八.五一四

 五、一、四――五一四。


 罪王が繰り返すその数字に、天潤は呪帯の下で眉を寄せる。


「……いやな数字ですね」


 五一四は、爛では不吉な数字とされる。

 理由は『我要死』という言葉と、発音が似ているからだ。

 その意味は――『私は死を望む』


「捉え方次第だろう」


 罪王は特に気にするそぶりもない。天潤には目も向けず、目の前の大きなラジオのダイヤルを延々と調整し続けている。いつもよりもずっと顔色が悪い、

 天潤はそっと肩をさすりながら、あたりを見回した。

 ここは廃ホテルの地下――劇場の跡地だ。

 見渡す限り天鵞絨の座席が整然と並び、天井にはシャンデリアまで吊されている。白亜の彫刻類には蜘蛛の巣が掛かっているが、なかなか上等な劇場だったようだ。

 ただ、この場所には幽龍の影響が強く出ていた。

 舞台は半ば崩壊し、隆起した肉や骨でほとんど埋もれてしまっている。その狭間を縫うようにして寝台や書斎机が置かれ、絵や彫刻などの美術品が飾られていた。

 見上げれば、肋骨にも似た骨のあちこちに様々な色や形のランプが吊されている。

 色とりどりの明かりで照らされたこの場所が、罪王の居室だった。

 その片隅で、天潤は二胡を抱えて座っていた。


「博明の記憶を辿ったとき、五一四という数字が繰り返し頭に浮かんだ」


 そう語る罪王は、無数のラジオやオーディオの山の中にいた。

 大小様々な機械のうち、特に性能の良いもののダイヤルをいじっている。


「ラジオの周波数、ですか……?」

「ああ。幽龍で五一四といえば、まず思い浮かぶのが龍眼放送だ。……忌々しいことに」


 罪王は舌打ちする。

 ラジオはざあざあと音を立てている。今日の放送はもう終わってしまっているらしい。


「でも、壊人鬼とラジオになんの関係が――」

「私にも最初、わからなかった。だが、壊人鬼が現われてからの龍眼放送の番組を確認してみたところ――少し、面白いことがわかった」


 罪王は唇を歪めるようにして笑うと、周囲を囲むラジオのいくつかのスイッチを押した。

 途端、ざらついた音声や音楽が空間に溢れ出す。


「これは……?」

「全局の、全時間帯の、全番組だ。毎日録音している」

「そ、それはすごい。なんのためにそんなことを」

「街を把握するためだ。――さぁ、聞け。お前の聴覚ならわかるだろう」

「えっ、そんな。滅相もない。確かに私は眼以外なら色々と自信がありますが、さすがにこれは、その、なんと申しますか、えっと、脳みそが足りないと申しますか――」


 なにやら自分を買いかぶっているらしい罪王を前に、天潤はしどろもどろになる。

 その時、聞き覚えのある名前が鼓膜を振るわせた。


『――舞台芸術に抜擢された楊博明ようはくめいさんは、赤龍胃市場を舞台に活躍する画家で――』


「――え?」

 天潤は、口元を押さえた。罪王はいっそういびつな笑みを浮かべた。

 無数のラジオが――様々な声が、言葉を紡ぐ。


『僕は燐了りんりょう。僕の通う幽龍大学は本当に素敵な――』

『水泳大会で見事一等に輝いた明鈴めいりんちゃん――』

『洗濯屋を営む李六蘭りろくらんさんがこのたび長寿老人として表彰――』

『令さんが家族で営むこちらの料理店は――!』

『人気歌手の紫月しげつさんはこのたび結婚を発表――』


「……まさ、か」

「そうだ、眼球。お前の考えるとおりだ」


 かちりと音を立てて、全てのラジオが停止する。

 口元を押さえたまま声も出せずにいる天潤の前に立ち、罪王は優しく言った。


「男子大学生、女子小学生、洗濯屋の老婆、料理店の一家、歌手――そして、市場の画家。今、名前が挙がったのは、全て壊人鬼の犠牲者だ」

「龍眼放送で名前が挙がった人達が殺されている……?」

「……犯行地点に統一性がないのも、共通点が見つからなかったのもこのせいだ」

「取り上げられている番組が、バラバラだったから……」

「そういうことだ」と罪王はうなずき、天潤の隣に腰を下ろした。


 長い足を組み、編んだ髪をいじり出した。どうやら思案するときの癖らしい。


「挙句、最初の大学生に至っては番組の狭間に差し込まれる広告だ。こんなもの、わかるわけがない。しかし、恐らくはこれで次の犠牲者も予測できる……」

「ですが、取り上げている番組には統一性がないのでしょう?」


 天潤はラジオをほとんど聴いたことがない。それでも、たった一局でも相当の数の番組が毎日放送されていることは知っている。


「特定は困難では?」


 そうとしか思えなかった。

 しかし罪王は髪をいじったまま、天潤の言葉に軽く肩をすくめた。


「そうでもない。ラジオを聞くかぎりでは、犠牲者に恐らくもう一つ共通点がある」

「共通点?」

「幸福である事だ」


 罪王は言い切り、薄い唇を皮肉っぽく吊り上げた。


「……被害者達もいずれも、放送内でなんらかの形でこう口にしている」


『幸せです』――大学生も、老婆も、歌手も。


 壊人鬼の被害者は全員が声を弾ませ、ラジオに自分が享受した幸福を語ったという。

 天順は一瞬、言葉を失った。舞台のどこかで、時計が空しくベルを鳴らす。


「……動機は嫉妬、でしょうか」

「どうでもいい」


 罪王は小さく鼻を鳴らすと、ぐっと伸びをした。

 さすがの彼も、今日は応えたらしい。ぐりぐりと肩を回している様子を見ると、天潤も急激に疲労感がのしかかってくるのを感じた。


「――今日の放送はもう終わっている。奴の殺人のペースは加速し、今回と前回の殺人に関しては一日しか経っていない。この分だと、恐らく明日も殺すだろう」

「……ともかく今は、明日以降の放送に気を配るほかがありませんね」


 天潤は小さくあくびをしながらうなずき、そしてはたと気付いた。


「……あの。ところで、私に二胡を持ってこさせたのは」

「決まっているだろう」


 体をほぐし終えた罪王がけだるげに指を振り、地面を示した。


「一曲だけここで弾いていけ。そうすれば帰っていい」

「今?」「今」


 天潤は肩をすくめると、弓を構えた。疲労は感じるが、弾けないほどでもない。なにより、こうして様々な事があった夜はなにか奏でた方がよく眠れる。

 天潤は、弓を滑らせた。

 龍に吞まれた劇場に、伸びやかな二胡の音色が流れだす。それに彼方から微かに響く龍の拍動や呼吸音が重なり合い、なんともいえない不思議な音を生み出した。


「……見事だ、つくづく」


 罪王は肘掛けに頬杖をつき、目を閉じた。

 どうやら聞き入ってくれているらしい。基本的に二胡を奏でる時は彼はいつも天潤の部屋の外にいる。こうして間近で反応を得られたのは初めてだ。


「そうですか。それは、良かったです」

「ああ……お前には色々と思うところはあるが、お前の音は嫌いじゃない」


 色々と思うところ――その言葉には少し気になるところがあった。

 けれども天潤は、罪王の賞賛に心が弾むような感覚を覚えた。

 所詮、虚呪による消滅に至るまでのひとときの戯れとして覚えた趣味だ。

 けれども、こうして褒められて悪い気はしない。


「もう一曲だけ、弾いていきますよ。貴方の好きなものを」

「なんでもいい。お前に任せる」


 舞台の天井を見上げて、罪王は深くため息をつく。

 そうしてゆるりと持ち上げた手で顔を覆い、消え入りそうな声で囁いた。


「……最近は、お前の音を聞かないと眠れない」


 何故、そうなってしまったのか。

 聞きたかった。けれども隣に座る罪王は、明らかに疲れ切っている様子だった。

 だから天潤は何も言わず、彼が眠るまで二胡を弾き続けた。


                   ◇ ◆ ◇


 ――どこかで、小さなラジオがノイズ混じりの声を流している。

 朝一番のその放送を聞いた途端、壊人鬼はため息をついた。

「――それはひどいよ、龍眼財閥。ひとでなし」

 エメラルドのような鮮やかな緑の瞳が、ラジオを物憂げに見つめている。

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