四.魔人の問い

「て、天潤! まずいぞ!」


 背後で玄玄が叫ぶのが聞こえる。

 一体、どうするか。天潤は奥歯を噛みつつ、七星剣を握り直す。

 方術で――しかし自分の方術は子供だましのようなもの――剣を使えば――接近する必要がある――あの二対の腕が邪魔になる――どうすれば――どうすれば――。

 思考が錯綜する。そうして迷っている間にも、白翅の腕の輝きは強まり、そして――。


「――何故、天眼を使わない?」


 声が、した。

 天潤は思わず振り返る。黒い影が疾風の如く駆け、一息で天潤のそばをすり抜けた。

 白髪がなびく。瞳が残光を引く。マフラーが風に流れて翻る。

 そうして罪王が、白翅へと躍りかかった。

 突進の勢いのまま、罪王が空中で大きく体を捻る。振りかぶられた左腕は黒い甲殻に覆われ、鋭い鉤爪を備えた異形のものと化していた。

 それを、罪王は白翅の頭部めがけて叩き付けた。

 破砕音。白い破片と無数の花弁とともに、赤黒い体液が空中で炸裂する。


 キィイイ――! 耳障りな高音の悲鳴に、天潤は思わず耳を押さえた。


 揺らぐ視界に、白翅の周りの揺らぎが一気に消失したのが見え。狂仙術が阻止されたのだ。

 大きく体をのけぞらせ、白翅は頭部を押さえる。

 ひび割れた白い殻の向こうには、色とりどりの花々が咲き乱れている。そして、その狭間に腐肉にも似た赤黒い肉が詰まっていた。

 肉の中に埋め込まれた眼球が、再度罪王の姿を映す。

 白翅の眼前の建物に着地した罪王は、左手を後ろに引いていた。

 めきめきと音を立てて肉と骨が変形し、爪がさらに鋭利に伸び、硬質化し――。


「――死ね、外道のもの」


 低い囁きが聞こえた気がした。同時に、罪王は思い切り左手を突き出した。

 より鋭く変形した腕が、爆ぜたような勢いで伸びる。

 いびつに伸びたそれは一瞬で高速の域に達し、神槍の如く白翅の胸をぶち抜いた。

 断末魔の悲鳴がサイレンの如く幽龍城砦に鳴り響く。

 破片と花弁、そして体液が滝の如く降り注いだ。白翅の体は建物の側面から剥がれ、どうと轟音を立てて地表へと倒れ伏した。

 その全てを、天潤は呆然と見つめていた。

 罪王は白翅の死骸を油断無く睨みつつ、左手を軽く振るった。それだけで腕はまたみしみしと音を立てて変形し、元の腕の形へと戻っていった。


「……何故、天眼を使わなかった?」

「それは……」


 射貫くようなまなざしに、天潤は思わず視線を逸らす。

 しかし罪王は容赦がなかった。大股で歩み寄ってきて、凄まじい力で顎を掴んでくる。


「っ……痛ッ……!」

「お前の瞳はあらゆる呪詛を打ち破り、万象を殺す」


 呪帯に隠された天潤の目を見つめ、罪王が目を細めた。


「何を躊躇う必要がある? その瞳で、あの白翅を殺せば良かっただろう」

「……狂仙の類は、不死と言います。天眼が通じるかはわかりません」

「嘘を吐け。白翅如きなら殺せるはずだ。異能を消し、呪いを破り、命を奪うのが天眼だぞ」


 罪王は断言して、天潤に顔を近づける。

 瞬間、天潤は背筋に寒気が走るのを感じた。

 自分を睨む罪王の双眸。露わになっている左目と、仮面の眼窩から覗く右目。

 その右目の数が、多い。


「答えろ、眼球。敵を殺しうるその力を、どうしてお前は使わなかった?」


 まっすぐに睨んでくる左目と、重なり合うようにして自分を睨む複数の右目。

 ――この仮面の向こうは、一体どうなっているのか。

 天潤は怯えつつ、口を開いた。


「――私は、この眼が嫌い」


 言葉にした途端、少しだけ気が落ち着くのを感じた。

 だから天潤は、異形のまなざしを持つ罪王の顔をまっすぐに見つめる。


「出来る事なら使いたくないのです……。そして羅教において、天帝は無益な殺生を避けるよう教えを説きました。だから、そのお言葉に従って――」

「……戯言だ」


 罪王が吐き捨てるように言った。同時に、仮面の向こうにあった複数の眼が消える。

 元通り二つの目で天潤を見つめ、罪王は不愉快そうに顔を歪めた。


「羅教などを真に受けるのか? あれは人間の都合でさんざん改変されてきた。教えを説く羅士らしどもは時代によって言うことが違う。あんなものを信じるのは愚の骨頂だ」

「それでも、一つの指針たりうるでしょう」


 天潤は罪王の手から離れると、ポケットから小さな本を取りだした。

 虚空典こくうてん――師である玉蓮真人から授けられたものだ。これは方術の初歩的な教本であるだけでなく、羅教の経典の一つとも言える。


「万象の命を奪う、忌むべき瞳を持って生まれてしまったのです。――ならば少しでも天帝の教えを守って、人間としてより良い道を歩んだ方が良い」


 雲と牡丹の絵を描いた表紙を見下ろし、天潤はぽつりぽつりと語る。


「……馬鹿馬鹿しい。理解に苦しむ。」


 罪王の表情ははっきりしない。ただ、深いため息が聞こえた。


「お前の力は人間の域を逸しているのに、何故そこまで人間として生きることに固執する?」

「わ、私は、まだ人間です。天帝の教えに従って、人としての道を――!」

「それは本当にお前のための道なのか? お前は、本当に――」


 突如、沈黙が訪れた。異様な静寂に、虚空典をきつく抱き締めていた天潤は顔を上げた。

 見上げた罪王の顔は青ざめ、唇はわなわなと震えている。

 どう見ても、只事ではない。


「あの……罪王様、なにか――?」


 虚空典を仕舞い、七星剣に手を掛けつつ天潤は振り返る。

 罪王の視線の先には、薄暗い店があった。さすがに霊眼では視認できないが、その硝子戸には恐らく天潤と罪王の姿が映っている。そのほかには、なにもない。


「――醜い」


 かすれた罪王の声に、天潤は虚を突かれる。

 醜い。――その言葉の意味は。一体、彼の目には何が映っているのか。

 しかし天潤がそれを問うよりも早く、老婆の泣き声が響き渡った。


「――紅蘭! 紅蘭!」


 転びそうになりながら、老婆が必死の形相で駆けてくる。その後ろには、「転ぶんじゃねーぞ!」と警告しながら玄玄が飛んでいた。


「おばあちゃん、あたしは平気よ!」


 物陰に隠れていた眼鏡の女も、よろめきながら出てくる。どうやら天潤の方術はしっかりと発動したらしく、特に怪我をしている様子はない。


「紅蘭! 良かった、良かったよ!」


 祖母と孫は涙ながらに抱き合った。そんな様子を見て、天潤はほうと息を吐く。

 周囲には、徐々に人が戻りつつあった。

 住民達は悪態を吐きながらも瓦礫や塵の片付けを始めている。一方で遠くから駆けつけたらしい方士達は白翅の死骸に群がり、爛々と光る眼でそれを観察していた。

 それを見て、天潤は思い出す。


「あの、残り二体の白翅は……」

「私が片付けた。脅威は去った」


 罪王の声は、穏やかだった。

 仮面に半分隠された彼の顔には、もう恐怖と緊張の色はない。平穏の戻った街を見つめる罪王の表情は、いくらか安らかなものになっていた。

 その顔を見て、天潤は直感した。

 恐ろしい人だと思う。そして、謎の多い人だ。けれども――恐らく、邪悪ではない。


「……なんだ。私の顔を見るな」

「あっ……申し訳ございません……」


 どうやら霊眼の視線に気付いたらしい。

 不機嫌そうに軽く睨み付けてくる罪王に、天潤は慌てて頭を下げた。

 その時、二人の頭上から怒鳴り声が響いた。


「――魔人! 錘蛇スイダが来るぞ!」


 見れば、近くのビルの屋上に男が一人。

 派手な服装と化粧を見る限り、どうやら軽業師のようだ。男は給水塔の上で器用にバランスを取り、罪王に向かって必死の形相で彼方を示していた。

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