二.黒廟娘々
天潤の日常には、ある変化が生じていた。
二胡を演奏したあの夕方から、罪王が部屋に訪れるようになったのだ。
それほど長い時間をともに過ごすわけでもない。
あの夕方のように罪王は窓のひさしに腰掛け、天潤は窓際に座って二胡を弾く。
そして演奏の合間合間に、ぽつぽつと話をする。
「夜中に時々知らない楽器の音が聞こえるのですが、あれはなんでしょう?」
「ふん、ピアノを知らんだと? 成州というのはよほどの僻地と見える」
「ぴあの」
「……まさか本当に知らんのか」
「見たことも聞いたことも」
そんな他愛もないことばかりを話し、必要以上に相手に深入りはしない。
いつの間にか、そんな奇妙な距離感になっていた。
その日の朝は、廃ホテルには天潤以外に誰もいなかった。
食堂にぽつんと座り、天潤はあたりを見回す。周辺では相変わらず木偶がせわしなく走り回り、迅速かつ乱暴に天潤の朝食の支度を調えていた。
「どこに行ったのかしら、玄玄さん……」
罪王はともかく、玄玄が朝から外出しているのは今日が初めてだ。
玄玄はたいてい飯を食っているか、寝ているか、あるいは広間にあるラジオの前でぐうたらしていることが多い。稀に罪王と碁を打っていることもあるが、長くは続かない。
そこまで思いだして、天潤はふと気付く。
「……あれは、本当に鷹なのかしら」
言語を話す。飯を食う。それどころか碁も打つ(試合をすぐにぶん投げるが)。
……改めて考えると、罪王の次に謎の多い存在だ。
「まぁ、幽龍ですもの。ああいう鷹がいてもなんにもおかしくないわね」
ひとまず自分を無理やりに納得させ、天潤は静かに箸を取った。
食事を終えると、早々に天潤は出かけた。
朝食と鍛錬を終えたら外出する――これが、すっかり日課になっていた。
はじめは無愛想だった幽龍の住民は、白翅の襲撃以降はある程度気を許してくれている。
「天潤! ワタ漬け食え!」
威勢の良い声とともに、小さな紙袋が降ってくる。
天潤はとっさにそれを受け止めて、顔を上げた。近くの建物で、先日助けた老婆がしわくちゃの顔に笑みをいっぱいに湛えて手を振っている。
「ありがとうございます、おばあさん。……あの、ワタ漬けって?」
「幽龍名物! 龍の腸の粘膜を切り取って野菜とか詰めて埋めとく! うまいぞ! 古くなった培養肉の切れっ端を詰めてもうまいぞ!」
「ああ、ワタってそういう……」
あまり製造過程を見たくない料理だ。
ひとまず天潤は礼を言うと、紙袋を開けつつ歩き出した。
袋の中には、竹串に刺したキュウリが三本。
少し縮んでいることを除けば特におかしなところはない。天潤は怖々とそれを口に運ぶ。
「…………フルーティ」
想像以上に美味かったそれを囓りつつ、天潤は歩く。
外から見た以上にこの城砦は広く、底が知れない。
縦横無尽に積み重なり、広がるこの迷宮は、一度迷えばきっと一生出られないだろう。
――そのうえ、見えているものが必ずしも正しいとは限らないときた。
「……あの。このお店、前からここにありました?」
「あったよ。べっぴんさん」
ぎこちなくたずねる天潤に、キセルを吹かしていた老人はのほほんとした調子で答えた。
「そんなはずは……」
しきりに首をひねって、天潤はあたりを見回す。
記憶が正しければ、ここは何度も通っているはずの場所だ。甘く香ばしいにおいの煙が漂うこの店は、間違いなく昨日まではここになかった。
「ははぁ、修行が足りんなぁ」
店先に腰掛ける老人はからからと笑う。白い髭を蓄え、昔ながらの絹の道士服に身を包んでいるその姿は、どう見ても高名の方士――あるいは仙人だ。
天潤は一歩下がり、左手で右手を包む抱拳で礼を示した。
「……名のある仙とお見受けいたします。どうぞ、非礼をお許しください」
「良い良い、こんな老いぼれに礼もなにもあるまいよ。楽にしなさい」
老人はまたからからと笑うと、隣に置いていた薬缶から茶碗に茶を注いだ。
「それでなんだい。おれとランデブーしに来たわけじゃあないだろう」
「いえ、少しお聞きしたいことが」
この老人ならば虚呪について知っているかもしれない。
勢い込んで天潤は虚呪と天眼とについて語る。老人はぽうぽうと煙の輪を吐きながら、どこか興味深そうな顔をしてその話に耳を傾けていた。
しかし『虚呪を知っているか』という問いに、老人は首を振った。
「あいにくだが、知らんね」
「そうですか……」
「おれは確かに仙だが、こう見えて若造でよ。あまりその手の話は詳しくなくてなぁ。……まったく、ぐうたらしとったらこの体たらくだ。努力しておくんだったなぁ。世の中にはおれより若いなりした仙がたくさん――っと」
長々と愚痴を続けていた老人は、そこで目を丸く見開いた。
「……そうだ。
「黒廟娘々……?」
戸惑う天潤をよそに、老人はキセルをふかしつつ何度もうなずいている。
「黒廟娘々なら、虚呪の手がかりを知っておるかもしれん」
天潤はよろめくようにして、一歩後退した。
興奮のせいで気が乱れたのか、白黒の視界がゆらゆらと陽炎のように揺れている。
「奴は、
「なるほど……」
あまり性質の良い仙人ではなさそうだ。
しかしその仙人なら、虚呪の手がかりを知っているかもしれない。
ならば、探すほかない。汗ばんだ手を何度か握りしめ、天潤は呼吸を落ち着けた。
「その黒廟娘々というのは、どちらに?」
「さてなぁ。奴は財閥の連中が来た時、つまり幽龍が今の形になった頃から棲み着いとるはずなんだが……ここ二十年近くはとんと姿を見とらんな」
「その、娘々がいそうな場所などに心当たりはありませんか?」
「そうさな……奴は仙ではあるが小娘みたいな感性をした女でな。薄暗い洞よりは、華やかな街を好んでおった。――そういや一時期、財閥の連中とつるんでおった」
「龍眼財閥と……?」
意外な名前に、天潤は一瞬耳を疑った。
多くの場合、仙人とは人と俗世とを憂いたものが過酷な修行を積んで成るものだ。
それ故に、彼らは俗世から距離を取っていることが多い。そんな仙人が、幽龍における俗世の象徴ともいえる財閥と関係を持つとはにわかには信じがたい。
「奴はよ、異端の仙人だ」
老人は茶に口をつけて、肩をすくめた。
「化物が仙人になったようなものだ。普通の仙人とは感性どころか、住んでいる世界がまるきり違う。――だからよ、嬢ちゃん。これだけは言っておく」
老人は茶碗を置くと、天潤をまっすぐに見つめた。
淡い色をした瞳がすっと細められる。その視線の鋭さに、天潤は思わず息を詰めた。
「――黒廟娘々に関わるのはやめておけ。あれは罪深い女だ」
それから老人は、ろくな返答を返さなかった。
天潤がどれほど食い下がっても、飄々とした調子で話すのは天気だの囲碁だのという些事ばかり。黒廟娘々のことはこれ以上聞き出せそうになかった。
天潤は、折れた。
「……私は、これにて。貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました」
「良い良い。久々に若い子と話せて楽しかったぞ」
満足げに笑う老人に力無く頭を下げ、天潤は踵を返した。
「……できるなら、虚呪なんて物騒なもんを探すのもやめてほしいもんだがね」
そんな囁きがかすかに聞こえたが、天潤は振り返らなかった。
虚呪に関する手がかりが見つかった高揚感が、天潤の背中をぐいぐいと押していた。
黒廟娘々――凶光真君と呼ばれる、禁忌に惹かれる女。
天潤は立ち止まり、建物の狭間から空を見上げた。
龍の頭骨が見えた。天を喰らうように開かれたその顎から、陽光が差し込んできている。
「……罪深い女、か」
黒廟娘々を表わすその言葉が、どうしてか耳に焼き付いて離れなかった。
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