第16話

 浮気の定義は人によって異なる。キスは浮気か、肉体関係を持っても好きじゃなければいいのか、逆に想った段階で浮気か。価値観など人それぞれだ。

 他の子に浮気しようなど考えたこともないし、浮気に該当しなくても楓が嫌な気分になることはしたくない。二人の間にあるルール故ではない。そう思っているからルールにしたのだ。

 彼女の全てをわかっているわけじゃないが、そこには気を付けていた。

 ただ、一つだけ言えることは、俺が思っていたよりも彼女は嫉妬深く心配性だったということ。



 楓とは高校は同じだったが家は近いとは言えず、なんなら住んでいる市も異なる。遠いという程ではないので、その気になれば自転車を使って三十分くらいでお互いの家まで往けるだろう。

 普段は電車かバスで行き来することが多いがそう離れた場所という印象はない。

 付き合い始めた頃はこの距離が長くもどかしく感じたが、今となってはちょうど良い距離に思えている。

 遠くはない。だから、目が覚めたら、昨晩までいなかったはずの恋人が自分の部屋に居るというのは不思議であれど不可能ではない。

 楓が俺の家を訪ねれば、家族は部屋まですんなり通す。親からの信頼は厚いし、姉妹たちも彼女のことをとても気に入っている。朝七時くらいであっても歓迎されるだろう。

 だから、以前にもこんなことはあった。その時はデートの約束に待ちきれずに部屋まで来たのだ。

 普通ならば寝ぼけた頭で戸惑いながらも好きな人の姿を朝から見られたことを喜ぶかもしれない。

 その恋人が明らかに不機嫌でなければ。


「それで昨日の浮気未遂についての弁明は何かありますか?」

「えっ、渚また浮気したん?」

「そうなんですよ。聞いてくださいよ、菫さん。私に内緒で私の友達二人と食事に行ってたんですよ。しかも二人ともフリーで彼氏欲しがってるような可愛い子ですよ。酷くないですか?これは浮気と言っても過言ではないですよね?」

「それは浮気やな。ごめんな、楓ちゃん。こいつのことは煮るなり焼くなり好きにしてええよ。でも、殴るんやったら傷が見ない所にしてや。」


 起きるなり、楓に言われるままに顔を洗い、着替え、朝食の前にリビングで正座をさせられている。

 家族には見られたくない姿だが、幸いにも両親は朝早くに、妹は楓と入れ替わりで外出し、姉以外は家にいない。できれば姉も居てほしくないし、彼女だって弟と彼女の痴話喧嘩など見たくもないだろうと思っていたが、菫は案外ノリノリのようだ。


「別に殴ったりはしません。私が渚に酷いことするわけないじゃないですか。さあ、渚、何か話すことは?」

「いや、内緒ではなかったと思うだけど。」

「確かに渚からは連絡がありました。行くことが決まってから。食事が始まる直前に連絡するってのはもう事後連絡じゃん。それも私がバイトで見れない時間だってわかってたはずだよね?」

「いや、連絡が遅れたのは悪かったと思ってるけど、内緒にしてはわけではないし、下心も全くないから安心して欲しい。誘われて、あの二人なら良いかなって思ったわけで。」

「下心なんてあったら即刻有罪に決まってるじゃない。」


 昨日、あれ以降連絡が返ってこなかったことが気になってはいたが、ここまで怒っているとは思わなかった。

 楓の後ろでニヤニヤしながら話を聞いている姉への苦言は後回しにしなければならなそうだ。


「しかも、聞いたところによると最初は花穂と図書館でデートしてたらしいじゃないですか。それについて渚からは全く聞いてないんですけど?」

「いやいや、それは誤解だって。」

「うわー。それは浮気だよ浮気。可愛い彼女がバイト中に他の女の子に現を抜かすなんてサイテーだよ。我が弟ながら恥ずかしい。」

「ややこしくなるから菫は黙ってて。あれが図書館で本を読んでたら花穂ちゃんが来て、お互いサークルまで時間あったからそれぞれ勉強してただけでデートとかそんなんじゃないから。それで、その後、沙智ちゃんとご飯食べるって話になっただけでさ。」


 思わず早口になりながら状況を説明する。

 まさか図書館での話まで伝わっているとは思わなかったし、それを追及されるとは更に思ってもなかった。


「ふーん。まあ、渚のことだから別にやましいことは何もなかったんだろうけど、それでも彼女としては心配なわけです。私は別に今回の事だけでこんなに怒っているわけじゃない。最近の渚は少し無防備が過ぎるから、こうやって反省してもらう機会を作ったわけで。」

「渚は他にも浮気してるの?」

「浮気は一つもしてません。それに異性の知り合い増えたら隠さずにちゃんと話してるじゃないか。」


 黙っていると浮気者のレッテルを貼られそうだったので抵抗する。

 彼女を不安にさせているのは俺が悪いのかもしれないが、身に覚えのない浮気までさすがに許容できない。


「他には浮気はしてないですけど、この頃色んな女の子と仲良くしすぎです。サークルにバイト先に私の友達にと手広く仲良くなってるんです。菫さんにからも言ってあげてください。」

「そうだね。渚はもう少し楓ちゃんの気持ちを考えた方が良いよ。三年くらい付き合ってわかったつもりになってるかもしれないけど、そういう時が一番危ないから。楓ちゃんから見たら女の子と仲良くしすぎだってこと気づいてなかったでしょ?逆に、楓ちゃんも言いたいことがあったらもっとはっきり言った方が良いかもね。不安とか心配とか抱え込んでても、恋人なら気づいてくれるなんて思ってるうちはすれ違うよ。」


 明らかに無茶ぶりだったが、応えてしまうのがこの姉だ。

 だが、揶揄うではなく真剣なアドバイスが来るとは楓も予想してなかったようだ。

 いつになく真面目なトーンで話す年長者に俺たちは何も言えなくなってしまう。


「二人はお互いのことを妙に信頼しすぎていて逆に危ないんだよ。火に油を注ぐようなことを言うけど、このままだと渚は詩音ちゃんの時と同じことを繰り返す。」

「今は詩音のことは関係ない。」


 知っている相手とは言え、いや、だからこそ恋人の前で元カノの名前を出されたことに過剰に反応してしまう。

 楓はそう言った反応を見逃してくれるようなタイプではない。


「詩音ともこんなことがあったの?」

「すれ違って少し喧嘩しただけ。それで別れたから。前の話だよ。今は関係ない。」

「何か隠してる。」


 不機嫌を通り越して無表情になっている楓が座っている俺に対して目線を合わせるように距離を詰める。

 そんな状況に菫は油だけじゃ足りずに爆弾を投げ込む。


「あの時、別れた原因はすれ違いからの渚の浮気だってあの子からは聞いたけど?」

「はぁ?」


 楓から聞いたことのないような怒りのこもった声が出る。

 場が凍りつく。

 息をするのがしんどいほどの緊張感と加速する鼓動。

 一言でも発しようものなら壊れてしまう空気の中、考えうる最悪のタイミングで一番効果的な発言をした姉を恨みながらも、楓の様子を伺うしかなかった。

 そして、その沈黙は思わぬ形で破られる。


「ただいま。っていうか忘れ物取りに来ただけ。菫、渚は起き――」


 そんなことを言いながら慌ただしくリビングの扉を開けて入って来た涼花がその普段は違う雰囲気を感じてか停止する。

 しまったという表情を隠せずに数秒黙ってから口を開く。


「――えーと、もしかして修羅場ってやつ?私、財布取りに来ただけだから行くね。あー、喧嘩はほどほどに。失礼しました。」


 逃げ出すように自室へと去って行く妹を見送る。

 普段通りな涼花の姿に心なしか場が和らいだ気がした。

 楓が俺から少し距離を取って、立ち上がる。


「渚。今すぐとは言わない。むしろ今はダメ。明日、私の部屋に来て説明して。全部、隠さずに。待ってるから。」


 そう言うと荷物を手に取り、家を出ていく。

 去り際に楓の見せた満面の笑みが何よりも怖かった。


「私も少し悪いけど、頑張って。」


 どうしていいかわからない俺を置いて菫は部屋に戻る。

 一人残された俺はとりあえず朝食を食べるところから始めることにした。

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明日、開く蕾は 中野あお @aoinakayosa

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