三.魔窟の晩鐘

 幽龍が、夕刻を迎える。


 雑踏に身を潜めるようにして、天潤は移動していた。

 街角のあちこちに漆黒の装備に身を包んだ兵士がいて、あたりを警戒している。胴の部分の装甲には、眼をモチーフにしたような紋章が記されていた。


「……あれが警邏ね」声に出さずに呟く。


 暗視ゴーグルを赤く光らせている警邏の姿は、どこか鬼怪のようにさえ見えた。

 その不気味な視線をかいくぐるようにして、天潤は街を歩く。

 やがて、その足はある場所で止まった。

 眼前に、それはあった。

 東洋風の楼閣、西洋風の城館、無機質な摩天楼、粗末なバラック。木、鉄、硝子、煉瓦、コンクリート、謎の黒の建材――そして、遠目には肉のようにしか見えないなにか。

 そしてそれらを呑み込むようにして、途方もなく巨大な怪物の上顎の骨が聳えていた。

 紛れもなく、それは魔窟だった。

 混沌とした全てが不思議と溶け合って、奇妙な城砦都市を形成していた。


「――幽龍城砦」


 怪しく輝く魔人の城へ、天潤は意を決して歩き出した。

 城砦が近づく。それにつれ、天潤は奇妙な視線を感じるようになった。

 刺々しい――それでいてどこか粘り着くような視線が、どこまでも天潤を追う。

 視線の主は怪しげな屋台の店主だったり、傾いた軒先でキセルを吹かす老人だったり、あるいは建物の影に立つ娼婦だったりした。

 歓迎されているとはいえない。むしろ、警戒されている。

 しかし天潤は怯まず、ついに城砦に足を踏み入れた。

 内部は、まるで迷宮だった。

 上下左右、縦横無尽。全てが、建物に支配されていた。

 頭上は大蛇の如き配管や電線に覆われ、さらには無数の看板がその隙間を制圧している。そうして建物の狭間に入ると、時折ぽっかりと漆黒の夜空が覗いた。

 安っぽい娼館。豚を吊している肉屋。煙の漂う阿片窟、薄暗い診療所――。

 いかにも胡散臭いものからごく普通に見えるものまで、あらゆる店が狭い通りにひしめく。

 魔人のいそうな場所など見当もつかない。

 そこで、天潤は城内で聞き込みをすることにした。


「魔人の居場所を知りませんか?」――様々な人々に、天潤は問うた。


「……知らねぇな。城外の余所者があまり深入りしないことだ」――怪しげな錠剤の売人。


「あたしとお喋りしたいんだったら十万五千翠払いな」――飾り窓の向こうの女。


「うちで診てあげようか? 今なら新技術でなんと眼球が……」――自称眼科医。


「なぁ、寝てるだけで稼げる仕事に興味ない?」――道端でにやにやと笑う男。


 その後も、天潤は根気強く聞き込みを続けた。

 ほとんどの人間が「知らない」と答え、あるいは無言だった。強引にどこかへ連れ込もうとしてくる者も何人かいたため、やむなく相手を失神させることもあった。

 そうして歩き回っているうちに、いつしか天潤は人気のない路地に迷い込んでいた。


「……私ったら、なにを必死になっているのかしら」


 見上げた壁には、色褪せた張り紙。二頭の龍と太極図で構成された眼のような紋章に『龍眼財閥は豊かな都市生活をお約束します』と印刷されている。

 その眼を見つめて、天潤は再びため息を吐いた。

 実際のところ、魔人を見つけられるなどと思っていなかった。

 それは実在するとはいえ、ほとんど幻に等しい存在だったから。ましてや、それが自分の抱えている問題を解決してくれるとは到底思えない。

 天潤は緩く首を振り、歩き出そうとした。

 なにかが視界の端で煌めいた。


「これは……?」


 よくよく見ると、薄暗い路地の地面や壁を覆うように文字のようなものが記されていた。

 天潤は近づき、きらきらと煌めく文字を確認する。


「仙人や方士の使う道文字どうもじだわ。気で記されてる……多分、肉眼じゃ見えない……」


 道文字はそれ自体が力を孕み、物体や空間に強い影響を及ぼす。

 目の前で煌めくそれは、特に結界や目眩ましの方術に用いられるものだった。

 かなり強力な力を感じる。こんな術を使えるのは――。


「……魔人?」


 天潤は立ち上がり、路地の向こうを見る。

 薄闇がわだかまる向こうに、壁がある。張り紙や落書きでびっしりと埋め尽くされた壁には、特に多くの道文字が記され、陣のようなものを描いていた。

 壁に触れてみると、ひんやりとした石の感触が伝わってくる。

 天潤は少し考えると、掌を壁に当てた。そうして、気を流し込んだ。

 ジジ、と微かな音が響く。見れば天潤の手を中心に、道文字がゆっくりと円を描くように動き出していた。同時に、掌から壁の感触が消える。

 天潤は息を詰めつつ、一歩踏み出した。

 なんの抵抗もなく掌が壁の向こうに消えた。そのまま腕が呑まれ、肩がすり抜け――。

 そうして、天潤は壁の向こう側に立った。

 天潤の前には、黒ずんだ石に似た建材で作られた小道が細く伸びている。

 それは冠都近辺によく見られる故同こどうという路地の作りによく似ていた。四つの家屋から成る四合院しごういんの門もちらほらと見え、まるで冠都に瞬間移動したような気分になる。

 しかし、ここは間違いなく幽龍城砦だ。

 振り返れば、灰色の壁の向こうに見覚えのある建物がいくつか見えた。


「……方術で、区画を丸ごと一つ隠したのね」


 感嘆しつつも、天潤は故同を歩き出す。

 その視線は、故同の向こうに見える巨大な建物に向けられていた。

 反り返った屋根に赤い壁、奇妙に入り組んだ作り。ところどころに赤い提灯が下げられ、金の装飾を施したその華やかな建物は、灰色の視界の中で異彩を放っている。

 天潤の気を引いたのは、その屋上付近の建物――鐘楼だった。

 淡い期待を抱きつつ、天潤は故同をまっすぐに進む。

 建物の前には、牌坊に似た形の門があった。ずいぶん年季の入ったもののようで、色褪せた額には『幽龍蜃楼酒店』とかすれた文字で記されている。


「……ユーロンミラージュホテル?」


 若干呆気にとられつつも天潤は門を潜り、廃虚ホテルへと足を踏み入れた。

 ホテルは、一見するともうずいぶん長い間使われていないように見えた。大理石の床も、豪奢な紫檀の彫り物も、錦を用いたソファや椅子も、全て等しく埃を被っている。

 それらの陰に、天潤はエレベーターを見つけた。

 スイッチを押すと、小さくベルの音が響く。


「……電気が通ってる」囁く天潤を、エレベーターは扉を開いて迎え入れた。


 鐘楼は、最上階にあった。

 龍と虎の彫刻を施した扉を開けると、湿っぽい外の空気が流れ込んでくる。

 そこは小さな庭園になっているようだった。

 小さな椅子と卓が数脚ずつ。苔むした石畳の向こうには崩れかかった塀があり、その向こうには光の海にも似た幽龍の夜景が広がっている。

 白と黒が入り乱れる視界にそれを映した後、天潤は歩き出した。

 鐘楼は、庭園の奥にあった。東屋にも似た小さな建物の中に、鐘が吊されている。

 びっしりと緑青に覆われたそれを、天潤はじっと見つめた。

 そうしておもむろに鐘撞きを掴むと、それを思い切り打ち付けた。

 鐘の音が虚しく響く。

 古びた鐘は二度、三度と割れた音色を鳴らし、やがて微かな残響を残して沈黙した。

 天潤は息を潜め、じっと耳をすませる。

 聞こえるのは風の音。人の声。眼下の喧騒に、遠い町のざわめき。

 なにも起きない。天潤はふ、と息を吐いた。

 力無く座り込むと、荷物の中から二胡を取り出した。胸の中にいやな虚しさがわだかまっていて、それをどうにかして吐き出しかった。

 二本の弦の狭間に、弓を滑らせる。

 風の音に寄り添うように紡ぎ出された音色は物悲しい。まるで泣いているようだ。

 黙々と弓を滑らせつつ、天潤はぼんやり考える。

 どこかで期待していた。

 魔人が現れて、自分を消してくれること。あるいは、虚呪の手がかりを教えてくれること。

 しかし、魔人は来なかった。天潤は深いため息をつき、ゆっくりと立ち上がる。

 嫌な寒気が背筋を刺した。


「な、なに……?」


 天潤が思わず肩をさすったその時、風に混じって微かな悲鳴が聞こえた。

 とっさに七星剣の柄に手をかけ、天潤は駆け出していた。

 一羽の鳥が、その頭上を飛ぶ。

 それは、廃ホテルの屋根に――その影に立つ何者かの肩に、止まった。


「――いいのか? 追いかけなくて」


 男の声が、誰もいなくなった庭園に響く。


「あの子、気になってたんだろ? 案外、話が合うかもしれないぜ」


 白髪をなびかせ、マフラーを風に揺らして、屋根に立つ何者かはじっと黙りこくっていた。

 仮面の向こうで、その瞳は熾火の如く光っている。


「なぁ――魔人様よ」

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