三.魔都に壊人鬼の影
それから毎日、天潤は黒廟娘々を求めて幽龍を彷徨い歩いた。
罪王と玄玄にたずねようとは思わなかった。
話を聞く限りでは黒廟娘々は紛れもなく邪仙。そんな女を何故求めるのかと理由を問いただされたら、ごまかしきる自信は天潤にはない。
どのみち近頃の罪王は妙に忙しい様子で、話しかけることは難しかった。
元々夜以外で顔を合わせることがほとんどなかったが、最近は日が沈んでも姿を見ない。
「館に戻ってくるのもほぼ夜明け前だ」
ある朝、食事の席で玄玄が愚痴を言った。
「おかげでこっちは暇で暇で仕方がねぇよ。一体どこでなにをしているんだか――」
「そうなんですか……」
天潤はというと、ほとんど上の空で相槌を打っていた。
罪王のことなど意識する暇もなかった。
朝食が終われば街に飛びだし、日が暮れた頃にとぼとぼと帰る。――その繰り返し。
ただひたすらに、虚呪を求めた。その手がかりとなる黒廟娘娘を探した。
そうして――死体を見つけてしまった。
「えっ……」
ざあざあと雨の降る幽龍の裏路地。そこに、天潤は立ち尽くしていた。
雨の波紋が微かに浮かぶ白黒の視界。そこに、白いぼやけた像が浮かんでいる。
男だ。
男が一人、濡れた路面に倒れ伏している。
ほとんど切断された首筋から流れ出る血が、街灯にてらてらと光っている。
辺りに満ちているのは雨と、血と――かすかな甘い匂い。
天潤はよろめくようにして後ずさる。
強烈な吐き気を感じた。口を手で覆い、細い体を折り曲げ、なんとか嘔吐を堪える。
死体など見慣れている。これ以上に凄惨な有様の死体など何度も見た。
なのに、この死体には強烈な不快感を感じる。
「っ……そうだ、通報だけでも……しないと……」
本来なら、警邏との接触は避けた方が良いだろう。
なにより天潤は彼らの追う罪王と行動を共にしている。
呼べば、なにが起きるかわからない。
「でも……このままに、しておくわけには……」
ふらふらと歩き出そうとした。
その肩が、強烈な力で掴まれる。
抵抗する間もなく、天潤はすぐ側の小道へと引きずり込まれる。
とっさに七星剣を抜こうとした。
しかしそれよりも早く相手の手が伸び、剣の鍔を押さえつけて抜剣を阻止した。
「――お前! 何故ここにいる!」
「ざ、罪王様?」
はっと顔を上げると、黒い外套を身に纏った罪王が立っていた。目深に被ったフードの陰から、鋭い輝きを湛えた瞳が自分を見下ろしている。
罪王は小さく舌打ちすると、天潤の体を解放した。
「よりによってこんな時にお前に会うとは……ひどい巡り合わせだ」
「罪王様……ま、まさか貴方があの人を――?」
「
罪王は腕を組むと、訝しげな眼で天潤をじろじろと見つめた。
「それよりお前だ。お前は何故ここにいる」
「わ、私は――」
一体、どう答えたものか。まさか虚呪や黒廟娘々のことを口にするわけにはいかない。
思わず口ごもったその時、罪王がかすかに息を飲んだ。
「待て。――誰か来る」
「んむっ」口元を手できつく覆われ、天潤はうめいた。万力のような力だった。
かつかつと微かな足音が響く。
天潤の口元を覆ったまま、罪王が建物の影から様子をうかがった。
死体の上に影が落ちるのが見えた。何者かが死体のすぐ側に立っているようだが、この位置からではそれが誰なのか窺い知ることはできなかい。
「誰だ……? 警邏ではないな。一体、何を……――ッ!」
と、罪王が急に身を引いた。口元をいっそうきつく覆われ、天潤は声も出せない。
「……大人しくしろ。奴がこっちを見た」
頭の上で罪王が呟く中、天潤はひたすら青い顔で彼の手を叩いた。
奇妙な静寂が辺りに満ちる。嫌な緊張感が冷えた肌をちりちりと炙った。
雨の音だけが、やたらと大きく聞こえた。
やがて、再び高い靴の音が響いた。徐々に遠ざかっていく。
「恐らく女か。警邏が来る前に遺体を見たいが、あの女も気になる。……おい、眼球。お前の霊眼は私よりも視野が広いだろう。奴の顔は――眼球?」
聞こえるのは、もはや雨の音だけ。
「ッ、しまった。加減できていなかった……!」
そんな声とともに、口元を開放される。
新鮮な鉄錆のにおいが、鼻腔を刺した。それが雨音ともに、脳裏に嫌な像を呼び起こす。
――雨の音。母の沈黙。鉄の冷たさ。生まれて初めて見た色は赤と白。
「……許して、母さん」
震える呼吸とともに、無意識のうちに言葉が零れ落ちた。
そうして、天潤は意識を失った。
◇ ◆ ◇
――目覚めると、罪王がすぐそばにいた。
正確な時刻はわからない。しかし霊眼に映る視界はほのかに明るいところからみて、恐らく夜明け前だろうと天潤は思った。
「……壊人鬼?」
寝台から体を起こし、天潤は罪王の言った名前に首を傾げた。
「そうだ。そう名乗るものが、最近の幽龍を荒らしている。――
罪王が仏頂面でよこしてきた茶碗に、天潤は口を付ける。
蜂蜜で甘味をつけたその茶は、独特の爽やかな香りで喉を潤してくれた。
「……奴は、少なくとも一月前に幽龍に現われた。犠牲者の数は定かではない。確実に奴の犯行だと把握されているのは十人……いや、今日の犠牲者を加えれば十一人か」
確実に壊人鬼の犠牲者と目されているのは十一人。
男子大学生、女子小学生、洗濯屋の老婆、料理店の七人家族。
そして天潤達が発見した男は、紫月と呼ばれる著名な歌手だった。
先日結婚したばかりの上に、殺されたその日にラジオで新曲を発表した矢先のことだった。
犠牲者同士に接点はなく、人間関係も順風満帆。
「三人目の老婆を殺害した後、犯人はラジオ局に手紙をよこした。曰く、『おれは壊人鬼だ。爛を恐怖に染めるべく舞い降りたのだ』と」
渋い表情で、罪王は腕を組んだ。
「まだ続くぞ……『まだ血が足りない。もっと殺してやる。霧の夜の恐怖を無知なる東洋の民に刻みつけてやろう』――どうだ、ずいぶんな言いようだろう?」
しかし警邏は、最初これを悪戯だとして取り合わなかった。
だが老婆の死の数日後、ある人気料理店を営む家族が七人全員殺されてしまったという。
そして、現場には壊人鬼からのメッセージが残されていた。
「『これはおれをバカにした報復だ。今度のゲームは連邦の時の比ではない。警邏諸君、これでわかっただろう? さぁ、鬼ごっこの始まりだ』――こんな痛々しい文句が、食堂のテーブルクロスに血で書かれていたそうだ」
罪王は犯人のメッセージをそらんじると、頭痛を堪えるように額を抑えた。
「……連邦というと、西洋のアルビレオ連邦のことでしょうか」
「ああ。そもそも壊人鬼とは数年前に彼の国に現われた犯罪者を示す」
罪王の話によれば、アルビレオの壊人鬼が害したのは五人。
警察が威信をかけてこれを追ったものの捕らえられず、壊人鬼は姿をくらました。
「それが、今この幽龍に来ていると?」
「どうだかな。私としては、正直こいつの素性などどうでもいい」
罪王は肩をすくめると、自分の茶碗に幽龍茶を注いだ。
「……最近、幽龍に生じる癌が増えている。そのせいで、鬼怪も湧き放題だ」
ごくりと茶を飲み、罪王は苦々しい表情で言った。
「それがこの壊人鬼を名乗る輩の仕業かどうかは不明だが……いずれにせよ、人殺しは瘴気を生む。原因がわからん以上、疑わしいものは全て潰しておきたい」
「なるほど……だから罪王様は、壊人鬼を追っているのですね」
「そういうことだ」
「なるほど」と天潤はうなずき、幽龍茶を飲み干した。
奇妙な沈黙が落ちた。寝室には、さらさらとした雨の音だけが響いている。
「……おい」
「な、なんです」
「…………悪かった」
一瞬、何を言われたのか天潤はすぐには理解できなかった。
「えっ……な、何故謝るのです……?」
「忘れたか。さっき、お前を――なんだ、その顔は。私が謝るのがそんなにおかしいか」
罪王は仏頂面で天潤を軽く睨むと、立ち上がった。
天潤の側に立つと、サイドテーブルにおいてあった花瓶へと手を伸ばす。
「……話していなかったが、私の手は異能のせいで感覚がほとんど封じられている」
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