二.幽龍に至る

 汽笛の音が聞こえた。


 うたたねをしていた天潤は、呪帯の下でぴくりと瞼を震わせた。

 窓の向こうに顔を向けると、その景色はすっかりと様変わりしていた。

 漁船、貨物船、遊覧船――様々な船が広大な幽龍湾を行き交い、海へと向かう。

 彼方の岸の向こうには、見たこともないほどに大きな摩天楼が見えた。天潤の眼からははっきりとは見えないが、並ぶ建物のいずれもが派手な装飾が施されている。

 やがて船はゆっくりと減速し、港に停泊した。


「幽龍! 幽龍だ!」


 怒鳴りながら用心棒が連絡船の扉を開け放つと、乗客は一斉に出口へと動き出した。

 天潤は、乗客が全員出るのを待った。やがて一人きりになったところで、鞄を担ぐ。


「嬢ちゃんよ」


 振り返ると、操舵室の入り口に船長が立っていた。

 船長はこつこつと義足の音を鳴らしつつ天潤の前に立つと、紙幣を数枚差し出した。


「それは……?」

「きっかり五千スイある。持っていけ」

「受け取れませんよ。それは、私が出した渡し賃でしょう? どうして……」

「あんたは大蟹を始末した。その分だ。これでも少ねぇくらいだ」


 船長はそう言って、天潤の手に紙幣を押し込んだ。


「いいから受け取ってくれ。良い仕事には見合った報酬があるべきだ」


 船長は引き下がりそうにない。最終的に天潤は折れ、紙幣を受け取ることにした。


「……あんた、幽龍には何をしに?」


 財布を片付けていると、船長がふとたずねた。


「死に場所を探しに」

「えっ……?」

「いえ、冗談です。それでは、船長さんもお気をつけて」


 硬直する船長に微笑みかけ、天潤は連絡船を出た。

 港の先に、牌坊はいぼうと呼ばれる屋根と額の付いた巨大な門がある。

 恐らく、港から来る客を出迎えるためのものなのだろう。屋根は鮮やかな黄色に塗られ、門柱には金の龍の彫り物が施されていた。

『幽龍』の二文字が記された額の下には、多くの行き交う人や車が行き交っている。

 その雑踏の中に混ざって、天潤は牌坊を潜り抜ける。


 幽龍の街は混沌としていた。

 形も色も様々な建物がみっしりと並び、狭い間隙にもまた建物がねじ込まれている。

 その中には時折、象牙のような奇妙なモニュメントが混ざっている。

 白く滑らかなそれは高さも太さもまちまちで、街のあちこちにそびえていた。一体なんのためにあるモニュメントなのか、まるで想像もつかない。

 顔を上げれば、空を覆うように連なる無数の看板が霊眼に映った。

 飯屋、茶楼、理髪店――色も形も電飾も異なる看板の数々に、目眩がしそうになる。

 そして看板の下を、見たことがないほどの量の人間や車が行き交う。

 聞こえるのは怒号、笑い声、ありえない数の話し声。

 鼻先を漂うのは煙草、線香、南国の果物、そして香辛料を聞かせた料理のにおい――。


 情報量が多い――いや、多すぎる!


 視界がぶれる。こめかみに鈍い痛みを感じる。

 天潤は思わず路地裏に飛び込み、そのままあたりが少し静かになるまで歩いた。


「……こんなの、はじめて」


 近くの階段に座り込み、天潤は呪帯の上から両眼を押さえる。

 霊眼でここまで大量のものを見たのは初めてだ。なにより、生まれも育ちも爛北の急峻な山々だった天潤にとって、初めての大都会だった。


「早く慣れないと……」


 ふうと息を吐き、天潤は立ち上がろうとした。

 その時、手の先になにかつるりとした――そしてほのかに暖かいものが触れた。

 感じた事のない感触に天潤は首を傾げ、それの元を見る。

 無色の視界に、奇妙な物が映った。

 天潤の座っていた黒の石段――そこに刻まれた大きな亀裂に、いくつか透明な球体が埋め込まれている。それは段の上を斜めに這い上がり、隣の建物の壁にまで達していた。


「なに、これ……?」


 天潤は思わず気を眼球に集中させ、球体を確認した。

 色が付いてみると、さらに異様なものだった。球体の中に、ほのかに赤い光が揺れている。

 さらによく見ると、球体の周囲には桃色の肉のようなものが――。


「――幽龍に来るのは、初めてかい?」

「えっ……!」


 すぐ背後から聞こえた言葉に、天潤はばっと振り返った。

 女が一人。地面に座り、スケッチブックに絵を描いている。

 周囲にはいくつかの絵が並べられているところを見る限り、どうやら絵描きのようだ。


「いや、発光器をそんなに珍しそうに見ているからさ」


 女は筆を止めて、天潤を見上げた。鮮やかな緑の瞳をしていた。


「夜になるとそれ、生物発光で光るんだ。綺麗だよ」


 彫りの深い顔立ち、天潤よりもさらに白い肌――どうやら西洋人のようだ。

 栗色の髪を肩まで伸ばしている。白いシャツに黒いズボン姿で、首にはオレンジのスカーフを巻いていて――そこまで見たところで、天潤は両眼に痛みを感じた。


「つ、う……」

「大丈夫? さっきも具合が悪そうだったけど」

「いえ、平気です……もう、だいぶ良くなりましたから」


 天潤は女に微笑みつつ、内心警戒していた。

 この女――天潤に声をかけるまで、まったく気配がなかった。


「……では、私はこれで……商売の邪魔をしてしまってごめんなさい」

「時間があるなら、幽龍城砦に行ってみるといい」


 足早に立ち去ろうとしていた天潤は、振り返った。

 絵描きの女は筆を走らせながら、視線もあげずに肩をすくめた。


「きっと退屈しないよ。あの城砦はこの街でも有数の面白い場所だから……それに、この世のものではないものを見られるかもしれないよ」

「……この世のものではないもの?」


 いかにも怪しげな女だったが、その言葉に天潤は興味をひかれた。

 絵描きの女はそばに置いていた別のスケッチブックを取り、天潤にそれを開いてみせた。



「大通りをもう少し歩けば、これが見えてくる」


 スケッチブックに顔を近づけ、天潤は指先でそれをたどった。彼女の霊眼では、絵や字を見るのにちょっとした苦労を要する。

 そこには描かれていたのは、奇妙な建物の絵のようだった。

 複数の、様々な様式の建物がごちゃ混ぜに合体したような建造物が、そこに描かれていた。


「これこそが、幽龍城砦――魔窟にして、禁域にして、地獄にして、楽園さ」

「……そこには、なにがあるのですか?」


 天潤は問いつつも、指先でなおも紙を辿る。絵の隅には、連邦共通語で『Francis.P』と記されていた。フランシス。これがこの女の名前なのだろう。


「全てがある。……という話だ。まぁ、私も詳しくは知らない」


 フランシスは肩をすくめた。先ほどから、ほとんど表情が動かない女だった。


「まぁ、魔人が住んでいるくらいだもの。なんだってあるんじゃない?」

「魔人?」天潤は眉をひそめた。


 仙人、鬼怪、狂仙――神霊が身を隠した今、これが今この世に住む人外の全て。

 しかし、魔人などと言うものは聞いたことがない。


「そうとも。――幽龍城砦には、魔人が棲んでいる」


 困惑する天潤をよそに、フランシスは言葉を続けた。

 曰く幽龍城には常人には入れない未知の館があり、その頂上には古い鐘があるらしい。


「――そして館の鐘を夕方に鳴らすと、魔人に喰われる」


 淡々とした口調でフランシスは言って、スケッチブックからその絵をちぎり取った。

 そうして、それを天潤の手に渡す。


「そんな話さ。……本当かどうかは知らないけれどさ。ここには古今東西のいろんなものがある事は確かだよ。それに、魔人は実在しているわけだから」

「ですから、その魔人というのは……」


 その時、彼方からサイレンの音が聞こえてきた。

 怒号、爆音、銃声。急に騒然となるあたりの様子に、天潤は腰の七星剣に手をかける。


「なにが起きているの……?」

「ああ、こんな白昼堂々と珍しい」


 フランシスは緑の瞳に手をかざして、上を見上げた。


「ほら、噂の魔人様だよ。警邏けいらに追われているんだ」


 天潤はフランシスの視線の先を見た。

 それは鉛色の空を背景に、さながら戯れるようにして建物の狭間を跳んでいた。


 跳躍、回避、急降下。


 そうして、天潤の前に、魔人は黒い稲妻の如く現われた。

 確かに、人のような形をしている。幽鬼の如き白髪。長身に纏うのは詰め襟に飾りボタンのついた黒の長袍と、長い深紅のマフラー。

 四つ足の獣の如き姿勢で着地した魔人は、すぐにその両手足に力を漲らせる。

 ゆらりと前を見据える顔には、黒と金の不気味な仮面。

 眼窩の暗闇には、鬼火の如く光る瞳が――。


 ――


「な……ッ!」


 思わず七星剣から手を離し、天潤は自分の肩を抱き締める。

 天潤は、肉眼ではなく霊眼でものを見ている。だから、人と話す時はどうしても目が合わない。顔を合わせていても、根本的なところで視線がずれている状態が常だった。

 けれども今――天潤は間違いなく魔人と視線が合った。

 こんなことは、初めてだった。

 魔人は何も言わず、爆音のような音を立てて地を蹴る。

 そうして気づけば、その姿は現われた時と同じく一瞬でかき消えていた。


「あれが魔人だよ。幽龍の申し子、この街を支配する龍眼財閥りゅうがんざいばつの敵。――さてと」


 呆然と立ち尽くす天潤をよそに、フランシスの様子はせわしない。地面に広げていた絵を手際よくまとめ、それらと画材を大きな革製のトランクの中に納める。


「じきに警邏が来る。とっととここから逃げないと」

「警邏……?」

「龍眼都市開発公司治安部――通称警邏。ようは警察みたいなものさ」


 トランクを背負って、フランシスは肩をすくめる。


「正直警察よりもタチが悪いけどね。下っ端の社員連中は昇進のためならなんでもやるし、下手に捕まったら矯正所に何年入れられるやら――と、いうわけで」


 おもむろにフランシスは近くの壁に手をかけた。


「私は、ここで失礼させてもらうよ。龍眼財閥に目をつけられたくないんでね」

「えっ? なっ、ちょっと――!」


 まごつく天潤など気にも留めず、フランシスは軽々と壁を上る。そうしてあっという間に屋根の上へと上がり、姿を消した。

 天潤はしばらく呆気にとられていたが、ふとある事に気づく。


「あの人、私の目についてなにも言わなかった……」


 フランシスは、呪帯で覆われた天潤の眼に一切言及しなかった。それどころか、まるでその目が見えていることがわかっているかのようにスケッチブックを見せてきた。

 天潤は自分の手を見る。

 そこには、フランシスから受け取った幽龍城の絵があった。


「――魔人なら、虚呪を知っているかしら」


 派手なブレーキ音が聞こえた。天潤ははっと顔を上げた。

 警邏が来る。詳しくはわからないが、それは相当やっかいなものらしい。

 天潤は気配を殺し、路地を後にした。

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