九.真なる仙と彼は言う

 ――そこは、古い楼閣のようだった。


 白黒の視界に映し出されたのは、古びた木造の空間。ところどころが劣化し、腐っている木で作られた床は、半ば幽龍の肉に飲まれている。

 あちこちに開いた壁の大穴からは、寂しげな廃虚の街が覗いていた。

 そんな場所で、天潤は震えていた。


「どうして、貴方が――!」


 目の前――朽ちた天帝の像の前に、一人の青年が立っている。

 青年は軽く肩をすくめた。徐々に曇っていく月光に、眼鏡がきらりと光る。


「どうしてって、そりゃ……だっていきなり自殺しようとするもんだから」

「貴方は死んだはずでしょう! ――爽英さん!」


 その叫びに、眼鏡の青年は――李爽英は、くすっと笑った。

 栗色の髪に、格子柄のシャツ。なにもかもが殺された日そのままの姿で、彼はそこにいた。


「嬉しいな、僕のことを覚えていてくれたんだ」

「忘れられるわけがない……貴方は確かに、私の目の前で――」

「ああ、うん。すっぱりやられたよ」


 爽英は笑顔を浮かべたまま、首を切る真似をしてみせる。

 間違いなく、彼は一度死んだはずだ。憑刀鬼に首を切断され、倒れ伏した彼の姿を、天潤は今でもありありと思い出せる。

 そこで、天潤は気付いた。――限りなく不死に近い、そして自らを攫った存在を。


「……狂仙」

「正解」


 にっこりと爽英が笑い、拍手をしてみせた。

 天潤はとっさに武器になるものを探した。しかし、七星剣は龍安本社に預けている。白の短刀も、狂仙の持つ不思議な力で溶けてしまった。


「そんなに怯えないでよ。僕達は、君達が思っているようなおぞましい存在じゃないよ」

「……信用できるとでも?」

「ひどいなぁ。――僕はお礼をしたいだけだよ」

「お礼……?」

「僕を助けてくれただろ? 鬼怪は不快でさ。……嗚呼、思いだしただけで鳥肌が立つ」


 わざとらしく身震いする爽英を、天潤は無言で見つめる。


「本当はこんな穢らわしい都自体、僕達には耐えがたい。だからこそ、作り替える必要がある。清潔で、綺麗な場所にね。……そのための下調べをしてる時に、君と出会ったんだ」


 爽英はにっこりと笑って手を広げる。

 その拍子に、狂仙独特の甘いにおいが漂う。砂糖を焦がしたような――あるいは安物の花の香水にも似たべたべたとした香気に、天潤は呪帯の下で顔をしかめる。


「ずっと君を見ていたよ……どうしても、君の助けになりたいと思ってさ」

「私は、助けなんて――」

「求めてないって? ……可哀想に。君は、自分の心を封じてしまったんだね」


 爽英は天潤の前に立つと、地面にしゃがみ込んだ。

 そうして視線を合わせ、囁いた。


「だって君――本当は死にたくなんかないんだろう?」


 思考が、止まった。

 硬直する天潤に対し、爽英は眼鏡の奥で目を細めた。


「君は『死ななければならない』と考えている。――でも、『死にたい』とは考えていない。少なくとも、考えてはいなかった……ずっと昔はね」

「ち、違う……」

「死にたくなかったからお母さんから逃げた。そうして仙人の元で修行を積んだ……けれども成長するにつれて君は生きることに罪悪感を抱くようになった」


 まるで見てきたかの如く、爽英は悲しげに首を振った。


「……君は生の意義よりも早く、死の意義を先に見いだしてしまったんだね」

「黙って……!」


 哀れむような爽英の囁きに、天潤は声を引き絞る。

 掌がじっとりと汗ばんでいた。爽英が言葉を続けるたびに、胸の内が激しく掻き乱される。


「私は……私は、そんなこと……望んでない……望んじゃ、いけない……」

「……そんなことはないよ、天潤。君は生きていてもいいんだ」


 優しい口調で語りかける爽英を、天潤は呆然と見上げる。

 爽英は微笑み、手を差し伸べてきた。


「――僕についておいでよ、天潤」


 その言葉に、天潤は大きく肩を震わせる。それに対して、爽英はにっこりと笑ったまま「僕達は、自分達のことを真仙しんせんと呼ぶ」と言葉を続けた。


「僕達は狂ってなんかいない。ただ楽しく、そして美しく生きたいだけさ」


 爽英はうっとりと目を細め、浮かれたような足取りで歩き出した。

 くるりくるり――爽英が舞い踊るたびに、甘い香気がいっそう強くなった。


「冠都はね、美しい場所だよ。苦しみも悲しみもない……幸福と永遠がそこにある」


 爽英の囁きに、天潤は遠い都の姿を幻視する。

 古びた楼閣に、朱と金で彩られた古城。花が舞い、甘露が降り注ぐ、なんとも芳しい香気が漂う楽園。そこで戯れ、囁き合う美しい仙人達――。

 常ならば想像もできない世界だった。

 天潤はぼんやりと、そんな桃源郷を見つめた。


「さぁ、この手を取って。――君は、もう苦しまなくて良いんだよ」


 手を差し伸べてくる爽英に、天潤はぼうっと考える。

 現世は辛く苦しいものだった。天眼を持つ自分には居場所などないと思っていた。

 冠都こそが――狂仙の園こそが、自分のあるべき場所なのか?


「修行は僕が教えてあげる。だから――一緒に生きようよ、天潤」


 もう苦しむ必要はないと狂仙が囁く。そんな彼に、天潤は手を伸ばしかけた。

 ――その時、魔窟の闇が脳裏をよぎった。

 怪しく輝く幽龍城砦。薄暗い小路に生きる人々。哄笑する鷹。虚ろな瞳の壊人鬼。

 そして――夜を飛ぶ、白髪の魔人の囁き。


『それは本当にお前のための道なのか?』


 思えば、彼は真っ先に自分の抱えている問題に気付いていたような気がする。


『愛など毒だ』


 彼がどうしてそう言ったのか、自分はまだ知らない。


『最近は、お前の音を聞かないと眠れない』


 ――自分がいなくなった後、彼は眠ることができるのだろうか。


「……天潤?」


 目の前で、爽英が訝しげな顔で首を傾げた。

 差し伸べられたままの手を見つめて、天潤はゆっくりと首を横に振る。


「私は……私の、あるべき場所は……」


 その時、かすかな震動を感じた。

 同時に側面の壁が打ち破られ、黒い影が天潤達の前に転がり出た。天潤はとっさに身構えたものの、影の正体を見た途端に動きを止める。


「罪……王様……?」


 塵煙の向こうに立つ姿を見つめ、天潤は呆然と囁いた。

 罪王は、ほとんど人型を失っていた。

 右半身はかろうじて人間としての姿を保っている。しかし左半身はほとんど黒く染まっていた。呪帯の切れ端の下で名状しがたい輪郭が揺れ、不規則に様々な部位を形成する。

 眼球、腕、たてがみ、爪、牙――それらを蠢かせ、罪王は獣じみた声で咆哮する。


「――哀れなものだね、黒廟娘々の子」


 あざけりの声に天潤は振り返る。

 冷やかな眼で、爽英が罪王を見つめていた。


「どうやら仮面を失って、かろうじて保たれていた理性を失ってしまったらしい。完全に自分が何者かを忘れてしまっている」

「そんな――っ!」


 獅子の声を歪めたような異様な叫び声が響き渡る。

 罪王は耳元まで口を裂かせながら吼え、大きく左腕を振りかぶった。人間の可動域を完全に無視した動きで関節がしなり、みしみしと音を立てて変形する。

 そうして膨れあがった黒い腕を、罪王は叩き付けるようにして振るった。

 ごうっと風が唸りを上げる。

 思わず身を固くする天潤の頬だけを裂き、罪王の爪はその背後へと襲いかかった。


「無駄だよ」


 爽英は冷たく言いながら、掌を前に突きだした。

 りぃんと涼やかな音が響く。同時に、爽英の掌に白い光の輪が現われた。

 大きく広がったそれは障壁となって罪王の腕を塞ぎ、それを容赦なく焼き焦がす。

 体を大きくわななかせ、罪王が唸る。すると左半身の影が炎の如く揺らいだ。ぼこぼこと泡立つようにして新たな肉と骨が形成され、新たな腕を形作っていく。


「往生際が悪いな」


 りぃん――再び、鈴を鳴らすような音が響いた。

 吐き捨てるような爽英の言葉とともに、光輪が投げ打たれたのだ。それは新たに形成された罪王の腕を切断し、さらにその半身を白く輝く炎で包み込んだ。

 恐ろしい悲鳴が響き渡った。


「罪王様ッ!」


 地面に倒れ込む罪王に天潤は叫び、駆け寄ろうとした。


「待ってよ、天潤ちゃん」


 しかし、その手を爽英が掴んだ。

 冷たい手は、万力のような力で天潤の手を軋ませる。


「あのおぞましい姿をよく見てごらん。なんと醜い生き物だろうね。しかも、あれは君への執着だけでここにたどり着いたんだ。心のうちも淀んでいるに決まってる」


 爽英は冷笑を浮かべつつ、罪王に向かって手をかざした。

 その掌に、ぼんやりとした白い光が灯る。自らを照らす怪しい輝きに、半身を焦がされた罪王はぴくりとも反応しなかった。

 意識を失っている――天潤は青ざめた顔で、倒れ伏したままの罪王を見つめた。


「……でも、そのおぞましい命脈もここまでだ」


 爽英の笑顔が、ぐにゃりと歪んだ。

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