な気持ちになっていた。社会人になって以来、こんなに小気味いい怒られ方をしたのは実に久しぶりだったので。


 短い両手を目一杯に広げて、小さな背中に兄を庇った子供が『兄を苛める悪い奴』をやっつけようと、俺に向かって殴りかかってくる。


 まるでそれは、いつかの夜の再現だ。


 あの時の俺は、百瀬にとって『見ず知らずの怪しい大人』だった。だけど今は。


 小さな戦乙女が、大声をあげながら『家族をいじめる悪い大人』を退治せんと、勇しく飛びかかってくる。子供とはいえ、間違いなく渾身の一撃である。喰らったらそれなりに痛いだろうし、避けるのは簡単だった。


 でもまあ、確かに。


『人を殴ってはいけない』

『誰かを傷つけてはいけない』


 これらは、普段から『大人』が口を酸っぱくして子供に教えていることだ。


 ならば『大人』である俺が、人をぶん殴っておいてペナルティなしというのもまずいだろう。


 誰かの見本たろうとするならば、せめてその誰かに恥じない自分であれるように。


 具体的にいうと『ダブルスタンダードはカッコ悪い』。


 だから俺は、彼女の一撃を避けることなく粛々と受け止めようとし──

 だけどそれは結局、俺に届くことなく寸前で止められた。


「駄目だよモモ」


 あの夜とは違い。

 今度はしっかりと意識のある兄が、妹の凶行を後ろから抱きしめて止めた。


「そんなことをしたら駄目だ。人に乱暴なことしちゃいけないって、兄ちゃんいつも言ってるだろ?」

「でも、でも、だって……! 先にぶったのはとおるくんだったよ! とおるくんがちーちゃんをいじめたの、モモ見てたもん!! そんなことしちゃいけないのに! だから、モモがちーちゃんを守るんだもん!!」


 妹は、果てしない理不尽に抗うようにぼろぼろと涙を溢しながら、必死に抗議した。まるで駄々っ子のような有様だが、彼女の言うことは正しい。圧倒的に正しくて──きっとこの場で、彼女だけが正しい。


 突然殴りかかった悪い大人も、突然失踪した悪い兄にも、この子の正義を止める資格はない。それでも後輩は、暴れる妹をしっかりと抱きしめながら、宥めるように縋るように懇願するように言った。


「ありがとう……でも違うんだ。兄ちゃんは虐められてたわけじゃなくて、先輩に叱られてたんだよ」


 妹の後頭部に、こつんと頭を押し付けるように屈み込んでいる後輩の表情は、百瀬の影になっていて見えない。だがなんとなく、その肩が震えているような気がした。


「俺がどうしようもなくバカでクズだから、モモをこんな風に泣かせちゃう悪い奴だから、先輩がちゃんと叱ってくれたんだ…ごめんなモモ。情けない兄ちゃんで……駄目な兄ちゃんで、本当に……ごめんなさい」



 気のせいかもしれないが。どこか弱り切った後輩の声は初めて聞くもので。そんなはずもないのに。まるで泣いているようだった。


 

 

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