十二.天の双眸邪仙を許さず

 轟音に、我に返った。

 盛大な水飛沫が足元で噴き上がり、一瞬で遠ざかる。再び色彩を失った霊眼の視界の端で、雷光が空をジグザグに裂くのが微かに見えた。

 気付けば天潤は青い水から、雨に濡れた地上へと脱出していた。

 ――龍の背中に捕まって。

 声も出せない。耳元でごうごうと風が唸り、雨が情け容赦なく顔を叩いた。

 ただただ死にものぐるいでしがみつく天潤を乗せて、漆黒の龍が荒天へと駈け上がった。

 荒れ狂う風に白いたてがみがざわめく。黒曜石の如き鱗が稲妻に煌めいた。

 雷鳴よりも高く黒龍は吼え、体を大きくしならせた。

 風向きが変わる。黒龍がまっしぐらに地上へと向かうのを感じ、天潤は息を飲む。

 雲が遠ざかる。代わって、暗い瓦礫の街がぐんぐんと迫ってくる。

 手の中でみしみしと龍の骨肉が軋むのを感じた。

 直後、龍の体が唐突に消失する。


「えっ、そんな――!」


 地面を目前にして天潤は思わず悲鳴を上げる。

 もはや地面は目前。どうすることもできず、ただただ重力に任せて天潤は落ちていく。

 しかし、その体が地面に叩き付けられることはなかった。

 力強い腕の感触が、彼女の落下を阻止した。


「お前……」


 耳に馴染んだ声がした。

 茫然自失の天潤は荒く呼吸をしつつ、自分を抱える者を見上げる。

 白黒の視界に、罪王が自分を見下ろしているのが映った。顔の左側は相変わらず不安定に揺れているが、もう先ほどのような狂乱の色はなかった。

 罪王は、ゆっくりと天潤を地面に下ろした。

 天潤はそのまま地面にへたりこみそうになった。時間にして恐らくほんの数秒。けれども龍に変じた罪王との飛行は、天潤から大きく平静を奪っていた。

 それでもなんとか足に力を込め、天潤は罪王を見上げた。


「……良かった。意識が戻ったのですね」

「ああ……お前の血液の情報を取り込んで正気に戻った」


 罪王の声は、わずかに震えていた。自分の口元を覆い、彼はまじまじと天潤を見つめる。


「お前……私に口付けたのか。この……醜い私に……何故だ……?」

「そうしたいと思ったからですが。なにかいけなかったのですか?」


 天潤は思った通りのことを素直に答え、首を傾げた。

 すると、罪王はいっそう力を込めて口元を押さえた。

 青白い顔に、珍しくほんのりと血の色が差しているように見えた。やがて彼は何度か小さく咳払いすると、視線を地面に向けた。


「……龍の体内には、情報の海がある。そこには、生きとし生ける者すべての情報が流れ込むという……私はそこで、お前の記憶を読み取った」


 罪王は囁くと、まっすぐに天潤を見つめた。


「お前は、死を望んで幽龍に来たのか」

「はい」

「お前の望みに、私が口を出す権利などないが」


 罪王は、再度視線を彷徨わせた。そうして何度か深呼吸した後で、彼は薄い唇を開いた。


「……私は、お前には生きていて欲しい気がする」


 その言葉に、天潤は小さく息を飲んだ。


「……別に、お前の好きにすれば良い。ただ、お前が生きていなければお前の二胡の音を聴くことはできん。それに玄玄もうるさくなる。フランシスからは何を言われるか……」


 罪王はなにやら言い訳染みたことを延々と語り出した。

 しかし、天潤はうつむく。伏せた瞳が潤むのを感じた。鼻の奥がつんと染みる。

 奇妙な歓喜が胸の底からわき上がり、体中を揺るがしていた。


「……生きていて、欲しい?」


 震える声で問うと、罪王は無言でうなずいた。

 それだけで十分だった。天潤は深呼吸をし――そして、霊眼で頭上を睨んだ。


「……罪王様、来ました」


 その言葉に、罪王は険しい顔で上を見上げる。

 妖しい光が周囲を覆う。単調な太鼓が鳴り、空々しい鈴と弦の音が響き渡る。

 輝く雲とともに、白翅達が現われる。白翅が花を撒き、鈴飾りをならす中央で、狂仙が不気味なほどにたおやかな姿で佇んでいる。


「――逃がさないよ、天潤」


 ふんわりと狂仙は地上に降り立ち、ゆっくりと両手を広げた。


「君は僕達についてくるべきだ。地上は悲しく辛いことばかりだろう?」


 天潤は、沸き立つ狂仙や白翅達の姿を見つめる。

 白く艶やかな体を持つ狂仙と白翅達。甘い芳香を漂わせ、花と雲とを纏う。 


「……見せかけだわ」


 全てが空虚で、不自然だった。

 美しい外殻の内側に花と玉を散りばめ、そうして己の穢れた肉塊を封じ込め――そうして仙を騙って微笑む様が、不気味で仕方がなかった。


「……ああ、まったくだ」


 天潤の囁きに、罪王も不愉快そうな顔でうなずいた。


「汚濁から眼を背け、夢に酔い続けるその様……ククッ、なんと醜悪か……! まるで自分を見ているようで……おぞましいとしか言いようもない!」


 引きつったような顔で罪王は笑う。

 その手がいまだ不安定な顔の左側を押さえる。恐らく彼は、狂仙の有様に自分の姿を重ねてしまっているのかもしれない。

 天潤はスカートのポケットを探る。隙を見て拾ったそれを仕舞ったはずだった。


「――貴方と狂仙は違う」


 囁き、天潤は取りだしたものを罪王へと差し出す。

 それは先ほど理凰に弾き飛ばされた、罪王の仮面だった。


「汚濁から目を背け、苦しんで――それでも戦っている貴方は、私よりも人間だわ」


 罪王は大きく目を見開き、仮面を差し出す天潤をまじまじと見つめた。

 やがて、わずかに唇を歪めた。


「……私は魔人だ。人にも、怪物にもなれん半端者」


 罪王はかすれた声で言って、天潤の手から仮面を取った。

 顔の左側を押さえるようにして仮面を着け、罪王は射貫くような眼で狂仙を見た。


「――これでわかっただろう。こいつは人間をやめる気はない。早々に幽龍から去れ、狂仙」

「いやだね……僕は天潤が欲しいんだ」

「行かないわ」


 甘い声で語る狂仙に、天潤はきっぱりと言い切った。


「君の意思は関係ないよ。それに逆らわない方が身のためだ」


 狂仙は、ゆっくりと両手を広げた。途端、白翅達がじりじりと距離を詰めてくる。


「――君だって脳髄だけで移動したくはないだろう?」


 甘く、そして背筋の冷えるような声だった。

 これが最後通牒だと察した天潤は、密かに罪王の袖を引いた。


「……私の背中に回って下さい。そこが一番安全ですから」


 天潤は囁く。罪王はそれで察したのか、大人しく天潤の背後に立つ。

 そして前に出た天潤は、まっすぐに狂仙を見つめた。


「おや、話を聞く気になったかい? 僕も乱暴なことはしたくないんだよ」

「何度も言わせないで。私は狂仙にはならないわ」

「君も強情だなぁ。いや、頭が悪いというべきか――」

「……ええ、この上なく愚かしいわ。そして、浅ましいとも思ってる……」


 死ぬべきなのに、今日まで呼吸を続けている自分を。

 あの日――母の手を振り払い、ただ生への渇望のために逃げた自分を。

 けれども――天潤はゆっくりと呼吸を整えた。


「でも、もう少し考えてみるべきだと思ったの、生きることを――この眼とともに」


 そうして瞼を、開いた。


 ――静寂。直後、天潤の視界は一気に深紅に染まった。


 前に出ていた白翅が耳障りな声で絶叫し、体をかきむしりながら倒れ込んだ。

 そうして、さながら果実を潰したかの如く爆裂する。視線に晒された白翅は全てが同様の末路を辿り、雷光の下に無惨な屍をさらした。

 次々に白翅が悶え、灼き焦がされ、息絶えていく。

 断末魔の叫びが多重奏の如く重なり合い、肉を焼くような音がその合間に響いた。

 天眼は何人も許さず、悉くを滅するように思えた。

 ――ただ一柱の例外を除いて。


「ひっ、ギッ、――ァアアアアア――――!」


 狂仙が頭を押さえ、大きく身をのけぞらせた。

 白く滑らかな体の表面に、びっしりと穴が開いた。人間の口だ。赤々とした人間の口が体の全身に現われ、絶叫を絞り出している。

 輝いていた光輪は歪み、黒くどろどろとした液体の輪と化す。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ! やめろ、見るな、見るなッ! 僕をその目で見るな!」


 全身の口で呪詛の言葉を迸らせ、狂仙は頭を抱えて倒れ込む。

 肌に無数の亀裂が生じ、そこからどす黒い液体とともに煙が噴き出した。

 それでも、生きていた。

 想定外の自体におののきつつも、天潤は視線は逸らさない。天眼が狂仙を蝕んでいることは明確だった。どれだけ眼が痛くなっても、天潤は凝視を続ける。

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