四.首
天潤は走る。
気で脚力を強化しているせいで、視界はいっそう曖昧になっていた。揺らぐ黒白灰の世界の中を、天潤はしかし迷わずに駆け抜ける。
その鋭敏な聴覚は、しっかりと若い男の悲鳴を聞き取っていた。
「――だ、だれかぁ!」
正面の狭い路地へと飛び込む。
四方を建物に囲まれた窮屈な路地だった。
頭上には得体の知れない廃線とダクトが密集し、時折その狭間から夜空が見えた。
そこに、眼鏡をかけた青年が一人。
「ぐっ……は、離せ、気色悪いッ! 離せ! 離せ離せ離せッ!」
首吊り状態にされ、半狂乱でもがいている。
霊眼に気を集中させる。視界が明瞭になり、青年を襲うものの姿もはっきりと見えた。
走りながら、天潤は地を強く蹴った。
七星剣を抜き払い、水平に構えた刃をまっすぐに青年の首へ――。
「ひっ……!」眼前に迫る刃に、青年の顔が真っ青になる。
天潤は躊躇せずに、切り払った。
ぶつりと肉を断つ感触。着地した天潤の背後で、青年の体が落下する。
「ふぎゃっ!」
青年の悲鳴。そしてそれに混じって、キィーッと甲高い叫びが響き渡った。
天潤は振り返り、青年の元へと近づく。
「
「えっ、えっ……?」
しきりに首をさすりながら青年は目を白黒させる。
天潤は構わず、上を見上げた。
視線の先には、イソギンチャクのような奇妙な鬼怪が蠢いていた。切断された触手を蠢かせ、どうにか配管の隙間に逃げ込もうとしている。
「普通は日の差さない森の中にいるんです。まさかこんな大都会にもいるなんて……」
天潤は赤い札を一枚取りだし、七星剣でそれを突き刺した。
「――【
札が音を立てて燃え上がり、七星剣全体が赤い光と熱を帯びる。
その切っ先で、天潤は獲首花を一息に貫いた。
耳障りな断末魔とともに、鬼怪は内側から身を焼かれていく。それが完全に息絶えたところで、天潤は剣を納めた。そして、青年に意識を向ける。
「……大丈夫ですか? お怪我は――」
「き、きみ、すごいね!」
一気に青年に距離を詰められ、天潤は思わず後ずさった。
眼鏡の奥で、眼を輝かせる青年は少しだけ歳上に見えた。栗色の髪をざっくりと切り、格子柄のシャツにズボンというどこか学生風の装いに身を包んでいる。
「目隠しした状態であんなのをやっつけちゃうなんて! やっぱり城砦の人は違うんだね!」
「あ、私は、違うんです……」
天潤はじりじりと後ずさりつつ、しどろもどろで答える。
「私は、幽龍の人間じゃ……」
「えっ、城砦の人じゃないの? というか、幽龍の人じゃないだって!」
「は、はい……あの、私、今日、はじめてここに……」
舌と唇が急に麻痺したような気がした。
思えば、同年代の人間と話したことなどほとんどなかった。そして生まれ故郷にいた子供たちは皆、天潤に対し恐怖と憎悪と軽蔑だけを向けてきた。
天潤は、青年に対し完全にすくみ上がっていた。
「そ、それは良くないよ!」
そんな天潤の事情など知るよしもなく、青年は天潤の手を取った。
「ここはね、幽龍で一番危ない場所なんだ。君がどんなに強くても、こんな場所にいちゃいけないよ! こっちに来て、ぼくが案内するから!」
「で、でも……私、まだ……」
天潤はまごつき、廃虚ホテルの方向を振り返る。
なにも収穫はなかった。けれども、まだ幽龍城を離れたくはない。
しかし青年は構わず、天潤の手を引いて歩き出した。青年の手は熱く、力強かった。
「ぼくは
「天潤……香天潤。……
「へぇ、ずいぶん遠くから来たんだね。しかし、なんでまた幽龍城なんかに?」
「……探し物を、しにきたんです」
まさか死ぬ方法を探しに来たなどとは言えない。
言葉を濁す天潤に、爽英は「探し物かぁ」と感嘆の声を漏らした。
「探し物のために成州から遥々幽龍、そして幽龍城砦か。すごいなぁ、ぼくとは大違いだ」
爽英は肩をすくめ、困ったように笑った。
「ぼくはね、度胸試し。仲間内でちょっと流行ってるんだよ。城砦をぐるっと一回りして、無事帰ってこれるかっていう遊び……やりたくなかったんだけどね」
「はあ……」
学生というのはずいぶん危険な遊びをするものだ。
小学校さえまともに通えなかった天潤はぼんやりと考え、そして我に返った。
「あ、あの、どちらに向かっているんですか?」
「ああ、まずは外に出ようと思ってさ。それからお礼をしようと」
「そんな、お礼なんて……どうかお気になさらず、私はそんな大したことはしていません」
「だーめーだーよっ!」
爽英は断固たる様子で首を横に振り、そしてにっと笑った。
「お礼はしっかりするのがぼくの流儀なんでね。それに天潤ちゃん、今日の宿は決まってるのかい? 幽龍でちゃんとした宿を探すのは結構難しいよ?」
「そ、それは……」
「遠慮しないで! 君はぼくの命を救ってくれた恩人なんだから!」
爽英はにっこりと笑って、片目をつむってみせた。
粘ったところで爽英は引きそうにない。そして、好意をむげにするわけにもいかないだろう。
天潤は小さくうなずき、弱々しく微笑んだ。
「じゃあ、よろしくお願いします……えっと、李さん」
「爽英でいいよ。よろしくね! ――あ、ここを曲がるんだ。そうすると近道なんだよ」
爽英は弾むような足取りで細い路地を曲がった。苦笑しながら天潤もそれに続く。
ごとりと何かが落ちる音がした。
天潤は視線を地面に向けた。
笑ったままの爽英の顔が見えた。
「――――なっ、」
悪寒。
首筋に冷感が迫るのを感じて、天潤は考えるよりも早く後退する。それに遅れて、頭部のない爽英の胴体が血を噴き出しながら地面に倒れた。
その血の雫が、切り払われる。
無音で放たれた斬撃は、天潤の前髪をわずかに掠めるのみに留まった。
天潤は七星剣を抜き放ち、構える。
その正面の薄闇からのそりと、人型の影が歩みでた。
骸骨だった。ぼろの長袍を纏い、片手に長細い刀を構えた骸骨が、天潤の前にいる。その口は絶えず動き、歯の鳴る音とともにぼそぼそとした言葉を吐き続けていた。
そして骸骨の前に、爽英の死体がある。
天潤が救ったはずの命は、目の前で鬼怪によって奪われてしまった。
「……よくも、爽英さんを」
瞬間、骸骨が動いた。爽英の胴体を蹴り飛ばし、天潤めがけて斬りかかってくる。
一瞬で神速に達する刃。唸りを上げて迫るそれを、天潤はかろうじて弾いた。しかし骸骨は呪詛の言葉を吐きながら、叩き付けるように斬撃を繰り出した。
青い火花が立て続けに散った。
人気の無い路地で、天潤と鬼怪は切り結ぶ。
狭いせいで、満足に七星剣を振るえない。
しかし、天潤は虎視眈々と骸骨の隙をうかがい――そして、見つけた。
渾身の切り下ろしをすり抜ける。
一気に骸骨の懐へ飛び込み、腰骨に蹴りを叩き込んだ。
がしゃんと音を立てて、骨のみで形成された貧弱な体は崩れるようにして後退する。
それを天潤は追う。骸骨の頸椎めがけ、掬い上げるように七星剣を振るう。
そこで、肉を貫く嫌な音が聞こえた。
天潤は動きを止め、視線を落とす。自分の胸から、尖ったものが生えているのが見えた。
ぞぶりと音を立てて、赤く濡れたそれが捻られる。
「……がっ、」口から血を零しつつ、天潤は崩れ落ちた。
路地に、赤い血の池が広がっていく。それを踏み、視界の端に骸骨がゆらりと立った。それまで戦っていた個体とは、着物の柄や刀の装飾が異なっていた。
どうやら、鬼怪は二体いたらしい。
「う、うそ……」
急速に手足が冷えていく。血とともに命が流れていくのを感じた。
無色の世界が揺れる。
「ま、まだ……死ねない……」
骸骨達はしきりにがちがちと歯を鳴らしながら、何事かを囁きあっている。どちらが天潤にとどめを刺すか、相談しているように見えた。
その隙をつき、天潤は這いずる。胸の傷から溢れる血液が、赤い帯を路面に描く。
「いま……死ぬ、わけには……」
鬼怪の一撃は、霊魂の消滅には程遠い。
不完全な死では駄目だ。天潤が望むのは、存在そのものの完全な消滅。
力が、抜ける。指先は濡れた地面をわずかに掻くだけに留まった。どれだけ必死に動こうとしても、冷えていく四肢はまるで言うことを効かない。
霊眼が維持できない。色のない世界が、滲んでいく。
そんな中でも、一体の骸骨がゆらゆらと揺れながら刀を振り上げるのが見えた。
どうやら、こいつが自分にとどめを刺すことに決まったらしい。
幽龍城の電灯に、刃が冷やかに光る。
「………………嫌……死にたく、な」
骸骨は刃を振り下ろした。
その瞬間、揺らぐ視界に雷電の如き光が走った。
暗闇から超速で飛来したそれは骸骨の刀を弾き、そのままそれを呆気なく叩き折った。
きん、と耳を貫く甲高い金属音が響き渡る。
骸骨は体を揺らし、ふらふらとよろめくようにして後退した。
もう一体の骸骨が得物を構え、光が飛来した方向を睨む。
天潤はもはや首を動かす事もできず、呆然と骸骨達の様子を見つめた。
一体、なにが起きているのか。状況はまるでわからない。
ただ、背後に気配を感じた。
「――どけ、雑魚」
何者かの苛立ったような囁き。
音も無く誰かが近づいてくる。弱まっていく嗅覚が、かすかな香のにおいを嗅ぎ取った。
例えるならば、雨上がりの夏の夜。
暗く、重く――けれども、ぎらつくような生命の気配。
そんな奇妙なものを想起させる香りを纏った何者かが、天潤の背後に立った。
刀を失った骸骨ががちがちと顎を鳴らし、帯に刺していた短刀を抜き払った。それはなにやら奇妙な言語で喚きながら、何者かへと襲いかかる。
「
破砕音。
一体、何が起きたのかもわからない。ただ、骨の破片があたりに盛大に飛び散った。短刀がくるくると回転しながら落下し、地面に突き刺さる。
その刃が徐々に朽ちていくのを、天潤はぼうっと見つめていた。
思考が、まとまらない。意識は浮き沈みし、光と音が途切れ途切れになる。
朦朧とした意識の中でもう一体の骸骨が叫び、刀を振り上げる。
――そうして、気づけば散っていた。
骨片は粉微塵となって吹き飛び、刀の破片が路地へ散る。滲んだ黒白の視界の中でそれが煌めく様は、どこか星空を思わせた。
「――あーあー。どうすんだよ、コレ。大惨事じゃねぇか」
若い男の声がした。
すぐ間近で聞こえるのに、天潤にはもはやその姿さえ見えない。
ただ、自分の視界の端で大きな鳥の影が跳ねているのが見えるばかり。
「やっぱりとっとと追っかければよかったんだよ。見ろよ、もう死にかけじゃねぇか」
「死なない。
若い男の声に、何者かが短く答えた。
ぐらりと体が揺れた直後、浮遊するような感覚を朦朧とする意識の中で天潤は覚えた。同時に、あの夏の夜の闇を思わせる香りがいっそう強くなるのを感じた。
「晶肉だと? お前、あれは自分の顔に使うつもりだったんじゃ――」
「うるさい。……私は館に戻る。お前はそこの死体を片付けておけ。城外の人間がこんなところで死んでいては、また巡回の警邏を増やされる」
「ゲェッ! 冗談だろ! オレにこんなデカいの運ばせるつもりか!」
「何度も言わせるな」
天潤は最後の力をどうにか振り絞って、気を眼に集中させた。
白黒灰の入り乱れていた世界がわずかに形を取り戻した。揺らぐ天井の輪郭線を背景に、何者かがごく至近距離から天潤を見下ろしている。
見えるのは白い髪、黒い仮面。――その眼窩に光る瞳が、たしかに天潤の視線を捉えた。
「――私の顔を見るな」
囁きの直後、視界が暗くなった。恐らく、掌で顔を覆われたらしい。
そうして、恐らくなにかのまじないを使われたのだろう。凍り付いていたような四肢と、冷え切った傷口にかすかなぬくもりを感じた。
そこで、天潤の意識は途絶えた。
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