潮の蝉
若槻きいろ
第1話
潮のにおいがした。
朝七時過ぎ。
宍戸湖の辺りは、日曜であるのにそれを感じさせない静寂で満ちていた。
九月の始まり。終わる夏。鳴かない蝉。水面が揺れる音さえしない。
すべてが置いていかれたような、朝の始まりだった。
首には愛用のカメラをぶら下げ、一人ひたすら舗装された道を歩く。
ずっと潮のにおいがする。
手持ちのスマートフォンでぺぺっと調べれば、どうやら海水と淡水が混じるかららしい。ははあ、と読み進めるとカップルにおススメ! みたいな文字が視界に入り、衝動で画面ごと消し去る。
いいし、一人だし。誰ともなくへっ、と口について自虐しながらまた歩き出す。
陽が高くなる。徐々に暑くなる気温を背に受けて、塩気の混じる風を吸う。結わいた髪が流れていく。
静かだった。
薄く色づく朝縹混じりの空は、今しか見れないとっときな気がする。
夕焼けが絶景らしいが、生憎その時間には既にいない。
でもこれでいい、こっちの方が私らしい。
八時が過ぎて、蝉がけたたましく騒ぎ出す。たった十日の命をこの夏に捧げている。充分生きたかい、なんて私が言えるはずがない。
君らの先を、何十倍もの時間を、私は生きるのだ。明けて更けるのを、何度も何度も。
密度が異なる生だ。君らが今知る生を、私はまだ知らない。
人が見える。走る人がいる。
音が、消えた。けれど、振り返りはしない。
のんびり行こう。まだ朝は始まったばかりだ。
潮のにおいが止んだ。
潮の蝉 若槻きいろ @wakatukiiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます