五.龍体穿孔
「うじゃうじゃ飛んでやがる! 財閥の奴らが放したんだ! この分だと警邏も来るぞ!」
軽業師の叫びに、通りは瞬く間に怒りの声に包まれた。
「財閥のクズ!
「絶対にあいつらが白翅を城砦に誘導したんだ、間違いねぇ!」
怒号とともに、八つ当たりに瓶か何かを叩き割る音も混じる。平穏が戻りつつあった通りは、いまや龍眼財閥への怒りと憎悪によって塗り潰されつつあった。
「ふん。財閥というものはどうやら相当暇なものらしい」
わずかに身をすくめる天潤をよそに、罪王は一瞬だけ薄く笑った。
そんな彼に、軽業師は大きく手を振った。
「じきに錘蛇が来る! ここは俺達がなんとかするからとっとと行け!」
「……任せていいのか」
罪王が短く問う。すると、軽業師は華やかに彩られた顔に不敵な笑みを浮かべた。
「追い返すのは俺達の仕事だ。早く行っちまえ!」
「行け、魔人!」「任せておけ!」「警邏なんざブチのめしてやる!」――。
軽業師の言葉に続いて、威勢の良い声が矢継ぎ早に降り注いだ。
罪王はぐるりとあたりを見回し、小さくうなずいた。
「……恩に着る」
そうして罪王は、無造作に天潤を肩の上に抱え上げた。
「きゃっ――!」
「気分が悪いだろうが我慢しろ。――行くぞ」
思わず悲鳴を上げる天潤に囁き、罪王は地を蹴った。
耳元で風が高く唸るのを天潤は聞いた。同時に、霊眼に映る白黒の世界が急激に加速する。
「速い――ッ!」
感じた事のない速度だった。
ただでさえ曖昧な天潤の視界はその速度に揺らぎ、瞬く間に後方へと過ぎ去っていく。
風に攫われた気分だった。
「ザイ、来やがった! 上にいるぞ!」
落ちないよう必死で罪王の肩にしがみつく天潤の耳に、玄玄の声が聞こえた。
直後、甲高い声が耳をつんざく。
はっと見上げた天潤の霊眼に、細い帯のような何かが三つ映った。
それは身をくねらせ、まっしぐらに降下してくる。
近づくにつれてその姿は天潤の目にもはっきりと見えてきた。
白い蛇にも似た姿、長細い口に鋸のような牙、鞭の如くしなる強靭な赤い尾――。
「錘蛇……!」
爛ではよく見かけられる鬼怪だ。
簡単な方術で手懐けることができるため、これを猟犬代わりに用いる者も多い。しかし天潤のよく知っているそれよりも、目の前の錘蛇は少し異様な姿をしていた。
頭部にはゴーグルのような機械。白い胴体には『龍眼都市開発』の焼き印。
恐らく、警邏の使っている鬼怪だろう。
天潤達を追う錘蛇はその口を大きく開くと、凄まじい声で叫んだ。
「なんて声――ッ!」
ガラスを引っ掻くようなその声に天潤は顔を歪める。
錘蛇は鳴き声で仲間を集める。
そしてその優れた視覚と嗅覚で、どこまでも獲物を追いかける厄介な鬼怪だ。
罪王が小さく舌打ちするのが聞こえた。
「……性能が前よりも上がっているな。このまま逃げ切るのは難しそうだ」
「えっ、そんな。私達、逃げられないのですか?」
「そんなわけがなかろう。――考えはある」
罪王は裏路地へと駈け込むと、振り返りざまに右手を振るった。
袖がひるがえり、そこから勢いよく銀の鎖が伸びる。
一匹は頭部と喉、即死。二匹目は喉と胴体、即死。三匹目は頭部に二発、即死。
三匹の錘蛇が地面へと落ちるのを見届けて、罪王は天潤を地面に下ろした。
「幽龍に潜る。しばし待て」
「も、潜るってどういうことですか?」
「文字通りだ。黙ってみていろ」
言いながら、罪王が太い針のようなものを取りだした。
鍼灸師が遣う鍼をそのまま大きくしたような形をしている。ただ柄頭の部分が平たく、そこに陰陽の印が描かれているのが変わっていた。
罪王はそれを、地面に突き立てた。
「【
黒い舗装に、赤い筋が浮かび上がった。
それは見る見るうちに広がり、てらてらとした光沢を帯びていく。同時に、天潤は鼻先にぬめるようなにおいが広がるのを感じた。
肉だ。罪王の足下の地面が、瑞々しい肉へと変異している。
声も出せずにいる天潤の目の前で、肉の地面にぷつりと小さな穴が開いた。
「眼球、来い。潜るぞ」
「はっ、はいっ!」
状況はさっぱり読み込めないが、天潤は慌てて罪王へと近づこうとする。
その時、真上からシューシューと小さな音が聞こえた。
はっと顔を上げると、屋根の上で二体の錘蛇が天潤を睨み付けていた。
天潤はとっさに七星剣の柄に手を掛けた。しかし、錘蛇はシューシューと鋭い威嚇音を発するものの、どういうわけか襲ってくる気配がない。
天潤の側で羽ばたきつつ、玄玄は訝しげに錘蛇を睨みあげた。
「なんだ、あいつら……? どうして襲ってこないんだ?」
「どうでもいい。早く潜らねば警邏が来る」
罪王は鋭く手を振り払った。不規則に膨らむ錘蛇の喉を縄鏢が貫き、絶命に至らしめる。
縄鏢を死骸から回収すると、罪王は天潤に向かって荒っぽく手招きした。
「来い、眼球。この穴から幽龍の体内に入る」
体内に入る――まるで想像がつかない行為だが、ひとまず天潤は穴の縁に立った。
霊眼に映ったのは、今までに見たことがない光景だった。
「えっ……ま、真っ黒……!」
視界が、黒く塗り潰されて見えた。
どれほど暗い場所でも、霊気を捉える霊眼ならば光源に関わらず周囲の様子は把握できた。今、天潤の目の前にあるのは見たこともない暗闇だった。
その闇に、時折奇妙な光が走る。それでも、穴の内部の様子はまったく見えない。
ここに飛び込む――得体の知れない奈落を前に、天潤はわずかに躊躇う。
しかし、その一瞬の間に、強引に体を引きあげられた。
「う、わっ――!」
「動くな。……何度も触れられて気分が悪いだろうが我慢しろ。動いたら落とす」
軽々と片手で天潤を担ぎ上げ、罪王が低い声で囁く。
そのまま彼は躊躇いなく暗闇へと飛び込んだ。続いて、玄玄も急降下する。
二人と一羽をそのうちに呑み込み、穴は一気に口を閉じた。
天潤の視界は、完全な暗闇に包まれた。
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