七.沈黙

 想像だにしなかった展開に息を飲む天潤をよそに、罪王は近くの肉壁に手を当てた。

 凍り付いた天潤の肩に再び留まり、玄玄がいぶかしげに首をかしげる。


「けどよ、答えてもらえんのか? お前のお袋、たまに答えないこともあるんだろ?」

「この問いには、必ず答えが与えられるはずだ。私に天眼の娘の存在を伝え、招くように言ったのは母だからな。――しばし待て」

「で、でも……」


 まごつく天潤をよそに、罪王は目を閉じる。

 このままでは、虚呪を見つけるよりも早く天眼を奪られてしまう。

 目の前の男に天眼を与えれば、なにが起きるか。

 天眼の持つ殺傷力が失われるかどうかさえも不明だ。もしも殺傷力がそのまま保たれてしまうのなら、罪王がそれを乱用する可能性もある。

 さらに罪王の死後は、天眼は一体どうなるのか。

 消滅するのか。それとも罪王の来世に引き継がれるのか。――あるいは自分に戻るのか。


 ――しかし、本当に天眼を切り離せるとすれば。


 自分がこの忌々しい瞳から解放されるのもまた事実。

 そうなれば、もう呪帯はいらない。なんのしがらみもなく、肉眼で世界を見ることができる。

 ほんの数秒の間に、様々な懸念や迷いが脳内を掻き乱した。

 理性、躊躇、衝動、欲望――荒れ狂う感情を抱え、天潤はただ声もなく立ち尽くす。


「――答えてくれ、母さん」


 ざわりと空気が動いた。

 同時に、天潤はそれまで感じなかった何者かの気配が急激に膨れあがるのを感じた。

 肌が粟立ち、背筋にびりびりとした痺れが走る。

 囁きが聞こえた。どこかで、大勢の誰かが会話している。遠く、近く。不安定に揺らぎつつ聞こえるそれは、さながら潮騒のようだ。

 一体、何を話しているのか。天潤は耳を澄ませ――そして、振り返った。

 視線の先には、誰もいない。

 意識を集中し、わずかに霊眼の精度を上げる。わかったことは、せいぜい龍の肉の色が艶やかな桃色をしていることくらいだった。

 霊眼を元の精度に下げ、白黒の世界の中で天潤は浅く呼吸する。

 胸を押さえれば、ばくばくと心臓が脈打っているのを感じる。目に感じる鈍い痛みなど気にもならないほど、天潤は驚愕と混乱の中にいた。

 今、確かに――。


「――おかしい」


 罪王の言葉に、天潤は我に返る。

 気付けば囁きは消え、遠い拍動と息吹の音だけが聞こえた。

 罪王は目を開けて、落ち着きのない様子であたりを見回している。常は表情に乏しいその顔に、今は明らかな不安の表情が浮かんでいた。


「答えが、ない……声がない……何故だ……?」

「無視されたってことか?」


 玄玄の言葉に、罪王は沈黙する。見上げた罪王の背中はいつもよりも小さく、何故だか天潤にはそれが幼い迷子の背中のように見えた。


「……こんなことは、初めてだ」


 やがてぼそりと呟いた罪王の声は揺らいでいる。


「何故だ……? 何故……」

「お前のお袋も知らねぇとかじゃねぇのか?」


 天潤の肩で、玄玄が首をかしげる。しかし、罪王は首を横に振った。


「そんなはずはない。母さんは……母は、私に天眼の娘を探せと言った。必ずそれには意味がある。それに龍は生命と情報の海――知らないはずがない、なのに何故……?」

「な、なら今は気分じゃねぇとか」


 なだめるように玄玄は言葉を続けるが、罪王はそれどころではない様子だった。

 呪帯に覆われた手で顔を覆い隠し、ひたすらに首を横に振っている。


「何故だ……何がいけない? どうして、どうして声が聞こえない……やはり私がいけないのか? 私が醜いから……それとも……」


 悪い子供だからか?

 罪王は押し殺した声で呟き、己の顔を覆う指先に力を込めた。

 それを聞いた途端、天潤は何故か胸にちくりとした痛みが走るのを感じた。

 悪い子。鬼っ子。遠い日の誰かの声が耳に蘇る。

 ――雨の音。母の沈黙。鉄の冷たさ。生まれて初めて見た色は赤と白。

 さながら波の如く、脳裏に嫌な像が鮮やかに描き出される。


「答える時じゃ、ないんですよ。きっと」


 気付けば、天潤はそう言っていた。

 己の顔に爪を立てていた罪王が、動きを止める。


「人間だってそうでしょう? 答えられる時と、答えられない時がある。今がきっとそうなんです。貴方を嫌ったのではなく、今は答える時ではないから沈黙しているんですよ」

「……今は、答える時ではない……?」


 その言葉を繰り返し、罪王は編んだ髪の一房に触れる。視線を揺らし、しきりに編んだ髪に触れる様はいつになく落ち着きがない。

 まるで子供のようだ。

 天潤は、先ほど感じた印象がより強くなるのを感じた。初めは恐ろしい魔人にしか見えなかった彼の姿が、みるみるうちに塗り替えられていく。

 やがて罪王は髪から手を離し、深呼吸した。顔色は悪いが、表情はやや落ち着いている。


「…………戻ろう。これ以上、ここにいる意味はない」

「それがいいぜ。もう飯時だろ。オレ、もうめちゃくちゃ腹が減っててよー。天潤もそろそろ腹が減ったんじゃねぇか?」

「え、ええと……」

「遠慮すんなって! ――そうだ、茶餐廳ちゃさんちょうに行こうぜ。天潤は知ってるか? 朝から晩までやっててよ、安いんだけど飯から菓子までなんだってあるんだよ」


 天潤がまごついている間に玄玄は罪王の肩へと飛び移る。


「なーなー、ザイも行こうぜ。そして奢れ」

「二人だけで行け。……私は館に戻る」

「ちぇっ、付き合い悪ぃぞー。ここで好感度を上げなきゃどこで上げるんだよ」

「やかましい。……愛など毒だ」


 吐き捨てるような最後の一言に、天潤は一瞬目を見開いた。

 それは、奇妙に胸に突き刺さる言葉だった。


「行くぞ、眼球」


 けれども天潤が口を開く前に、罪王は肉壁に背を向けた。その後ろに続きつつ天潤は最後に、先ほどまで立っていた場所を振り返った。

 今日一日で、ずいぶん様々なことが起きた気がする。

 幽龍という街の有様、白翅の襲撃、財閥の追っ手、罪王の様々な顔。

 ――そして、夢とも現ともつかない奇妙な体験。


「……あれは、なんだったのかしら」


 罪王が幽龍に問いかけた時。


「おねがい」――と。そう、何者かが天潤の耳元に囁きかけた気がした。

 果たして誰が、何を天潤に求めているのか。


「おい。遅れるな、眼球」


 離れた場所から、罪王が鋭く呼びかけてくる。いつになく余裕のない声に聞こえた。

 両眼を覆う呪帯に軽く触れて、天潤は再び歩き出した。

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