十.『幽龍』
「やめて――ッ!」
とっさに、肩口から爽英に体当たりをかました。
爽英が小さな悲鳴を上げ、地面へと倒れ込む。照準は大きくぶれ、掌から放たれた光球は罪王を大きく逸れて半壊した天井へ。
ぽっかりと開いた大穴から空に消えた光球を見送り、爽英は天潤を見た。
相も変わらず、笑顔だった。
「ひどいなぁ、天潤ちゃん。一体なにをするの?」
――思えば彼は、先ほどから表情がほとんど動いていない。
仮面をつけているようだった。
天潤はそののっぺりとした笑顔をまっすぐに見つめた。
瞼は閉ざされている。それでも呪帯越しに、爽英に――狂仙に、鋭い視線を向ける。
「貴方とは、相容れない……!」
瞬間、周囲の空気が歪んだ。
さながら蜃気楼の如く、爽英の周囲だけ風景がゆらゆらと揺れている。
「可哀想に……君は洗脳されてるんだ。幽龍に毒されてる」
地面に座り込んでいた爽英の体が、浮かび上がった。天潤の頭よりもいくらか高い位置で浮遊しつつ、彼はゆっくりとした口調で言葉を続ける。
「でも、仕方がないことだよね……こんな所にいたら、染まってしまうのも無理はない」
「違う! これは私の意思よ!」
天潤は爽英を睨んだまま、罪王の位置まで下がった。
そうして倒れたままの罪王を庇う姿勢を取ると、爽英は哀れむような顔で首を振った。
「君は僕達と同じ存在になるべきだ。君の命はここで消費するべきじゃない」
「私の命よ!」
天潤は叫び、自分の胸に握り拳を強く押し当てた。
「生きるか死ぬかは、私が選ぶわ!」
「困ったものだね……」
爽英は眼鏡を指先で押さえ、ため息を吐いた。
「……じゃあ、無理やりにでも連れていくよ。脳さえ残っていれば、なんとかなるし」
ぷつりと小さな音を立て、爽英の顔の中央に赤い線が現われた。
線は見る見るうちに広がり――やがて、真っ二つになった爽英の顔が剥がれた。水っぽい音を立てて、青年の顔の皮は眼鏡とともに床に落ちた。
そうして現われたのは、つるりとした白い陶器のような表面――狂仙の、顔。
ぶつぶつと嫌な音が周囲から響く。
はっとして天潤があたりを見回すと、床を呑み込んでいる幽龍の肉が泡立っていた。ぼこぼこと盛り上がる表面が、見る見るうちに黒ずんでいく。
癌細胞だ。天潤は眉を寄せ、浮遊する狂仙と広がる癌細胞とを見た。
「幽龍の癌が広がってるのは、狂仙のせいだったのね……!」
癌細胞から、黒い瘴気が細く噴き出した。
それは空気に触れた途端に凝固し、異様な鬼怪の姿を形作っていく。
「嗚呼、気持ち悪い……気持ち悪い!」
徐々に増えていく鬼怪の中で、狂仙は身もだえする。
その背中がみちみちと音を立てて開き、そこから無数の白い腕が伸びてくる。
腕は放射状に広がり、そうしてかぱりと音を立てて縦に裂けた。
その空洞に、鋭い針のようなものが光る。
「ああ嫌だ、気持ち悪い……ッ! とっとと作り替えてしまおう!」
瞬間、狂仙の腕から勢いよく針が射出された。
天潤はとっさに罪王を庇い、防御の態勢を取る。しかし針は二人にかすりもしなかった。
針が狙ったのは、生み出されたばかりの鬼怪達だった。
針を受けた鬼怪は悲鳴を上げ、激しく痙攣する。
同時にその皮膚から無数に白い花が咲き乱れ、体を一気に覆い隠した。そうして花の中からのそりと現われたのは、小型の白翅だった。
「――さあ、もう一度聞くよ。天潤ちゃん」
白の軍勢の中で、半透明の衣を纏った狂仙が腕を組んだ。
つるりとした目も鼻もない頭部には、色とりどりの花のような模様が浮かぶ。
百合の花が開くような形で裂けた背中から蠢くのは三対の細長い腕。そうして背後の虚空には、白く輝く光の輪が浮いている。
「僕と同じになろうよ。――痛い思いはしたくないだろう?」
武器はない。背後には罪王を庇っている。手は震え、胸はざわつき、周囲に立ちこめる不愉快な芳香のせいで吐き気さえ感じている。
けれども――天潤はまっすぐ前を見つめて、呪帯に手を掛けた。
「……お断りよ」
そうして呪帯を解いた瞬間、天潤は足元に奇妙な震動を感じた。
靴の裏で、龍の肉が脈打っている。それに気付いた直後、足元の地面が消失した。
「きゃっ……!」
突如開いた大穴は、天潤を――そして罪王までを、一息に呑み込んだ。
「これは……!」
狂仙が驚愕の声を上げる。すぐさま白翅達が奇声とともに大穴に殺到した。しかし周辺の筋組織は超速で収縮し、大穴は開いた時と同じく一瞬で消滅した。
空しく地面を掻く白翅達をいまいましげに睨むと、狂仙はきつく拳を握りしめた。
「おのれ幽龍……! 邪魔をする気か!」
怒声とともに、狂仙の拳が龍の体表に叩き付けられた。
雷鳴が轟く。幽龍に、雨が降り出していた。
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