九.殺人鬼
その日、雨期を迎えた幽龍では一日中雨が降り続いた。
日が沈む頃には雨はやんだものの、代わりに薄く霧が街にかかっていた。幽龍城砦の細道が白く煙る中、天潤達は歩いていた。
「……雨ばっかりだ。憂鬱になるぜ」
哭き羅盤を確認する罪王の肩で、玄玄がぼやいた。
「……館で留守番をしていれば良いものを」
「うるせぇな。壊人鬼が来るんだぜ、大人しくしていられるかよ」
「……本当に、現れるのでしょうか」
罪王の後を歩きながら、天潤は呟く。
「現れるだろう。……なにせ、例の龍眼放送がこんな調子だからな」
罪王は哭き羅盤を片付け、代わりに外套のポケットから小さな携行用ラジオを取り出した。
『……設備ノ、トラブルニヨリ、点検中、再開ハ、未定…………』
機械的な音声が延々と流れ続けているラジオを切り、罪王は軽く肩をすくめた。
「よほど重大なトラブルのようだな。……どうもきな臭い」
「臭すぎるだろ。だって一瞬だけ放送が回復した時、流れた内容が――」
「……慈しみの家のドキュメンタリー」
罪王が立ち止まった。天潤もまた足を止め、彼の目の前にある建物を見上げる。
それは、城砦の間隙にねじ込まれるようにして存在していた。
小さな門には、『関係者以外立ち入り禁止』の文字が褪せた文字で書かれている。
「……奇特な人間のやっている孤児院だ。城砦の、身寄りのない子供らを集め、保護している」
「こんな場所が、壊人鬼に襲われたら――」
「皆殺しにされる。……子供の泣き声は嫌いだ。一人の血も流すわけにはいかない」
言いながら、罪王は軽々と門を飛び越えた。
天潤もそれに続いて門を乗り越え、慈しみの家の敷地に足を踏み入れた。
――瞬間、視界が真っ暗になった。
「えっ、何……!」
「どうした、眼球」
罪王が振り返る。彼と玄玄の姿は、白と黒の色彩でしっかりと描かれていた。
しかし、他にはなにも見えない。
「罪王様と玄玄さん以外……なにも見えないんです。霊眼に、周囲の景色が映ってない……」
天潤は一度霊眼を閉じ、そして再び開いた。
今度はさらに気を集中させてみたが、痛むばかりで視界はなにも変わらなかった。
「――よく来たね」
突如響いた女の声に、その場が凍りついた。
罪王が振り返りざまに、正面――恐らくは扉にあたる部分めがけ、縄鏢を投げ打つ。
乾いた音とともに、縄鏢は弾かれた。
「問答無用か。ひどいな」
軽い声とともに、女が一人現われた。
肩まで伸びた髪、ブラウス、首元に巻いたスカーフとブローチ――。その彫りの深い顔立ちは、どう見ても東洋人のものではない。
そして、覚えのある顔だった。
「貴女……たしか、フランシスさん?」
「やあ、いつかの目隠し少女。また会ったね」
息を吞む天潤に、フランシスは鷹揚に手を挙げてみせた。
「あぁっ、あんたは!」
玄玄までもが驚愕の声をあげ、罪王の肩でばさばさと翼を揺らした。
「おぉっ、けしからん優良物件おっぱい! 緑の目をした美人のねーちゃん! 最近城砦をうろついてる西洋人じゃねぇか! どうしてここに!」
余計な情報を大量に聞いた気がする。
天潤は首を傾げ、罪王が鬱陶しそうに顔をしかめる中、玄玄はハッと大きく息を吞んだ。
「ここにいるってことは……ま、まさか、あんたが――!」
「……貴様、壊人鬼か」
地の底から響くような罪王の声に、フランシスは曖昧に笑った。
「好きなように呼ぶといい。……それよりさ、よくここまで来たね。せっかくだから、案内してあげるよ。こっちに来るといい」
フランシスは腕に力を込め、何かを押した。ぎい、と扉の蝶番が軋む音がする。
「貴様……なにを……」
「案内に従わなかったら」
冷ややかな声が罪王の声を遮る。
フランシスは扉を押し開けた体勢のまま、天潤達を見つめていた。
「永遠に出られなくなるかもしれないよ」
冷やかな声に、罪王は沈黙した。
「――なんてね。さ、ともかくおいでよ。中を案内してあげるからさ」
フランシスは軽く手招きをすると、建物の中に姿を消した。
「……罪王様」
「……目は回復したか」
罪王の問いに、天潤は首を横に振った。
視界は相変わらずだ。すぐ側に立つ罪王達の姿ははっきりと見えているが、周囲の様子は黒く塗り潰されたようにしか見えない。
「私の襟巻きを掴んでおけ。……奴に続くぞ。離れるなよ」
罪王の赤いマフラーの端を摘み、天潤は恐る恐る施設に足を踏み入れた。
内部は、しんと静まり返っている。
天潤は何度も目を揉んだり、いつもより多くの気を眼に流し込んだりしてみた。
しかし、なにも変わらない。
これでは戦うどころか、歩くことさえままならない。
この異常がずっと続いたら――痛む眼を抑えつつ、天潤は冷や汗が背中に滲むのを感じた。
「最近は、雨が多いね」
そんな天潤の不安をよそに、フランシスは能天気な話をしていた。
「でも、この街には雨もまたよく似合う。そう思わないか、魔人さん?」
「貴様は何者だ」
フランシスの言葉を無視して、罪王は鋭く問う。
「自分が何者かはっきりと自信を持って言い切れる人間って案外少ないものだよ」
フランシスは肩をすくめる。表情の変化に乏しい女だった。
瞳は硝子のようで、時たまに浮かべる笑みはどこか空々しい。話せば話すほど、以前感じた得体が知れない女という印象が強まるのを天潤は感じた。
「『自分は誰か』――これって人間にとって永遠の命題じゃないかな」
「以前、紫月の殺害現場に来ただろう」
煙に巻くようなフランシスの言葉をさらに罪王は無視する。
「どうだろうね」
「靴音、歩幅、歩く速度――全て貴様の靴音と同じだ」
「すごいね、魔人さん。まるで探偵みたいだ」
「なっ、なぁオイ……真面目に答えろよ」
小さく拍手してみせるフランシスに、玄玄が口を挟んだ。口調こそ刺々しいが、その視線は歩くたびに存在感を主張する彼女の胸部に釘付けになっている。
「あんた……壊人鬼、なのか?」
フランシスはちらりと玄玄を見て、小さく笑った。
「……この街はつくづく面白い。まさか、しゃべる鳥がいるなんてね。東洋の神秘だ」
「な、なんだと! オレは鳥なんかじゃ――!」
「一つ言えることはね」
フランシスが立ち止まった。腕を伸ばし、なにかに手を掛ける。
恐らくそこに扉があるのだろうが、天潤の眼には空虚な闇しか映っていない。
「君達が私に対して考えていることは半分は正しい。けれども、もう半分は致命的に間違っている。――これ以上ないくらいに、間違っている」
かすかにノブのまわる音がした。
扉を静かに開けながら、フランシスは罪王達を順々に見つめ――そして天潤を見た。
「……真実は必ずしも肉の眼に映るとは限らない」
フランシスは悪戯っぽく笑い、小さく片目を瞑って見せた。
天潤は思わず、その顔をまじまじと見つめた。フランシスの言葉は、明らかに霊眼を示している。思えば霊眼がおかしくなったのも、彼女が現われる直前からだ。
「貴女、私の目に――」
何か細工をしたのか。天潤が、それを問う間もなく。
「――ゲームセットだ、殺人鬼」
フランシスは一気に扉を開け放した。
扉が開いたその瞬間、鼻先を一瞬嫌なにおいがかすめた。
そのにおいの正体がなんなのか理解する間もなく、玄玄の怒号が辺りに響き渡った。
「し、死んでやがる……! 遅かった! 野郎、全員殺しやがった……!」
天潤は視覚以外の感覚を研ぎ澄ませた。
音の響き具合を見るに、広い空間だということはわかる。空気の流れは感じない。
玄玄のいう子供達の死体は、霊眼には映らなかった。
代わりに、目の前に人影があった。
痩せた男のようだ。ぼろぼろのコートに身を包んでいる。こちらに背を向け、大きく肩で息をしていた。その手には、大ぶりなナイフが光っている。
「……なんだよ」
ゆらりと男が振り返る。その顔を見た途端、天潤は思わず後ずさった。
若い。恐らく天潤より少し年上くらいだ。ぼさぼさの髪に、フードを浅く被せている。目の下にどす黒い隈が染み着いているのがかすかに見えた。
「来るのがおせーよ、バーカ」
コートの男は、歯を剥き出して笑う。
霊眼に映るその顔が、一瞬ぐらりと陽炎の如く揺らいだ。
「この人、は……」
天潤は痛みを堪え、霊眼に気を集中させる。
それでも、男の顔から揺らぎが消えない。霊眼に映る男の顔は不規則に歪み、時折完全に顔のパーツが消えているように見えた。
「う……っ!」
吐き気を感じた。恐怖ではない。生理的な嫌悪感に、天潤は口元を覆った。
「てめぇ! この腐れ外道が! なんだってこんな事しやがった!」
「何故、だって……?」
玄玄の怒声が響いた瞬間、男の顔がぐにゃりと歪む。
「幸せだからに決まってんだろ……?」
霊眼に映る男の顔は、白く潰れている。
表情はろくに見えなかったが、声音は狂気に震えていた。
「城砦の底辺のゴミどもがさァ! クソするしか能のないガキどもがさァ! おれより幸せそうな顔していいと思ってんのかよ!」
「こ、こいつ……!」
甲高く裏返った男の叫びに、玄玄が絶句する。
「おれはさァ、おれより幸せな奴が許せねーんだ。おれはこんなに頑張ってるのにさぁ……多すぎるんだよ……おれより有名な奴、おれよりできる奴、おれより恵まれてる奴!」
怒声とともに、霊眼に映る男の顔が激しく揺らぐ。
まるで白い炎のように見えた。そこに空いた黒々とした穴が、男が叫ぶたびに歪む。
「どいつもこいつもおれの苦しみも知らない! そんで幸福になった挙句その幸福を誰もおれに還元しないんだ! 怠慢だ! 邪悪だ! ふざけてるだろ、こんなの!」
「なに、これ……」
これは、本当に人間なのだろうか。
天潤は思わず口元を覆い、異形の顔をした男を見つめた。
「オレはさ、ずっと我慢してたんだ……仕方ないって……貧乏でなんの才能もないおれにはどうしようもないって……。けど、ある時……素晴らしい道に気付かされた」
そこで天潤は、異臭に気付いた。
砂糖を焦がしたような――しかし、生理的嫌悪感を掻き立てる、甘いにおい。
「……間違いない。こいつ、狂仙になりかけている」
罪王の低い声に、天潤は彼の顔を見上げた。
仮面の奥に光る瞳がぼうっと淡く光っている。恐らく、霊眼を開いたのだろう。
「霊眼でみると顔が崩れている……狂仙道の信者は歪な修練の末に理性が壊れ、やがて本能のままに快楽を求めて行動するようになる。こいつも、恐らくは――」
「最初は怖かったさぁ……でも、今は最高の気分だよ」
ぶらぶらとナイフを持った手を揺らして、男はけたけたと笑った。
「大体、狂仙とかいうけどさ。狂ってねーよ、おれ達は。幸せに生きたいのは人間として当然の欲求だろ? 他人の不幸なんざ普通はどうだっていいだろうよ!」
「冗談だろ……こんなクズに皆殺されたってのかよ……!」
「でも、こういう人間はかなり多いと思うよ」
震える玄玄の声に、それまで黙っていたフランシスが淡々と返した。
緩やかに腕を組み、彼女はどこか退屈そうな顔で男をみる。
「というか、大半の人間がきっとそうだろう。他人はどうでもいいから幸せになりたい、自分より幸福な他人が妬ましい……人間として当然の欲求だと私は思うけどね」
「ハハッ、そうだよ! みんなもっと正直になりゃいいんだよ!」
笑い声とともに男の顔が再び崩れた。今度は肉体の輪郭さえもぶれている。漆黒に閉ざされた天潤の視界の中で、男はさながら生きた篝火の如く大きく揺れていた。
「あー、久々に喋ったなぁ。昔は喋るのが嫌いだったんだ。けど、今は違う……」
ゆらゆらと炎が揺れる。
そこに一瞬、表情のようなものが浮かんだ。炎に切れ込みが入り、いびつな笑みを描く。
その笑みの邪悪さに、天潤は思わず七星剣の柄に手を掛ける。
「なぁオイ、あんた魔人だろ……おれより有名じゃん。なぁ、どうだ? あんた、幸せか?」
「……答えると思うか?」
「なら死ね――ッ!」
殺意に膨れあがる炎を前にして、天潤は動けずにいた。
霊眼に映る男の姿はほとんど巨大な火の玉と化しているように見えた。しかし、実際の男は手足と凶器を持った人間だ。このまま行動を読めなければ殺される。
ここは罪王に任せた方が良いのか、それとも――。
そんな数秒の逡巡の内に。
「――ひどいな」
彼女は、誰よりも早く全ての行動を完了させていた。
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