十一.龍の胎内
――気付けば、水の中にいた。
息苦しさはない。それどころか、水中だというのに呼吸ができている。淡く光る水の中はほのかに温かく、何故だか深い安らぎを感じた。
ここは、どこか。一体、何が起きたのか。
恐らく幽龍の体内に落ちたのだろうと思う。しかしこの水の世界には、幽龍のあちこちで見た肉や骨などの生物的な部位は見えない。
見渡す限り、青く澄み渡った水。揺らめく光に顔を上げても、水面は見えない。
一体、ここは幽龍のどういった部位なのか。自分はこのままどうなってしまうのか――。
考えようとしても思考は水に解け、天潤はぼうっと漂う。
いっそ、このまま眠ってしまおうか――そんなことを考えるほどに、心地良い空間だった。
『――どれだけ言葉を尽くしても、意味はないのだ』
懐かしい声に、眠りに沈みかけていた天潤の意識は覚醒する。
彼方からの光がゆらめく水。そこに、ぼんやりとした像がよぎるのを霊眼は確かに捉えた。
それはかつての、落陽洞での光景だった。
『私がいくら『生きろ』といっても、それはお前には決して届かない』
栗色の髪を長く伸ばした、若々しい容貌の仙人――玉蓮真人。
月明かりの下で囲碁を打ちながら、彼は物憂げに言った。
「生き死にというのは、他人が左右できるものではない。そう、お前自身が願わなければ――」
声が遠のく。師匠の像はゆらぎ、そうして水の中に溶けていった。
ついで青い水によぎったのは、女の姿だった。
黒い幅広帽子。赤く艶やかな唇。切れ長の瞳の輝きは妖しく、そして誰かによく似ていた。
黒廟娘々――会ったこともないはずなのに、女の名前がすぐにわかった。
『なにが、いけないのですか……?』
黒廟娘々は甘ったるい声で囁き、天潤へと手を伸ばした。
『人を愛することのなにがいけないというのかしら』
天潤は、思わず首をすくめた。黒廟娘々の眼は、たしかに天潤を捉えている。
しかし、邪仙は天潤ではない何者かに囁きかけているように見えた。
『愛は素晴しいものよ。ねぇ、そうでしょう? 愛は甘いわ。愛は優しいわ。愛こそ至高、愛こそ最上! 愛を凌駕するものなどこの世には存在しないのよ!』
煌々と瞳を光らせ、頬を上気させた黒廟娘々は甘ったるい吐息を零した。
今すぐにでもここから逃げたかった。
けれども目をそらすことさえできず、天潤は黒廟娘々を見つめ続ける。
『だから私はお前を支配します。何故ならお前を愛しているから。愛を与える私には、お前を自由にする権限がある。そう愛よ! 愛! 全ては愛!』
不気味に美しい顔で、女の幻影は語り続ける。
『嗚呼、お前はなんと醜いのでしょう……! 崩れた顔、変異する体! こんな怪物染みたお前を皆はきっと忌み嫌うわ! でも大丈夫、だってお前には私がいるんだから! お前という怪物には私だけしかいないのよ! 愛してる、愛しているわ――!』
あ、は、は、は、は――赤い唇を吊り上げて、女が狂ったように笑う。
どう見ても、女の精神は人間として破綻していた。
なによりも、そんな常軌を逸した女の全てから確かな愛情を感じるのが恐ろしかった。
愛というのは、こんなにもおぞましい感情だったろうか。
まるで呪詛だ。あるいは――。
「……愛とは、毒だ」
――気付けば、天潤は静寂の中にいた。
青く光る水の中に、もうあのおぞましい女の姿はない。甘ったるい笑い声の残響だけを耳の奥に残して、女の像は消え去っていた。
代わって、水の中に影があった。
ほとんど影に呑み込まれた魔人が、すぐ目の前に漂っている。もはや人の姿はほとんど失われ、その姿は水底で渦巻く黒い闇と化していた。
天潤は、もはや人の形をなくした彼の姿をじっと見つめる。
そして気付けば、手を伸ばしていた。
熱く、冷たく、柔らかく、固く――魔人の影は、なんともいえない奇妙な感触だった。
「……そうね。貴方は暗くて、厳しくて、人嫌いで、そうして時々ひどく口が悪いけど」
揺れる影へとゆっくりと近づき、天潤は囁く。
不安定に形と感触を変える影に両手を添え、顔を寄せた。
不思議と心は凪いでいた。なんの恐怖も嫌悪もなく、ただただ祈るような心地だった。
「でも私は、そんな貴方をわりと気に入っていますよ――罪王様」
そうして天潤は、影にそっと口付けた。
瞬間、青い水がぐらりと揺れた。
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