八.夕暮れに奏でる

 そして、訪れた夕刻。


 天潤は様々に思いを巡らせながら、二胡を弾いていた。


 背筋を伸ばして、二本の弦の狭間に弓を走らせる。そうして奏でられる伸びやかな音色を聞いていると、いつも心が落ち着くような気がした。

 けれども今は、胸の内はずっとざわついている。

 龍の体内に行ってから――いや、思えばこの幽龍城砦に来てからずっと。

 天潤は、手を止めた。

 そうして二胡を持ったまま席を立ち、窓辺へと向かう。

 窓硝子を開くと、初夏の淡い夕闇に沈む幽龍の景色が霊眼の前に広がった。

 遥か彼方では、摩天楼の海が迫り来る夜に抗うかのように煌めいている。眼下に積み上がる城砦にも煌々と明かりが灯り、幾千にも及ぶ人々の生活音が聞こえた。

 そんな景色を見つめ、天潤はゆっくりと深呼吸する。


「――もう」

「ひっ……!」


 頭上から響いた声に、天潤は一瞬飛び上がった。

 一体、いつからそこにいたのか。見上げると、窓のひさしのところに罪王が腰掛けていた。


「弾かんのか」

「えっと……」


 その問いかけの意味を理解するのに、一瞬時間が掛かった。


「……聴いていらっしゃったのですね」

「ああ」と、罪王はうなずく。仮面をつけている右側の方が向けられているせいで、その表情は天潤からはうかがい知ることができない。

 ただ、今の彼からはいつものような冷やかさは不思議と感じなかった。

 天潤は少し考えると、おずおずと口を開いた。


「……もう少し、弾きましょうか」


 罪王の返事はない。ただ、小さくうなずいたのが見えた。

 天潤はいったん部屋に戻ると、それまで座っていた椅子を窓へと近づけた。

 そうしてそこに座ると、二胡と弓とを構える。


「あの……なにか、聴きたい曲などは」

「なんでもいい」


 天潤は肩をすくめると、ゆっくりと弦の狭間に弓を滑らせた。

 奏でるのは、豹族が歌い継いできた子守歌の旋律。夕闇に流れ出した音色は伸びやかで、懐かしく、そうしてどこか寂しげな響きを孕んでいた。

 言葉はない。部屋を満たすのは二胡の旋律と、さざ波のような街の喧噪だけ。


「……音楽、お好きなんですか」

「それなりに」

「そうですか……」

「なんだ。なにを聞きたい」

「いえ、少し珍しいと思ったので。……貴方が、私の部屋にいらっしゃるなんて」


 わずかな沈黙があった。

 罪王はマフラーに指を掛けると、それを口元にまで引きあげた。


「……少し落ち着かない気分だった。それだけだ」


 仮面とマフラーのせいで、罪王の表情はわからない。

 しかし、その声はいつになくか細い。

 きっと幽龍の答えを得られなかったことが、よほど衝撃的だったのだろう。

 だから、天潤の部屋に来たのだ。

 天潤からしてみれば、虚呪を探す猶予ができただけ本来は喜ばしいことだ。けれども、ここまで参っている様子を見ると少し憐れにも感じてくる。


「……それは、なんという曲だ」

「さぁ、名前というものがあるのかどうか……私達は単純に子守歌といっています」

「豹族の唄か」

「そうですね。私が唯一弾ける豹族の曲です」

「二胡は誰に習った」

「先生に。……こんな眼ですから。昔は娯楽がこれ以外なかったんです」


 淡々と、ぽつりぽつりと会話を続ける。

 音を奏で、言葉を重ねるにつれ、徐々に天潤は心が凪いでいくのを感じた。罪王の声音も、初めに話したときに比べれば幾分か柔らかなものになっていた。


 そうして二人は雨が降り出すまで、共にいた。

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