十二.赤月の下に蠢く不穏

 新鮮な空気を感じた。直後、天潤は濡れた地面に投げ出された。

 どうやら罪王が着地に失敗したらしい。彼は天潤のすぐ側で、小さく呻いている。

 天潤は霊眼を閉じたまま体を起こすと、掌を地面に滑らせた。


「路面……外にいるの? 雨が降ってる。……ん? この濡れた羽箒みたいなものは何?」

「オレだよ!」

「あ、ご、ごめんなさい……!」


 慌てて玄玄に謝った直後、指先から濡れた羽の感触が消えた。


「……さっきから気になってたんだけどさ。君、どういう理屈でしゃべってるの?」

「うわわっ、こら! 持ち上げんな!」


 喚く玄玄の声に、天潤はその方向を見る。

 今は霊眼も使っていない。そのせいで、視界は完全に闇に閉ざされてしまっている。


「……もう霊眼を使っても大丈夫だと思うよ、目隠しお嬢ちゃん」

「えっ……?」


 靴音が響いた。すると雨のにおいに混じって、微かな香水と画材のにおいが漂ってきた。

 どうやら、フランシスがすぐそばに立ったようだった。


「まぁ、開いて見ればわかるよ」


 フランシスの言葉に戸惑いつつ、天潤は両眼に気を集中させた。

 途端、いつもの殺風景な視界が広がった。

 そこに不機嫌そうな罪王と、玄玄を持ち上げて涼しげな顔をしたフランシスが立っている。

 それだけではない。天潤はよろよろと立ち上がり、呆然とあたりを見回した。


「み、見える……!」


 先ほど見た玄関前の景色だ。

 見上げれば、みっしりと並ぶ建物の狭間から夜空が見える。


「ここは……慈しみの家の前、ですよね」


 前を見れば、孤児院は先ほどと変わらぬ姿で存在していた。まだ財閥の兵が残っているはずのそこは、来た時と変わらずしんと静まりかえっている。

 しかし、そこにはある相違点があった。

 小さな門を覆うようにして、一枚の帆布が掛けられている。

 しっとりと濡れた帆布には、精巧な筆致で慈しみの家の門が描かれていた。


「これは、絵? 一体どういう――?」

「全部、こいつの仕掛けだ」


 罪王が腕を組み、軽くフランシスを顎でしゃくった。

 フランシスはというと、どこか悪戯がバレた子供のようににやにやと笑っている。


「仕掛け……?」

「眼球。お前は、山河社稷図さんがしゃしょくずを知っているか?」

「えぇ、先生から聞いた事があります。仙人の宝の一つで、美しい山々や建物が描かれた絵画だと。確か見た人間を、絵の中に取り込み――」


 そこまで言って、天潤ははっと息を吞んだ。

 一方の罪王は渋い表情で、ちらちらとフランシスを見ながら「そうだ」と答える。


「見た人間を絵の中に取り込む絵画……それは気の遠くなるような修練の末、至高の方術を尽くした者だけが辿り着ける境地だ。普通は仙人しか描けない、それを――」

「私が描きました」


 フランシスがひょいと手を上げる。

 反対側の手に捕獲されている玄玄が呆れた声を出した。


「そんな軽い口調で言う事じゃねぇだろ!」

「じゃ、じゃあさっきまで私達がいた場所は……!」

「ぜーんぶ、ニセモノ。私の絵の中さ。――こういう絵を描くためには、良質な鬼怪の血が必要でね。このために私は爛に来たんだよ」


 信じられない思いで慈しみの家を見つめる天潤に、フランシスはくすくすと笑う。


「……最初から、仕込んでいたな?」

「ああ。今朝の放送を聞いた時点で、即座に仕上げた。ずいぶん無茶なスケジュールだったけど、なかなかの出来だっただろう?」

「フン……そうして内部の人間が全員眠った時点で、あれを仕掛けたんだな」

「は……? ちょっと待て、眠った時点ってことは――!」


 罪王とフランシスの会話に、玄玄が嘴をあんぐりと開けた。

 フランシスはそんな彼を顔の前まで持ち上げると、薄く笑ってみせる。


「うん。あの殺人鬼が来る前だ。だから全員生きてるよ。施設の人間も、子供たちも」

「みんな、生きている……」


 霊眼に何も映らなかったのは、そこが偽物の世界だったから。

 天潤以外の者が見た血濡れた風景は、最初から存在していなかった。殺人鬼はまやかしの子供達の幻影を殺し、龍眼財閥は架空の施設に足を踏み入れた。

 それら全てを理解した途端、天潤は安堵とともに疲労が押し寄せてくるのを感じた。


「よ、よかった……」


 気が抜けた途端ふらついた天潤を、罪王が無造作に支える。

 フランシスはつかつかと玄関へと歩み寄ると、掛かっていた帆布を外した。

 ようやく解放された玄玄が塀の上に止まり、それをしげしげと見る。


「おい、それどうすんだ? 今の話の通りなら、その中には財閥の連中がいるんだろ?」

「そうだね。まぁ、適当なとこに置いとくよ。ここじゃ迷惑が掛かるし」

「て、適当ってオイ……大丈夫なのか、それ? 下手したら中の人間は――」

「関係者以外立ち入り禁止ってちゃんと描いてあっただろう?」


 くるくると帆布を手早く巻きつつ、フランシスは肩をすくめた。


「それを無視したということは、なにがあっても自己責任。仮にそれで誰かが死んでも事故だ。私のせいじゃない。――さ、決着はついた。もう帰ろう」

「帰るって――」


 困惑の表情の玄玄をよそに、フランシスは指笛を吹いた。

 すると、どこかに潜んでいた鬼怪猫が静かに近づいてくる。その背中に丸めた帆布を括りつけるとフランシスは振り返り、両手を緩やかに広げてみせた。


「犯人は捕まった。子供達は死んでない。そして財閥の人でなし達は失敗した……ほら、ハッピーエンドじゃないか。もう何もすることはないし、あとは帰って寝るだけ」

「ハッピー……エンド……?」


 首を傾げる天潤をよそに、フランシスはひょいと鬼怪猫に飛びのった。


「すぐに荷物をまとめて君達の住処に向かうから。道案内に、この鳥さんを借りるね」

「うわっ、掴むな! おいザイ、こいつになんか言ってやってくれよ!」

「あとでちゃんと返せよ」

「それだけは言って欲しくなかった! ってか人を物みたいに使うなコラ!」

「道すがらじっくり教えてよ。どうして君、喋ってるの? 声帯とかどうなってるの?」

「知るか! てっ、天潤! 助け――うわっ、やめろ! ギャアア!」


 鬼怪猫とともに、フランシスは闇に消えた。引っ掴まれた玄玄の悲鳴が遠のいていく。


「……あの、フランシスさんは館にいらっしゃるんですよね?」

「そうだな……パトロンになってしまったからな」


 罪王は額を抑え、深くため息をついた。

 あんな約束を反故にしない辺り律儀な魔人だ。天潤は感嘆の思いで罪王を見上げる。


「ひとまず戻るぞ。……お前を、これ以上外に出しておきたくない」

「そうですね。どこに財閥の人がいるかわかりませんし……」

「――その件だが」


 罪王が足を止め、わずかに振り返った。仮面の向こうの瞳が冷やかに光る。


「しばらく、お前の外出を禁じる」

「――えっ」

「当然だろう。財閥が嗅ぎ回っているのだぞ」


 罪王はそれだけ言って、再び歩き出した。

 天潤はただ呆然として、空を見上げた。雲の狭間から月の光が注いでいる。霊眼に映るそれは、いつもと色味が違って見えた。どうやら、今宵の月は赤いようだ。


「……どうして」


 月は、なにも答えない。ただ、雨の中で妖しく輝いている。


                    ◇ ◆ ◇


 ――高層摩天楼の一室で、天狼は荒々しく電話を切った。

 サイドテーブルに置かれていたグラスを取り、残っていた幽龍茶を一気に飲み干す。そうして大きく息を吐くと、彼は再び寝台に身を横たえた。


「岳虎が仕損じた」

「おやまぁ」


 窓際で軽く肩をすくめる理凰りおうに、天狼は鋭い視線を向けた。


「……お前はどう思う、理凰」

「あたしはこの通り有給消費中なもので。天狼様が一番ご存知でしょう」

「知っている。そのうえで聞いている」


 理凰はしばらく何も言わなかった。

 夜の海を彩る明かりを見つめて、理凰はゆっくりと口を開いた。


「……天狼様には、あの子が本当に必要なのですか」

「今さら何を聞く?」


 天狼は理凰の言葉を鼻で笑って、顔を覆った。

 指の狭間から覗く瞳――オパールにも似た左の瞳が、薄闇に不気味に輝いていた。


「この百年、我々はずっと苦しみ続けていた。断絶の呪い、無謀な移植手術、金と時間だけを消費する数多の無為な実験……お前にわかるものか、僕の苦痛が」


 淡々と、けれども呪詛の如く天狼は言葉を連ねる。

 その様を、理凰はどこか気怠げに――そして苦々しい表情で、見つめていた。


「けれども、今。ようやくその鍵が見つかったかもしれない」


 天狼は体を起こした。青と緑の瞳で理凰を睨み、まっすぐに人差し指を向ける。


「だから、理凰。なんとしてでも魔人の手から鍵を奪え。どんな手段を使ってでも、何を犠牲にしてでも奪い取れ。――これは命令だ」


 断固たる口調に、理凰は深くため息をつく。

 そうしてゆるりと琥珀色の瞳を動かし、燦然と輝く幽龍の夜景へと視線を移した。


「――まぁ、すでに仕込みはしてありますが」


 そんな囁きが零れた頭上では、赤い月がぼんやりと輝いている。

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