六.肉と骨と癌細胞
天潤は罪王に抱えられて、延々と落ちていた。
臭気はない。ただ、雨上がりの空気に似たにおいを感じる。
すぐ近くで玄玄の羽ばたく音が聞こえる。そして、自分を抱える罪王の息遣いも。
落下に伴う浮遊感はあるが、速度はあまり感じない。落ちているというよりも、浮遊しながら緩やかに降りているというほうが正しい気がした。
そして霊眼は、いまだ暗闇だけを映している。見えるのは、時折走る光だけ。
「……なにも、見えない」
「気に目が眩んでいるからだ」
ぽつりと呟いた言葉に、罪王が答えた。
彼から返事が返ってきたことに驚きつつ、天潤はわずかに首をひねった。
「目が、眩む……?」
「そうだ。龍は生命力の塊。その体内はいわば気の海だ。その気の量のせいで、お前の霊眼は一時的に情報を処理できなくなっている」
「なるほど……あの、一時的ということはつまり」
「じきに目が慣れる。しばし待て」
素っ気ない言葉に天潤は安堵し、そしてふと思う。
幽龍の体内では霊眼が眩む。こんな視界では、まともに着地もできずに転落死しかねない。罪王はそれを防ぐために、わざわざ自分を抱えてくれたのか。
自分を思いやってくれたのか。――そこまで考え、天潤は小さくため息をついた。
罪王がなにを考えているのか、天潤には計り知りようもない。
天潤自身よりも、天眼が損なわれることを心配したのかもしれない。今までの彼の言動を思えば、そちらのほうがより納得できた。
そうして天潤が悶々と考え続けているうちに、やがて罪王は着地した。
その頃には、天潤の瞳は幾分か回復していた。地面に降り、あたりを見回す。
水墨画めいた視界に広がったのは、まさしく龍の体内。
遥か頭上から地面に広がるまで、艶やかな肉で覆われていた。
地面は安定しているが、側面や上方の肉は蠢いている。それらの蠕動によって時折裂け目や孔が生じ、そこから得体の知れない太い管や様々な形をした骨が見え隠れした。
さらに霊眼は、肉の内側に白い光の線を捉えた。
幾百幾千もの細い線が縦横無尽に張り巡らされている。時折強く輝きながら流れる光は、どうやら龍の体を流れる気らしい。
龍の経絡だ。暗い視界の中で点滅していた光は、あの煌めきに間違いない。
「……この上に、街があるのですか」
「そうだ」と、当然のような顔で罪王はうなずいた。いつの間にか、その顔を覆う仮面は右側のみを隠す形へと変形していた。
雑然とした幽龍の街。奇怪な幽龍城砦。そして、そこに住まう人々。
彼らの足下に、こんな空間が広がっていたのか。
天潤は半ば呆然として、仄暗い闇のわだかまる頭上を見上げた。その肩に玄玄が留まって、ちょんちょんと耳をつついてきた。
「ほら、行こうぜ。この道を使ったら、城砦まではすぐだ」
「え、ええ……」
見れば、罪王はもうすたすたと歩き始めている。その後ろに、天潤は恐る恐る続いた。
沈黙が一行の中に落ちた。
聞こえるのは肉を踏む湿った足音と、彼方から聞こえる拍動。
そして――なにか巨大なもののかすかな息吹。
「……この街は、本当に生きているのですね」
思わず、天潤はぽつりと呟いた。
すると罪王は振り返りもせず「なにを今さら」と鼻で笑った。
「前にも言っただろう。幽龍は、眠る九頭龍の上に築かれたと」
「想像がつかなくて……上で見た時には、龍の姿には到底見えませんでしたから」
「幽龍はさ、本来の形を失ってるんだよ」
地上の街並みを思い浮かべる天潤に、耳元で玄玄が語る。
「数千年くらいは昏睡してるせいで、体はどろどろのでっけぇ肉の塊みたいになってんだ。で、それがここいら一体の土壌になってる」
「なるほど……まさしくここは、龍の都なのですね」
「おうよ。それに形は失ってるけど、龍の馬鹿みてぇな再生力なんかは健在だ。あちこちに新しい骨やら内臓やらができる。この街の人間はよ、それを利用して生活してるんだぜ」
「利用、ですか」
「そうだ。街の人間どもは、我が母から多大なる恩恵を受けてきた」
首をかしげる天順に答えたのは罪王だった。
相変わらず前を見つめるその顔は、どこか険しい表情を浮かべている。
「骨を切り出して柱に、肉を焼き固めて肉煉瓦に。地中の腸を裂いて肥料を、血流から電気を。牙や爪、神経、筋肉、胆汁、胃酸……もはや用途を数え上げることさえ面倒だ」
罪王はわずかに肩をすくめる。
恐らく、町中で見かけた黒灰色の建材が肉煉瓦なのだろう。そして、罪王が天潤を癒やすために使った晶肉もまた、幽龍の肉体から得たものだった。
自分は、想像以上に幽龍の恩恵にあずかっていた。その事に天潤は感嘆していた。
「しかし奴らは……財閥の奴らは、さらに多くの物を奪おうとしている」
吐き捨てるような口調で罪王は言った。
「奴らは百年ほど前に来た新参者だ。しかし我が物顔で街を開き、臆面もなく広げ……そうして強欲にも母の生命を貪っている」
「ま、その欲望で禁軍まで追い返しちまったらしいからなぁ。只者じゃねぇよ」
玄玄がやれやれと言わんばかりに肩をすくめる。
「それが――貴方が、龍眼財閥と対立している理由ですか」
罪王はなにも言わなかった。
見上げた彼の横顔は相変わらず険しい。しかし、先ほどまでの表情とはどこか様相が違う。
眉を寄せ、唇を噛む。――それは、なにかにじっと堪えているような。
「罪王様?」
「お前には関係のないことだ」
「ザイ、もしかしてお前って敵を作るのが趣味だったりするのか?」
「余計な口を挟むな、玄玄」
ぎろりと罪王に睨まれ、玄玄は「おお怖」と身をすくめた。
「それよりよ、このまま戻るのか? ちょっと遠回りじゃねぇか?」
「いや。近くに癌の病巣がある。これを封じてから戻る」
「あー、なるほど。最近、鬼怪が多いもんなぁ……」
「あの……癌というのは?」
目の前でさくさくと進む罪王と玄玄の会話に、天潤は首をかしげる。
「言葉通りの意味だ」
罪王は言いながら、鍼を一本取りだした。先ほど体内への道を開いたあの鍼だ。
それを壁面へと躊躇いなく刺す。
ぷつりと音を立てて鋭い金属が肉に食い込む。針が細いせいか、あるいはなにかコツがあるのか、血が流れ出る様子はなかった。
「お前、
「で、できます」
「ならばすぐにやれ。私には必要のないものだが、お前には必要だろう」
「オレにも必要ないぜ! なんたってしっかりと鍛錬を――!」
「お前はまぁ……ほとんど鬼怪のようなものだからな」
「鬼怪じゃねーよ! 本当に失礼だなお前は! オレは鳥だ! 違う! 人間だ!」
なにか聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がしたがそれはさておき。
天潤はひとまず自らの鼻と口に指先を当てた。
「――【
吸い込む空気が、一気に清々しいものへと変じた。
浄気法は、淀んだ気――瘴気が濃い場所に踏みいる際に使う方術だ。
並みの人間が瘴気を吸い込んでしまえば徐々に身を蝕まれ、やがて鬼怪へと変じる。それを防ぐために、この方術は用いられる。
天潤が浄気法を済ませたところで、罪王は鍼を素早く抜いた。
「話すよりも実際に見た方が早い。開けるぞ――【開(カァイ)】」
罪王が囁く。途端てらてらと光る肉が素早く収縮する。さながら水面に石を投げ込んだかの如く、ぱっくりと大きな孔が開いた。
今までと同じような、骨と肉とで形成された空間が目の前に広がる。
けれども、そこに異様なものがあった。
薄闇の中に鎮座するそれは、本来なんらかの臓器なのだろう。
軟らかな肉の塊が、規則的にびくりびくりと蠢いている。それだけでも十分異様だったのだが、目を奪われたのはその表面。
黴にも似た黒い何かが、臓器に貼り付いている。
それはまさしく黴の如く、黒く細長い糸状の部位を肉の表面に張り巡らせていた。特に色の濃い部分では肉も変形し、ぼこぼこといびつに隆起している。
「あれが癌。言葉通りの悪性腫瘍で、瘴気の塊だ」
震える黒い肉塊を指さし、罪王は語る。
「あれは、なんらかの要因で幽龍の体内に瘴気が生じると発生する。癌自体も瘴気を発し、放置すれば徐々に周辺の部位を侵し……最終的に死滅させてしまう」
「瘴気を発する、ということは……」
「恐らく想像の通りだ。癌は鬼怪を呼ぶだけでなく、鬼怪を発生させる」
天潤の脳裏に、爽英を襲った獲首花が浮かぶ。本来森の中にしかいないはずのあの鬼怪が街中にいたのも、恐らくこの癌が原因なのだろう。
「このまま放置すれば母が死にかねない。――だから、ここで封じる」
罪王は左手の袖を軽くまくりながら、癌に冒された臓器の前に立った。
呪帯に覆われた手を、躊躇いなく癌に当てる。
その左手に一瞬、細い光の筋が浮かび上がった。光る血管を彷彿とさせるそれは瞬く間に肩から指先へと駆け抜け、そうして龍の癌へと到達する。
「グ、ル……!」
獣の唸りにも似た声が罪王の喉から漏れた。顔は歪み、額には薄く汗が滲んでいる。
光の線は蜘蛛の巣状に癌を覆った。
泡立ち、細く煙のようなものを吐きつつ、黒い肉の塊は徐々にその形を変えていく。
「……ひとまずは、これでいい」
やがて肩で呼吸しながら、罪王は左手を離した。
そこにはもう癌の形跡は一切なく、艶やかで柔らかい肉壁のみがあった。
「治ったのですか?」
「……ひとまずは。組織構造を無理やり正常なものに作り変えた。軽度な癌ならば、これでもう問題はないのだが――」
天潤は恐る恐る罪王の傍に立ち、目の前の臓器を見つめた。
びくびくと脈打つそれが一体人間でいえばなんの臓器に当たるのかはわからないが、一見すると完全に治っているように見える。
「……癌と言うことは、再発することもあるのですか」
「ある」罪王は即答した。
「昏睡の影響で、幽龍の抵抗力は大きく落ちている。だから誰かが常に幽龍を見守らなければならない。……癌に限らない。いかなる病変でも見つけ次第、治療しなければ」
「……龍眼財閥は治療を行っているのですか?」
天潤の問いに、罪王は小さく鼻で笑った。それが恐らく、答えだった。
「連中が気にしているのは目先の利益だけさ」
肩に留まる玄玄が小さく舌打ちして、身を揺らした。
「あいつら、発電所に当たる心臓が心停止を起こせば狂ったような騒ぎを起こすんだ。けど、それ以外にはそりゃもう恐ろしいほど腰が重い」
「そうなんですね……」
「幽龍を治してんのは、ザイを除けば物好きな方士どもくらいだ」
確かに、龍の体の病変などというのは方士の管轄になるだろう。
思えば、幽龍城砦には診療所の他に方術や風水を扱う店の看板が異様に多かった。彼らもまた、罪王と同じように幽龍の病変に対処しているのだろうか。
龍と暮らし、龍を癒やす。――幽龍は、まさしく神秘の都だ。
虚呪は、この街にこそ存在しているのかもしれない。
「――幽龍に棲む人間が恐れていることは、二つ」
物思いにふけっていた天潤は、罪王の言葉に我に返った。
罪王は呪帯に覆われた指を二本、立ててみせた。
「一つ、幽龍が死ぬこと。二つ、幽龍が目覚めること」
「……目覚めたらどうなるのですか?」
死ぬことを恐れるのは理解できる。
幽龍が死ねば、この街に与えている全ての恩恵が失われるだろう。
しかし、目覚めれば一体何起きるのか。
うっすらと嫌な予感を感じつつ天潤がたずねると、罪王は唇を歪めて笑った。
「飛ぶのさ。決まっているだろう」
その一言で、わかった。
恐らく昏睡から目覚めた幽龍は、本来の龍としての形を取り戻す。そうしてさながら人間が寝床から起き上がるように、再び天へと舞い上がるのだろう。
そうなれば街は、人々は――あまりにも破滅的な想像に、天潤は身を固くする。
「そう怯えさせんなよ、ザイ」
呆れた口調で言って、天潤の肩から罪王の肩へと飛び移った。
「地震と似たようなもんだろ。明日か、明後日か……あるいは百年先か千年先か。幽龍がいつ目覚めるかなんて、誰にもわからねぇんだからさ」
「……さっさと目覚めた方が良い」
「ひねくれやがって。そんなだから友達できねぇんだよ、お前は」
「やかましい」
肩から玄玄を払いのけ、罪王はまた処置を施した臓器を一瞥した。
「館に戻るぞ。ひとまずの対処はできた」
「……あの、もう一つうかがいたいことがあるのですか」
「なんだ、眼球」
すでに歩き出していた罪王が振り返り、じろりと見つめてくる。
鋭い目つきに一瞬気圧されつつ、天潤はかねてから気になっていたことを口にした。
「罪王様は幽龍と会話ができるのでしょう?」
天潤が天眼を宿していることを、罪王は『母から聞いた』と言った。
そして、罪王にとっての母は幽龍だという。
つまり彼は、眠る幽龍となんらかの手段で意思疎通しているに違いない。
「ならば、幽龍に聞いてみることはできないのですか? いつ目覚めるのか、とか――」
「……確かに私は母と会話ができる。しかし、母が全ての問いに答えるとは限らん。少なくとも目覚めについて明確な答えを得たことはない。――だが、そうだな」
そこで罪王は言葉を切り、しげしげと天潤を見つめた。
品定めするような視線だった。なにかいやな予感を感じて、天潤は身じろぎする。
「あの、罪王様……?」
「ちょうどいい。ここで、お前から天眼を切り離す方法をたずねるとしよう」
血の気が引いた。
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