六.生きている都で
「あの、晶肉とはなんです?」
罪王はズボンのポケットから何かを取りだし、天潤に渡した。
小さな硝子瓶。中に、透き通ったなにかが入っている。
硝子か水晶のかけらのように見えたが、揺らしてみるとぷるぷると小刻みに揺れる。
「それが晶肉だ。幽龍の最も清らかな肉。あらゆる傷病に癒やす霊薬だ」
一通り天潤が晶肉を見たところで、罪王はその手から硝子瓶を取った。
晶肉を見つめ、淡々と言葉を続ける。
「これは幽龍でとれる資源の中で、最も貴重なものだ。私はこれを十年がかりで集めたが、そのほとんどをお前を癒やすために使った」
「そ、それは……」
「故に私はお前の天眼を要求する」
断固たる口調で言い切る罪王に、天潤は内心おののいていた。
それだけのことをしてまで罪王が天眼を欲していることが、恐ろしかった。
しかし天潤はぐっと手を握りしめ、呼吸を落ち着けた。
「何故、天眼を欲するのですか」
「…………天眼は、この世で最も美しい瞳と聞く」
呪帯に覆われた腕を伸ばし、罪王は天潤の顎を掴む。
万力のような力に、骨が軋むのを感じた。反射的に首を引こうとしたものの、抵抗も空しく天潤の顔は罪王に引き寄せられる。
「果たして誰が語ったのかは定かではない。しかし伝承には確かにこう語られている……『万象を殺し、如何なる呪詛をも打ち破る其れ、まさしく天帝の瞳。彼の瞳の前には、いかなる宝玉も輝きを失う』と」
「……直視すれば死ぬ瞳ですよ」
指先を目元に滑らせてくる罪王に、天潤は信じられない思いで囁く。
「この忌むべき瞳を、ただ美しいという理由だけで貴方は欲するのですか……!」
一瞬の沈黙があった。
息が掛かりそうな距離で、天潤と罪王はじっと見つめあった。
「毒鳥の羽、辰砂の赤、利刀の光……本当に美しいものは、死を孕んでいるものだ」
そう言って、罪王は笑った。いびつな笑い方だった。
「私は、美しいものが好きだ。だから、お前の瞳が欲しい。どんな手を尽くしてでも、お前の瞳を私のものにしたい。……それに、お前にとっても悪い話ではないはずだ」
「それ、は……」
「解放されたいのだろう?」
そっと、魔人が耳元に口を寄せてきた。
耳朶を通して流し込まれる囁き声に、じりじりと脳髄が炙られていく。
「見たものを灼き、殺す瞳。……手放したいだろう? お前は瞳を捨てたい。そして私は瞳が欲しい。――躊躇う理由などないはずだ」
甘い囁きと、鼻先を漂う夜の香りに、頭がくらくらする。
このままでは完全に魔人に堕ちてしまう。――酩酊する思考の中、天潤は強く唇を噛んだ。
鉄錆の味が舌に広がる。尖った痛みで、いくらか意識がはっきりした。
「……確かに、悪い話ではありません。」
唇から血を流しつつ、天潤は小さくうなずいた。
罪王が表情を消す。顔に触れたままの彼の手を剥がし、天潤は霊眼で彼を見つめた。
「しかし、天眼は私の霊魂と深く結びついています。たとえ眼球を抉り出したとしても、天眼は消えない。抉り出した眼球は色褪せ、朽ちるだけ」
「だろうな。それでどうにかなるのなら、お前はとうに天眼から解放されているだろう」
天潤は苦々しい顔でうなずいた。
何度もこの両眼を潰した。眼球を抉り出した。ありとあらゆる手段を試したが、それでも何事もなかったかのように眼球は再生し、天眼は消えなかった。
「だから、私から天眼を切り離すことは――」
「できる」と罪王は当然のような顔で言い切り、天潤のベッドから離れた。
窓辺へと向かい、磨り硝子の窓を開ける。
「ここは幽龍。不夜城。龍の都。無限の街」
霊眼に映ったのは、幽龍の夜景だった。
電灯、ガス灯、ランタン、ネオン管。様々な極彩色の明かりが闇に浮かび、鳴動する。夜空に抗うかの如く乱立する摩天楼が、漆黒の闇を彩っている。
あの象牙にも似たモニュメントもまた、ほのかな赤い光を明滅させながらそびえている。
「この街は、幽龍の――昏睡する九頭龍の肉体の上に形成されている」
煌めく夜景を背景にして、罪王は緩く手を広げた。
ざわり、と空気が動く。
それは夜風というよりも、なにか巨大なものの呼吸のように天潤には感じられた。
「龍は生命の源。森羅万象の礎。故にこの世の全てはここに集う。神霊の遺産も、仙人の享楽も、人間の猿知恵も……いかなる知識もここに在る」
この世の全ては龍から生じ、そうして龍に還ってくる。
旅人が故郷に帰るように、迷子が親を求めるように自然なこと。――罪王は、そう語った。
「全ては必ず龍の元に集う――かつて母は私にそう言った」
「貴方の母、というのは……」
「幽龍だ。私は幽龍の胎から生まれ出で、ここに在る」
真顔で罪王は答えた。ただの比喩というわけではなさそうだった。
聞きたい事は山ほどある。けれども天潤の頭にあったのは迷いと疑い、焦燥だった。
本当のことを言えば、天眼を手放したかった。
望まずに宿した忌むべき瞳。これを呪わなかった夜はない。
天眼の呪縛からの解放は、間違いなく天潤の望みだ。それが可能ならば霊魂から切り離し、天眼を手放したいと、虚呪の存在を知る前はずっとそう思っていた。
そして罪王は、天眼を切り離す術は間違いなく幽龍にあるという。
――しかし、果たして罪王に渡して良いのか。
天眼が罪王に渡ったところで、その殺傷力が失われるとは思えない。
もし、罪王が天眼を悪用したら。そして罪王が死んだ時、天眼はどうなるのか――。
「……ひとつだけ教えてください。もしも私が断わったらどうするのです?」
「拒否したところで私はお前を解放せん」
罪王は唇を歪めるようにして笑い、両腕を組んだ。
「せいぜい私が天眼を切り離す方法を見つけるまでお前が自由に行動できるか……あるいは、この部屋で閉じ込められているかの違いだ」
「……そうですか」
つまり罪王に命を救われた時点で、天潤に選択の余地は存在していないらしい。
「……承諾すれば、自由に行動できるのですね」
「ああ。衣食住も保証しよう」
罪王の顔を、天潤はじっと見つめた。罪王は無表情で見つめ返してくる。
天潤は、小さくうなずく。
「……わかりました。天眼から解放されるのは、こちらとしても願ってもないことです」
表面上は恭しく振る舞いつつ、内心では一つの決意を天潤は固めていた。
「方法があるのなら、私は貴方にこの天眼を差し上げましょう」
罪王の取引に、承諾したふりをする。
得体の知れない魔人に、天眼を渡すわけにはいかない。
だから罪王が天眼を取り込む方法を見つける前に、虚呪を見つけだす。
――そして霊魂の消滅を。天眼の完全な根絶を。
「よろしい。お前は正しい選択をした」
罪王は満足げに唇を吊り上げた。
今までよりも、いくらか人間らしい微笑だった。
「ここでは好きに過ごせばいい。腹が減っているのなら食事を用意させる」
「……あの」
天潤は、部屋を出ようとする罪王の背中に声をかけた。
怪訝そうな顔で振り返った彼に、天潤は自分の胸元に手を当てる。
「私は、香天潤といいます。成州豹族の出身――
「お前が何者かなどには興味はない」
罪王はあっさりと言い切って、扉を開いた。
「お前は所詮、私の眼球だ。――それをゆめゆめ忘れるなよ」
そう言い残して、罪王は部屋を出ていった。
「私の眼球」――残された天潤は、その冷やかな言葉を反芻する。
ゆっくりと両手を持ち上げて、呪帯の上から両眼に触れてみた。
天眼は瞼の下――その恐るべき力を発揮することなく、しかし確かに存在している。
「……私の、眼球」
天潤は囁き、がっくりとうなだれた。そしてベッドから抜け出て、窓へと向かう。
窓の前に立つと、幽龍の空気とざわめきとがよりはっきりと感じられた。
亜麻色の髪を夜風になびかせながら、天潤は息を吐く。
「……これから、どうなってしまうのかしら」
囁きは、夜気に消えていった。
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