六.穢らわしき子の群れ
小雨が降り始めていた。
しっとりと髪や服を濡らしながら、必死で大股で歩く罪王の背を追った。
そうしてたどり着いたのは、
「――玄玄」
「ハァ、ハァ……な、なんだよ……ハァ、カァーッ」
「まだ何も始まっていないのにバテるんじゃない。お前は飛べ。上空から探せ」
「お、おう……任せとけ……」
怒鳴りすぎて枯れた声で答え、玄玄は羽ばたいた。
それを仏頂面で見送って、罪王は肩を軽くさすっている天潤に目を向けた。
「――お前は、私よりも霊眼の精度が高い。その目で、偽壊人鬼の痕跡を探せ」
「は、はい……わかりました」
なんだか犬になった気分だ。天潤は罪王の傍に立って、眼に気を集中させた。
水墨画めいた白黒の世界に、色が滲む。
どうやら、ここは赤龍胃市場の倉庫が密集している区画らしい。番号を振られた無機質な建物がみっしりと並んでいる。そのどこにも、人の気配はない。
「――こんなところに、本当に壊人鬼が?」
気の集中を解き、目を軽く揉みながら天潤は問う。
「それに関わる痕跡はあるはずだ。――行くぞ」
それから二人、しばらく黙って歩いた。
上空には円を描くようにして玄玄が飛んでいるが、特に収穫は無いらしい。
搬入の時刻も過ぎているせいか、あたりはしんと静まりかえっている。耳を澄ませればかすかに市場の喧噪が聞こえるが、それよりも雨の音のほうが大きく感じた。
さらさらと、雨が降っている。
――雨の音。母の沈黙。鉄の冷たさ。生まれて初めて見た色は赤と白。
天潤は小さく首を振る。そして罪王に気取られぬよう、何度か深呼吸をした。
「……なんだ」
しかし、無駄だったらしい。低い罪王の声に、天潤は背筋をびくりと震わせた。
「な、なんでもありません。ちょっと、寒気がしただけで……」
「そんなに雨が嫌いか」
その言葉に、天潤は小さく息を飲んだ。
ギイギイと喧しい声を上げる哭き羅盤を見下ろしたまま、罪王は言葉を続ける。
「お前はいつも空を気にしている」
「何故、わかるのですか? 私の眼は封じられているのに」
「……眼が隠されていても、その視線がどこに向けられているかくらいはわかる」
「……恐ろしい人」
「故に魔人だ」
罪王は小さく鼻で笑った。薄い唇は、どこかいびつな弧を描いている。
濡れた手をそっと握り合わせて、天潤はほうと息を吐いた。
「――少しだけ、雨の日は怖いんです。昔から、ひどいことばかり起きたから」
「ひどい事、か……」
「えぇ。全部、雨の日でした。最初に人を殺した日も、次に命を殺した日も――そうして私が母に殺されかけた日も、全部雨だった」
ぴしゃんと小さな音がした。先を行く罪王が、足を止めたのだ。
「……殺されかけたのか、母親に」
「ええ」
「何故」
雨の音がする。頭蓋の奥深くで、こだましている。
――雨の音。母の沈黙。鉄の冷たさ。生まれて初めて見た色は赤と白。
「……七才の頃、村の長の猫を殺したんです」
天潤はぽつりと言った。
「家に迷い込んできて……声が可愛らしくて。私は……見たいと、思ってしまった」
幼い天潤は、言いつけを破って目を開けた。
そうして生まれて初めて見た猫の姿は、肉と骨のぐずぐずとした塊だった。
「母は隠そうとしたけれど、駄目だった……そうして、あの夜……母さんが、私を起こしたんです。……包丁を、隠し持って……」
天潤の鋭い嗅覚は、すぐにその鉄のにおいを嗅ぎ取った。
そうして――天潤は、逃げたのだ。
「……悪かった」
意外な言葉に、天潤は顔を上げた。
霊眼に映った罪王は背を向けたまま。黒いコートに覆われたその背中は痩躯のわりに存外に広く、頑強そうで、そして影のように静かだった。
罪王はそのまましばらく黙っていたが、やがてゆっくりと歩き出した。
「……酷なことを思い出させた」
歩きながら罪王は言った。常よりも感情の読めない、淡々とした声だった。
「酷も、なにも……今さら、何も感じませんよ」
母の手で死ぬべきだったのは事実だ。
そのせいでこうして、呪われた瞳を抱えたままで呼吸を続けている。あの時、大人しく死んでいれば、きっと何も知らずに済んだだろう。
「……それに母さんのことも、さして悪く思っていませんから」
「ほう」
「本当ですよ? 母さんのこと、そんなに悪く思ってはいないんです。こんな眼を持って生まれた私を優しく見守ってくれた……ただ」
母の元にいた時、霊眼は使えなかった。故に、天潤は母の顔を見たことがない。
母と、どんな会話をしたのか。もはや記憶はおぼろげだ。
ただ、はっきりと覚えているのは――。
「……あの人はきっと、私に殺されたくなかったから優しくしていただけなんですが」
天潤の視覚以外の感覚は、常人以上に鋭敏だ。
母の声に、いつも怯えが滲んでいたことを知っている。
母が、天潤の正面に立った事がないことを知っている。
母が食事のたび、殺鼠剤を混ぜるか迷っていたことを知っている。
母の細い手首に、いつも無数の切り傷があったことを知っている。
「別にあの人は、私を愛していたわけじゃない……」
微かな笑い声が聞こえた。
天潤は思わず罪王の顔を見上げる。
霊眼のおぼろげな視界では、彼の表情を読み取ることは難しい。
しかし、それでも罪王の薄い唇が見たこともない弧を描いているのが見えた。濡れた白髪に縁取られたその顔は、いつもよりも白く見えた。
「愛されていなかった? ……それは、結構なことじゃないか」
「何故、そう思うのです?」
罪王は、深くため息をついた。
そしてフードを軽く持ち上げて、天潤を見下ろした。
「愛など毒だ。――お前も、いずれ理解するだろうよ」
どうしようもなく物分かりの悪い子供に語りかけるような口調だった。
天潤がその言葉の意味を問う間もなく。
ギャアギャア! 哭き羅盤が騒ぎ出した。同時に、上空から鋭い声が響く。
「――ザイ! 向こうだ! 向こうで一人死んでる!」
玄玄が高度を下げ、二人の頭上で叫んだ。
罪王は目を細め、駆け出した。
天潤は慌ててその背を追い――そして、たどり着いた。
「これは……っ」
天潤は顔を歪めつつ眼を抑え、霊眼の精度を上げた。
そこはちょうど区画の外れにあたる場所だった。
左右は大きな倉庫に挟まれ、正面は高い塀に隠されている。
塀の向こうには、曇天を背景にして幽龍城砦が物々しく聳えていた。
「うえ……こりゃ、ひでぇな」
天潤の肩に留まり、玄玄がうめいた。
正面の塀、倉庫の壁面。その全てに、抽象化された花々が描かれている。
床には多量の染料がぶちまけられ、雨に濡れていた。
そんな極彩色の空間の中央に、男が倒れている。壮年の男のように見えた。首筋からは染料よりもなお鮮やかな鮮血がだくだくと溢れ出し、血だまりを作っている。
鼻腔を刺すのは染料の刺激臭と、血のにおい、甘ったるい芳香。
それらが混然としたにおいに天潤は反射的に霊眼の集中を解き、口元を押さえた。
「吐くなよ。警邏が来た時に面倒なことになる」
罪王が鋭い声で言って、ざっと辺りに視線を走らせる。
そして染料に染まっていない地面を踏み、罪王は男の遺体へと近づいた。
「……まだ硬直はしていない。後ろから首を掻ききられたようだな。ここまでは直前の犯行と手段が一致している。今までの犯行も、致命傷は首への裂傷だ」
「この……絵も、壊人鬼が?」
えづきつつ天潤が周囲の絵を示すと、罪王は顎に手を当てて考え込んだ。
「……今。すぐにわかる」
妙に引っかかる言葉に、天潤は顔を上げる。
罪王はしばらく静止していた。表情は険しい。
なにかを躊躇っているように見えた。
玄玄が、はっと息を飲んだ。
「お、おい! やめろってザイ!」
玄玄は羽ばたき、罪王の肩へと留まった。
「あのやり方は駄目だって! 下手をすればお前、自分がわからなくなっちまうぞ!」
「……なにをするつもりなのですか?」
あまりにも異様な空気に、天潤は思わず問う。
玄玄の必死の制止も構わず、罪王はゆっくりと男の遺体に手を伸ばした。
「……私の変転には、もう一つ忌々しい能力があってな」
罪王は男の首筋の裂傷に何度か指を滑らせると、ゆらりと立ち上がった。
そうして戻ってきた彼の手は、新鮮な血に濡れている。
「血肉から、対象の記憶や情報をある程度読み取れるのだ。それが新しいものであればあるだけ、より鮮烈に、詳細に……嗚呼。本当に忌々しいが、役に立つ」
罪王は緩く首を振り、小さく鼻で笑った。
「――あまり、見ないでくれ」
そして声も出せずにいる天潤の前で、血に濡れた指先に舌を這わせた。
天潤からすれば、ごく小さな所作に見えた。
けれども、それが罪王にもたらした影響は絶大だったらしい。
「ぐっ、う……!」
「罪王様!」
呻き声とともに体勢を崩しかけた罪王に、天潤はとっさに駆け寄った。
支えようとして伸ばした手が掴まれ、一気に引き寄せられる。
「首……首だ。後ろから、切られた……」
天潤の細腕に縋り付きつつ、喘ぐように罪王が言った。
左目は充血して視界も定まらず、仮面に隠された右目は不規則に光っている。
「おれは……違う、私は……殺された……絵を描いていた、そして……首、私の首…………」
「ざ、罪王様? どうなさったんですかッ!」
「血液の情報のせいだ!」
地面に降り立った玄玄が、羽をばたつかせて叫んだ。
「殺された奴の記憶を読んでる! そのせいで、自分がわからなくなってんだよ!」
「そんな……」
「問題ない、わかっている。おれは
「ええ、しっかりと」
うわごとを続ける罪王の首筋に、天潤はそっと手を添えた。
玄玄は、罪王は殺された人間の――楊博明の記憶を読んでいると言った。
恐らく彼は今、博明の今際の記憶を辿っている。
「私の首はある、あるんだな……殺されたのは私じゃない。博明だ、博明が殺されて……見えた、中肉中背、黒髪、左利き……五、一、四……おれを殺した……嗚呼、声だ。何か言っている。くそっ、違う、これは違う……グ、ウゥウウ……!」
白髪を掻き毟り、罪王が獣のような唸り声をあげる。
あまりに異様な様に内心怯えつつ、天潤は表面上は平静を装って彼の肩を支えた。
その研ぎ澄まされた五感が、かすかな異常を捉える。
「……なに?」
天潤は顔を上げ、あたりを見回した。
いつの間にか雨は上がっていた。ぽたぽたと雫の滴る音があちこちから聞こえる。
異常な音は、ない。
なのに、拍動が早まる。背筋に寒気が走る。
狂仙とはまったく違う種類の寒気に、天潤はおもむろに七星剣の柄に手を掛けた。
玄玄もそれに気付いたのか、嘴をカチカチと鳴らした。
「……天潤、感じるか。ちょっとまずいぞ」
「五、一、四……女……帽子、黒髪、ルージュ、笑い声……うるさい、やかましい……殺された……私が殺した……違う、これは違う……!」
罪王はうわごとを続けている。死者の記憶に完全に溺れているように見えた。
その肩をしっかりと支えて、天潤はごくりと唾を飲む。
「……ええ、玄玄さん。これは、本当にまずいですね」
霊眼の視界に、ふつふつと黒い点が生じる。
それは見る見るうちに形を変えて、やがて赤ん坊のような姿の鬼怪となった。丸々とした手に鋭い爪を持ったそれらが、ずるずると地面から這い出てくる。
「餓鬼だ……血に惹かれてきやがった……」
天潤達の側に寄り、玄玄が喘ぐようにその鬼怪の名を口にする。
餓鬼達はゆっくりと地面から這いずり出て、ぐずるように頭を揺らした。立ち上がっても、それらは天潤の膝くらいまでしか背丈がない。
頭に顔はない。代わりに腹、肘、そして膝に、それぞれ真っ赤な口が蠢いている。
しかし、その数は――ざっと十は超えている。
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