五.龍の都の罪の王
――爛の北部にある成州には、
天潤は、その豹族の村に生まれた。
母親の名前は
未婚で子供を産んだ母はふしだらな女として、多くの人々から蔑まれていた。
また生まれた天潤が長らく眼を開けることがなかったのも、その侮蔑を助長させた。
母には兄がいた。天潤からみれば伯父だ。
伯父は母を一族の恥さらしとなじり、父の名をしつこく聞いたという。
ある雨の日、伯父は三人の友人を伴って母の住まいをたずねた。
母の話によると、その日は特に激しい諍いが起きた。どうやら父が母に金を送っていることを知り、それをたかろうとしたらしい。
激しい言い争いの末、母は激昂した叔父に殴り倒された。
そこで、揺り籠で眠っていた天潤が泣き出した。
母に更なる暴行を加えようとしていた伯父は、その声を耳障りに思ったらしい。伯父は悪態を吐きながら揺り籠に近づき、天潤の首に手をかけた。
その時、天潤は目を開けた。
生まれて初めて見たものは、自分の首を折って殺そうとする伯父の姿だった。
伯父は即死した。駆け寄った三人の友人も道連れとなった。
全てを目撃していた母は娘に近づくこともできず、村のまじない師を呼んだ。そこで、天潤が天眼を宿していることが発覚したらしい。
村の長は、天潤を即刻殺すことを命じた。
けれども母はそれに逆らい、ひそかに故郷の村を出た。
天潤は、時々思う。
母が長の言うとおりにしていれば――あるいは、目を開ける前に伯父が事をなしていれば。
――きっと、現世の苦を知らずに死ねただろうと。
淡い夢の底から、意識が浮上してくる。
まどろみから目覚めへと向かううちに、ゆっくりと四肢の感覚が蘇ってくる。
重い手をなんとか持ち上げ、天潤は両眼を押さえた。
呪帯の感触がない。
「うそ……!」
天潤は飛び起きた。気を眼に集中させ、霊眼を開く。
肉眼よりもやや広い視野――いつものおぼろげな視界が浮かび上がる。しかし今は呪帯を着けていない分、そこにごく淡い色彩が滲んで見えた。
見覚えのない部屋だった。
広々とした空間には、テーブルや椅子をはじめとした豪奢な作りの調度品が並ぶ。
天潤は、天蓋のついた寝台の上にいた。
サイドテーブルには青い硝子の水差しと茶椀、白い花を生けた花瓶。そして――。
「――探してるのはこれかい、嬢ちゃん」
呪帯が差し出された。天潤はとっさにそれに手を伸ばしかけ、そして停止した。
「……鳥?」
水差しの取っ手に、一羽の鳥が留まっている。
立派な鷹だ。堂々とした体格に、見事な羽。頭に一筋、赤い羽毛が混じっているのが珍しい。
それが今、若い男の声でしゃべったような気がした。
「……いや、まさか」
天潤は頭を振り、額を押さえた。いよいよ頭がおかしくなったのだろうか。
しかし、鷹は呪帯を咥えたまま首を傾げた。
「おう、どうした。早くとれよ」
もごもごと鷹が嘴を動かす。
間違いない。さっきから聞こえるあの若い男の声だった。
「は、はい……ありがとうございます……?」
どうやら頭がおかしくなったわけではないらしい。天潤は激しく混乱しつつも律儀に礼を述べて、鷹から呪帯を受け取った。
この呪帯には、
目にまつわる呪詛や異能を封じる術だ。特に天潤の呪帯に施されているものは強力で、他の人間が使用すれば肉眼の視力さえ失いかねない。
そんな危険な呪帯を念入りに両眼に巻いて、天潤はようやく落ち着いた心地になった。
「で、体の調子はどうだい?」
ほっと息を吐いたところで、鷹は陽気な声で話しかけてきた。
「どっか痛むところとかはねぇか? 動かねぇところとかさ」
「えぇ、痛みは――ッ」
そこで、思い出した。
首と体を両断された爽英。骸骨の姿をした二体の鬼怪。その刃に貫かれた――。
天潤はばっと自分の体を見下ろす。白い寝巻の帯を解き、襟を広げる。
「わ、わわっ! 見てねぇ! オレは何も見てねぇぞ!」
鷹がばたばたとそっぽを向くのをよそに、天潤は自分の胸元を確認する。
鬼怪に貫かれたはずのそこには、包帯が巻かれていた。
どうやら、なんらかの治療を施されたらしい。
傷があるはずの場所に包帯の上から触れてみたものの、なんの痛みもない。
それにしても、まったく痛みがないのは奇妙だった。自分は相当の深手を負ったはずだ。
「あんた、よっぽどザイの奴に気に入られたんだな」
視線を背けたまま鷹が言った。
「あいつ、ありったけの晶肉を使ってあんたを治したんだぜ」
「ザイ……?」寝巻の襟元を直しつつ、天潤は首をかしげた。
その時、扉が開く音が響いた。そして間もなく、男の声が耳朶を打つ。
「――娘が起きたら呼べ、と言ったはずだが」
「おぉー、ザイ! いいところに! ちょうど今、目を覚ましたんだぜ!」
鷹が歓声とともに羽ばたき、部屋に入ってきた者の肩に留まる。
その顔を見て、天潤は息を呑んだ。
「魔人……!」
ところどころを編んだ白髪。銀の刺繍を施した黒い長袍。深紅のマフラー。
そして――顔を覆う禍々しい黒と金の仮面。
魔人はゆるりと左手を上げた。よく見れば、その手は指先まで隙間なく呪帯に覆われている。
それを、魔人は仮面の上にするりと滑らせた。
途端ぱきぱきと小さな音が響き、仮面が融けるように形を変えていく。
「ふん……その分だと、晶肉は問題なく定着したようだな」
淡々と語る魔人の顔は、少なくとも左半分は美しい。
鼻梁は高く、眉は細く、顎の形も良い。顔色が悪いことと、目元に薄く隈があるせいでまなざしが凶悪なことを除けば、整った顔立ちをしている。
顔の右半分は形を変えた仮面に隠されているせいで、天潤からは見ることができなかった。
「先に言っておくが、お前が来ていた服は処分した」
魔人は呪帯に覆われた指先を、天潤に向けた。
「代わりの服は用意した。回復次第、着替えるといい。お前の趣味に合うかどうかはしらん。適当に選んだからな。文句はいうなよ」
「趣味に合うかはわからねぇけど似合うと思うぜ!」
叩き付けるように言葉を繰り出す魔人の肩で、鷹が得意げに胸を張った。
「なんせ、オレがアドバイスしたからな! っと、名乗るのが遅れたな! オレはかつて逸州の拳神と呼ばれた男! その名も蔡――!」
「
「この野郎! 良いところで! あと何度も言ってるがオレを玄玄って呼ぶな!」
翼をばたつかせ、ギャアギャアと玄玄がまくしたてる。
それを、魔人は横目でぎろりと睨んだ。
「……毟るぞ」
「玄玄でっす。よろしくね。じゃ、オレは飯に行ってくるんでごゆるりと」
大慌てで翼を広げ、玄玄は魔人の肩から飛び立った。
「……やかましいのがいると話が進まない」
鬱陶しそうな顔で肩をすくめると、魔人は寝台の傍にまで近づいてきた。
魔人に逢いたい――漠然とでも、そう思っていたはずだった。
しかし実際に相対すると、彼の纏う空気にじわじわと自分が呑まれていく恐怖を感じた。
天潤はぎゅっと布団を握りしめて、魔人をじっと見つめた。
「……貴方の、名前は?」
「
罪の王――一体、どういった由来でつけられた名前なのか。
気になったが、今はそれ以上に知らなければならないことが無数にある。
「あれから、どれだけの時間が経ったのです?」
「お前が鬼怪に襲われてから二日経った。今は夜だ」
言いながら罪王はサイドテーブルの水差しをとり、茶碗に茶を注いだ。
「そ、そんな……」
頭がくらくらしてきた。
思わずこめかみを押さえる天潤に、罪王は無言で茶碗を突きだしてきた。
天潤はそれを怖々と受け取ると、罪王を見上げた。
「あの……私と一緒に、男の人がいたでしょう? あの人は――」
「死体は城外に運ばせた。警邏の拠点の近くだ。連中が然るべき処置をするだろう。――もういいか? 私はお前と取引の話をしたい」
罪王は茶碗をサイドテーブルに置き、まっすぐに天潤を見つめる。
天潤は口にしかけていた非難の言葉をなんとか呑み込み、彼の青白い顔を見上げた。
「……取引?」
「そうだ。私は、ただでお前の命を救ったわけじゃない」
罪王はすっと目を細めた。
「単刀直入に言おう。お前の命を救った対価として、あるものが欲しい」
嫌な予感を感じた。ざわつく胸を落ち着かせるために、天潤は茶碗に口を付ける。冷たい茉莉花茶が口内を芳香で満たし、乾いた喉が潤してくれた。
「……あるもの、とは?」
罪王は、おもむろに右手を伸ばした。
左手と同じように呪帯に包まれたその手を、彼は天潤の両眼に向ける。
「お前の天眼だ」
心臓が跳ねたような気がした。
背筋に冷や汗が滲むのを感じながら、天潤はなんとか冷静な声を絞り出した。
「何故、私の目が天眼だと知っているのですか?」
「母がそう言ったからだ。――しかし、そんなことはどうでもいい」
面倒そうな口調で罪王は言って、自分の茶碗に口を付けた。
「ともかく私はお前の天眼が欲しい。そのために溜めていた晶肉を全て使ったのだ」
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