立ち喰い無頼 リローデッド

阿井上夫

立ち喰い無頼 リローデッド

 立喰者による究極の『注文技オーダーテク』と、店主である胡麻塩頭の大将の返し技の見事さで、首都圏の”立ち喰い蕎麦屋オーダーランキング”のトップを二十年間守り続けている、その筋では有名な立ち喰い蕎麦の名店『大将』であるが、それゆえ『異種格闘技戦』と無縁ではない。

 彼らは、来店した途端にすぐに分かる。

 身に纏った空気が、立喰者とは全く異なるからだ。

 それは、

「もはや夜の一人飯も怖くなくなった四十路独身女の鉄面皮」であったり、

「満員電車で周囲の人間が軒並み眉を潜めたであろう、ニンニクの香り」であったり、

「朝ご飯で晩ご飯の残り物を食べたことが分かるほどのスパイシーさ」であったりするわけだが、それを察知した時の大将の眼光の鋭さは、並ではなかった。

 喩えるとしたならば「普段とは異なる獲物を見つけた猛禽類の眼」であろう。

 私はそれを「狩りの時間ハンティング・タイム」と呼んでいた。

 そして数ある異種格闘技戦――ハンティング・タイムの中でも屈指の名勝負と言われているものが三つある。


 まず最初は、大手牛丼チェーン界隈からの刺客、『松屋吉野まつやよしの』との勝負で間違いないだろう。


 立喰者の中には、巨漢マック・ドナルドとの「ハッピーセット」勝負を挙げる者もいるだろうが、あれは「おまけ」がメインの決着だったので、私としてはあえて外したい。

 ともかく、女子が麺類を食するにあたって基本となる「長い黒髪を後頭部できっちりと結わえた」姿で、黒いセルフレームの眼鏡を装着し、皺のないダークなパンツスーツに身を包んで、まるで闇夜に浮かび上がる店名表示灯のようにそこだけが浮き上がって見える、オレンジ色のハンドバックを手にした彼女は、セルフレームを右手の人差し指と中指で軽く持ち上げると、

「ネギヌキ、ツユダク、ツメシロで」

 と、生真面目な声で滑らかに注文した。

 大将は、

「あいよ」

 と答えると、いつもより明らかに速い間合いで、

「お待たせ」

 と続ける。

 そして、松屋吉野の前に置かれた器には――ネギ抜きで、汁大目の、蕎麦の茹で加減がぬるい、ただのかけそばが入っていた。

 彼女はその一つ一つの事象を指差呼称しながら確認すると、最後にこう言った。

「すみません。お薬を飲みたいのでお冷貰えますか」

 この勝負は、注文から決着まで史上最速だったと言われている。


 続いては、超有名なラーメン店の常連、『二三郎じさぶろう』との死闘だ。


 Tシャツにシーンズという、ビジネス街の朝には似合わないラフな恰好でふらりと現れた彼は、

「ニンニクチョモランマ、ヤサイマシマシ、アブラカラメオオメ」

 と、いかにも生意気そうな声で呪文のような言葉を一息で言い切った。

「あいよ」

 と、大将は何の衒いも見せずに応じたが、ここで若干の注釈が必要だろう。

 立喰者の世界ではもちろん、異種格闘技戦においても守らなければならない絶対のルールというものが存在する。それは、

「その店に常備されていない食材を注文した場合においては、代替物の使用が認められる」

 というものである。

 よく考えてみて頂きたい。

 立ち喰い蕎麦の店にやってきて、わざわざ「フォワグラ、キャビア、トリュフ」といった高級食材を注文するのは、最低限の常識すら知らない下衆のやることである。加えて、その注文に応じられなかったからと言って店側の敗北を声高に宣言する行為は、むしろ自らの敗北を喧伝するようなものだ。

 無論、「フォワグラ、キャビア、トリュフ」が出てきても良いし、それが勝負を左右しても問題はないのだが、同じ「共喰者ともぐいもの」(和洋中を問わず注文技オーダーテクに命がけで臨む者、の意)であるから、その辺のマナーは弁えているのが当然である。

 それゆえ、二三郎が繰り出した注文技においても、ラーメン店と蕎麦屋の本質的な相違については許容されなければならないし、その上で相手の注文にどれだけ沿えるかが腕の見せ所である。

 しばらくして大将は、

「お待たせ」

 と言いながら、大盛り用の丼を差し出す。

 それを受け取った二三郎の背中は、明らかに硬直した。

 なにしろ丼の中には、縁から環状に、それ自体を目的に丁寧に揚げられたに違いない混じりけのない天カスが、あたかも防波堤の如く置かれており、

 その内側にはこれまた環状に、まるで農作物が豊かに実った平野部のように青ネギが敷き詰められ、

 そして中央部には――あたかも無礼な人間に対する天の怒りを示すかのように、真っ赤な七味唐辛子の山が築かれていたのである。

 そして――その場にいた立喰者は、香りだけで既にその所業を確信していたのだが――恐らくはその下に置かれた蕎麦には、生醤油がたっぷりとかけられているに違いなかった。


 そして最後に紹介するのが、孤高のカレーチェーンを制覇した『個々市ここーいち』との一騎打ちである。


 これはまさに死闘と呼ぶに相応しいものだった。

 彼は、坊主頭を蛍光灯で青白く光らせながら、擦り切れた和服をだらしなく着崩した姿で店内に入ってくると、やおら、

「かけそばに、トッピング全部のせで」

 と、渋い声で言った。

 そして、この台詞を聞いた時、その場に居合わせた私を含む立喰者全員が戦慄したのである。

 個々市の作戦は誰の目から見ても明らかだった。

 通常の立ち食い蕎麦屋と同様に、立ち喰い蕎麦『大将』でも海老天や搔き揚げ天、ごぼ天、春菊天、コロッケなどの種物が豊富に準備されていた。だからこその「全部のせ」であろう。

 これは別に非常識な技ではない。

 むしろこの場合、食材は既に準備されているものだけであるから、前述のような代替物を考慮しなくても良い分だけ、正当な注文技と言える。

 そして、「特盛りの平皿」――いや、今日びは「テラ盛りの深皿」さえ常備しているカレー店であれば、全部のせの積み上げは容易であろうが、せいぜいが大盛り用の丼しかない立ち喰い蕎麦屋においては、絶対的に不利となる。

 しかし、大将は何の躊躇いも見せることなく、いつもの通り淡々と調理を進めると、

「お待たせ」

 と言いながら、大盛り用の丼を差し出した。

 そして、それを受け取る寸前、個々市の手は見間違えようがないほどに震えたのである。

 なにしろ丼の中には、店に置かれていた天ぷらの類が、山のように積まれていた。ただ、そのままの状態では少しでもバランスを崩せば雪崩のように落ちる。

 そのため、海老天、ちくわ天、あなご天といった長種物三兄弟が真っ直ぐ据えられ、その中に搔き揚げ天、じゃこ天、コロッケといった平種物達が整然と重ねられていた。

 さらには三本柱の間をあじフライ、きす天、油揚げといった三角種物たちがカバーするという念の入れようである。

 恐らく平種物の下には、玉子や天かす、青ネギにとろろといった、その他大勢の種物たちが眠っているに違いなかった。

 その豪華絢爛な『全部のせ』を目の当たりにして、個々市は硬直したが、その姿を見つめながら私はしみじみ思った。

 ――地獄はこれからだぜ、若いの。

 この店に集う立喰者は皆、知っている。

 立喰者はシンプルな戦いを好む者が多い。それが我々の美意識と言っても良い。

 基本は蕎麦と汁で勝負を挑む。種物は決定打になりそうな時に、しかも一つだけしか頼まない。

 それに、この店では蕎麦と汁をすするだけでも精一杯である。それ以上は不味くて口に出来たものではない。

 切っただけの青ネギは一服の清涼剤、この店における唯一の良心と言っても良い。


 それゆえ『大将』の種物の多くは――長時間作り置かれた末に、すっかり鮮度を失ってしまっているのが常なのだ。


( 終わり )

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