一.幽龍城砦の魔人

一.一瞥で万象を殺す者

 天地は、霧に包まれている。


 それでも、彼方に見える龍尾山脈りゅうびさんみゃくの威容は堂々たるものだった。天下第一と名高い霹靂峰へきれきほうの姿は見えないが、険しい崖や奇岩からなる雄大な景色には息を飲む。


 その山々から水源を発する翡翠江ひすいこうのほとりに、少女は立っていた。


 齢十六、七ほど。亜麻色の髪を背中に掛かるくらいにまで伸ばしている。このあたりでは珍しいブラウスにスカートという西洋風の出で立ちだ。


「嬢ちゃん、乗らねぇのか」


 こつりと義足が地面を踏む音とともに、少女の背後に船長が立つ。彼の後ろには粗末な波止場があり、連絡船が一隻停泊していた。


「ほら、もう嬢ちゃんが最後だ」


 船長はじれたように、波止場で待つ連絡船を顎でしゃくった。

 少女は小さく息を吐き、ゆらりと振り返る。途端、船長はわずかに目を見張った。


「すまねぇ、気づいていなかったんだな。あんた、目が――」

「大丈夫です。少し、ぼうっとしていただけなので」


 少女はにっこりと笑った。

 色が白い。顎の形は良く、鼻梁も高い。恐らく人形のように整った顔をしているのだろう。

 しかし、その両眼は包帯のようなもので隙間なく覆われていた。

 そんな状態で、少女は連絡船に続く桟橋に向かって歩き出した。


「お、おい! 待て! おれが手を貸してやる!」


 自らの横を通り過ぎようとする少女を、船長は慌てて止めた。


「この橋、古くてあちこち穴だらけなんだ! そんな目じゃ、川に落ちちまうぞ!」

「お気になさらず。お手間はかけさせませんから」

「手間はかけさせないって……」


 少女は桟橋へと歩みを進め、そのまま当然のように眼前の大穴を避けた。

 船長は、口をぽかんと開けたまま固まった。その間も少女は穴やら隙間やらを器用に避け続け、ついには桟橋を渡りきってしまった。

「これで、わりとちゃんと見えていますから」

 連絡船の前に立った少女は――十七歳の香天潤こうてんじゅんはそう言って、微笑んだ。



「――魚声津ぎょせいしん発、幽龍ユーロン行。出港する」

 気怠げな男の声。直後悲鳴のようなエンジンの音が響き、連絡船が出発する。

 おんぼろの船だ。座席のクッションは虫食いだらけで、荷棚のようなものはない。十数人の乗客達はめいめいの荷物を抱えて窮屈そうに納まっていた。


 席のないものは、床や階段など好きなところに座っている。


 天潤は、ひとまず窓辺に座っていた。すぐ近くには操舵室があり、その小窓から船長と用心棒と思わしきごつい男が厳めしい顔で前方を睨んでいた。

 小さな荷物を抱えて、蜘蛛の巣の張った窓越しに川辺の景色に目を向ける。


 実際、天潤には『見』えていた。


 霧も、山も、川から時折跳ねる魚の姿も――窓に映るものは大体、天潤の目にも映っている。

 けれども、そこには色彩はない。そして遠ければ遠いだけ、輪郭も曖昧になる。

 白と黒で構成されたおぼろげな世界――それが天潤の視界だった。


「……霹靂峰、見えないかしら」


 呟き、天潤はいったん目を伏せる。包帯の上から両眼に指の腹を当て、呼吸を整えた。

 隠された眼球に不可視の力を――気を、集中させる。

 そうして意を決したように顔を上げ、再び山々に視線を向ける。

 すると、その視界は先ほどよりも幾分か鮮やかな物になっていた。視界は淡く色づき、遠くの山々まで見通すことができる。

 これならば、霹靂峰も見えそうだ。天潤は、いっそう気を集中させた。


「んっ……!」


 眼窩の奥に、痛みを感じた。

 霹靂峰を捉える前に、天潤は気の集中を解除する。わずかに熱を帯びた目を包帯の上から軽く揉んで、小さくため息をついた。


「……ままならないわね、霊眼」


 天潤は肉の眼ではなく、いわば魂の眼で物を見ている。

 万象には不可視の力――気が宿っている。

 霊眼とは、この気を用いることで肉眼では見えないものをみる仙人の技だ。

 極めれば千里を見通し、気に彩られた絶美の世界を見ることが出来るらしいが――未熟な天潤には、肉眼の代わりに用いるので精一杯だった。

 気を眼球に集中させれば色の付いた世界を見ることが出来るが、負担が大きい。

 だから天潤は普段、無色の曖昧な世界で過ごすようにしている。


「……水墨画みたい」


 窓の向こうに見える景色を見て、天潤は呟いた。

 霧に霞む山々は輪郭もおぼろげで、さらに色彩もない。川にはところどころ奇岩が突き出ているが、それも天潤にはほとんど白い影のようにしか見えなかった。

 視線をそらし、天潤は荷物に手を伸ばした。

 趣味にしている二胡の調律で暇を潰そうかと思ったその時、船内にどよめきが走った。


狂仙きょうせんだ!」「狂仙がいるぞ! 狂仙が飛んでる!」


 やかましいエンジンの音がわずかに小さくなった。同時に、船の明かりが消える。


「なにをしているんだ! 速度を上げろ!」

「馬鹿野郎! 口を閉じろ!」


 乗客の切羽詰まった怒声に、操舵室の小窓を開けた船長が押し殺した声で答えた。


「奴らは耳がいいんだ! 見つかったらはらわた引きずり出されるぞ!」


 しん、と船内が静まりかえる。

 天潤は少しだけ気を眼に集中させ、窓の向こうをうかがった。

 山々の狭間に、金色の光の川のようなものが現われていた。

 その先には白いなにかがいくつか、ふんわりと風に流されるようにして飛んでいる。この距離では、その姿形まではっきりとは見えない。

 しかし天潤はそれを見た途端、生理的な嫌悪感に肌が粟立つのを感じた。


 狂仙。

 それはこの爛帝国の版図を瓦解させ、人々を狂乱の底に貶めたもの。邪教といわれる狂仙道の広がりとともに現われた、恐るべき怪物。


「……北に向かってる。冠都に戻る途中かしら」


 冠都は、かつての爛の都だ。

 しかし現在は狂仙の園と化しているらしい。狂仙達はほとんどが冠都から現われ、各地に混乱と堕落の輪を広げているという。

 かつて地上の華と謳われた爛はいまや、狂仙に蚕食される有様となっていた。

 天潤が見ている間も、狂仙と思わしき白い影は浮遊を続けている。ふわふわと戯れるように飛び交う様は、大きな蝶のようにも見えた。

 やがて、それらはゆっくりと山の向こうへと遠ざかっていった。


「離れていくぞ……」

「よかった……どうにか気づかれずに済んだみたいね」


 船内のあちこちで安堵の声が漏れた。


「……下手に音を立てると戻ってくるかもしれねぇ。しばらくはこの速度で航行するぞ」


 明かりを戻し、船長は押し殺した声で言った。

 それは目的地への到着が遅れるということだったが、客から異議はなかった。皆、狂仙の恐ろしさを知っているためだろう。

 しかし天潤は浮かない顔で、狂仙の去った方向を見つめる。

 恐らく、狂仙は船に気づいていたはずだ。

 天潤は、狂仙そのものと相対したことはない。しかし師によると、彼らは非常に鋭敏な感覚を持っているという。耳だけでなく、目も凄まじく良いのだ。

 恐らくこの船も見えたはず。ならば何故、襲ってこなかったのか。

 目的が他にあったのか、船に興味がなかったのか――天潤はふと、川に目を向ける。

 血の気が引いた。すぐに天潤は操舵室へと駆け寄り、その小窓を叩く。


「……なんだ、騒がしいな」

「全速力でここから離脱して下さい!」


 訝しげな顔で小窓を開けた用心棒に、天潤は押し殺した声で訴えた。

 舵輪を握る船長が振り返る。


「嬢ちゃん、なにを言ってんだ。狂仙がいたんだぞ? 速度を上げれば、奴らが……」

「狂仙は来ません! 鬼怪きかいがいるから!」


 鬼怪。その言葉に、それまで面倒そうに耳を掻いていた用心棒は顔色を変えた。

 天潤はその表情まで把握できないまま言葉を続ける。


「狂仙は鬼怪を嫌います! 船に襲ってこなかったのは、すぐ近くに……!」


 その時、船がぐらりと揺れた。

 船内で悲鳴が上がる中、天潤は窓を見る。

 水面が大きく揺らいでいる。そして天潤の霊眼は、肉眼では見えないものも映っていた。


「おい! 機関全速!」

「うるせぇ! 言われなくとも……!」


 用心棒に船長が怒鳴り返すのと同時に、エンジンがけたたましい駆動音を立てた。

 白い水しぶきを上げて、おんぼろ連絡船が急速に前進する。

 直後、轟音とともに後方で水柱が立ち上がった。おんぼろ連絡船は激しく揺れ、乗客の悲鳴に今にも壊れそうな軋みを交える。


「なんだありゃあ!」


 水柱の後に現われたものを見て、猟銃を手にした用心棒が絶句した。

 そこにあったのは、鋏のようだった。てらてらと輝く、あまりにも巨大な蟹の鋏。

 天にまっすぐに掲げられたそれが、ゆっくりとせり上がる。

 淀んだ水を割って現われたのは、連絡船よりも一回りも二回りも大きな蟹だった。全身が赤黒い甲殻で覆われ、二対の巨大な鋏を持っている。


「おい、あれ玉髄江ぎょくずいこうの人喰い蟹じゃないか! なんでここにいる!」

「知るか! 大方こないだの嵐のせいだろうよ!」


 客に怒鳴り返し、用心棒が窓から身を乗り出した。

 構えた猟銃が火を噴く。しかし空しい跳弾の音だけが響いた。

 大蟹は銃弾など何処吹く風といった様子で、ゆっくりと連絡船に向けて進行を始めた。

「くそっ、駄目だ! 硬すぎる!」


 用心棒は悪態とともに、弾を打ち尽くした猟銃を放り捨てた。


「おい、船を捨てて逃げたらどうだ! 岸まで泳げば……!」


 乗客の一人が立ち上がり、扉へと向かおうとする。しかしそれを、船長の唸り声が制した。


「駄目だ。川には人魚どもがいる。下手に飛び込めば骨まで喰われるぞ」

「じゃあどうするんだ!」

「どうしようもねぇ! このまま幽龍まで全速力で突っ走るしか……!」

「じゃあ、私が行って参りますね」


 船内が一気に静まりかえった。

 全員の視線が天潤へと集まる。しかし天潤は構わず、扉の傍に立った。


「どなたか私の荷物を見ていていただけますか? 大した物は入っていませんが」

「嬢ちゃん、なにを言って――!」

「すぐ戻ります。それでは、安全第一でお願いしますね」


 驚愕の顔で振り返る船長に構わず、天潤は扉を開いた。

 その瞬間、淀んだ色の鰭をしならせて一匹の人魚が水面から飛び上がった。人間の子供ほどもある大きさのそれは牙を剥きだし、天潤へと食らいつこうとした。


「嬢ちゃんッ!」


 船長の怒号と同時に、肉を貫く鈍い音が響いた。


「――あら、意外と柔らかいのね」


 天潤の手には、一振りの剣。

 北斗七星の装飾の施されたそれが、人魚の頭部を一息に貫いて絶命させていた。

 天潤は人魚の死骸を捨てると、なんの躊躇もなく連絡船から川へと飛びだした。

 船内で一瞬悲鳴が上がる。

 それをよそに、天潤は当然の如く水面に着地。

 気で一瞬だけ足場を形成し、そこからさらに水中から突き出ていた岩へと飛ぶ。

 七歳で死にかけた時、天潤は仙人に助けられた。

 そうしてこの十年間、霊眼を初めとした様々な方術を教えられた。こうして気で足場を作り出す気歩も、教えられた方術の一つだ。

「よいしょ」と岩へと降り立つと、亜麻色の髪をなびかせて天潤は振り返った。

 人喰い蟹は、眼前へと迫っていた。

 ここまで近づくと、霊眼にも蟹の姿の細部がはっきりと見ることができる。二対の鋏のいびつな外観、刺だらけの甲殻、生っ白い腹部に浮かぶ悪鬼の面の如き模様――。

 どう見ても大物の鬼怪だ。しかし天潤は怯まず、七星剣を向けた。


「――玉髄江の大蟹。私は貴方に忠告する」


 蟹の複眼がぎょろりと動いた。

 無数の脚を蠢かせ、人喰い蟹は天潤の立つ岩のすぐ目の前で止まった。

 遥か頭上で、大顎がガチガチと音を立てて蠢いている。目をこらせば、そこには人間の腕や下半身らしきものが引っかかっているのが見えた。


「かつて、天帝は鬼怪にも救いの道はあると説きました」


 人喰い蟹は目立った反応を示さない。

 死体を咀嚼しつつ、さながら岩山の如く天潤の眼前に鎮座している。


「ただちに己のあるべき場所に戻り、金輪際人を害することをやめなさい。さもなくば、貴方は此処でおぞましき死を迎えることになる」


 蟹の大顎の動きが止まった。

 しかしすぐにそれは細かく震え、ゲッゲッと奇妙な音を漏らした。

 どうやら、笑っているらしい。


「戻らないのですか」


 大蟹は笑ったまま、大鋏の一つをゆるりと振り上げた。


「そうですか。なら、仕方がないですね」


 大鋏が振り下ろされた。

 びょうびょうと風切り音を立て、鉄塊の如き大鋏が迫る。

 天潤は足に微量の気を回し、跳躍。その体が空中へと逃れた直後、蟹の鋏がそれまで少女が立っていた足場を轟音とともに粉砕した。

 水面に沈み込む大鋏の上に天潤は着地し、そのまま甲殻の上を駆ける。


 ――ギィヨォ、ギィヨォ。


 奇声を上げ、人喰い蟹が大鋏を振り回す。

 巨体なだけあって動きは緩慢だ。天潤は悠々と甲殻を蹴り、別の大鋏へと跳び移った。

 そうして七星剣を構え、まっしぐらに人喰い蟹の胴体へと跳ぶ。


「疾ッ!」


 一閃――金属音。

 蟹の目を狙って打ち込んだ斬撃は、それを覆う透明な殻によって阻まれた。

 剣を弾かれた天潤はそのまま川へと落ちる。

 再び気を足に集中させて足場を作り、水の上で一度跳躍。

 掬い上げるように振るわれた蟹の一撃を回避し、近くの岩に着地する。


「たしかに硬い」天潤は呟き、跳んだ。


 間髪入れずに鋏がそこに叩き込まれ、岩を粉砕。盛大な飛沫を散らした。

 天潤は、その飛沫を気の足場とした。白い壁の如く立ち上がる水を蹴り、高く跳躍。

 別の岩場へと着地し、ちらと背後をうかがう。

 連絡船はまだどうにか見えている。しかし、これ以上は長引かせたくない。


「……仕方がない。あまり使いたくはないけれど」


 天潤はふうとため息をつき、七星剣を納めた。

 ギィヨォ! 大蟹が咆哮し、大鋏を高々と振り上げた。

 天潤は後頭部へと手を伸ばし、両眼を覆う包帯の留め具を外した。

 大蟹は鋏を振り下ろした。びょうと唸りを上げ、鉄塊の如き大鋏が迫る。

 それに対し天潤はなんの構えも作らず―――ただ、ゆっくりと両眼を開いた。


 ――――静寂。


 大蟹は、まるで稲妻に打たれたかのように硬直していた。その大顎がわななき、死骸とともに淀んだ色の泡をぼこぼこと吐き出す。

 振り下ろされた大鋏は天潤の目と鼻の先で、ぶるぶると震えていた。


「大人しく戻っていれば」


 震える鋏をじっと見つめて、天潤は目を細めた。

 夏空を思わせる青色の瞳――その虹彩には、光輪を思わせる金の模様が浮かんでいる。


「私の眼を見ずに死ねたのに」


 ジュウジュウと肉を焼くような異音が響いた。

 無数の煙を立てて、蟹の鋏が急速に白く変色していく。さらにその甲殻に小さな穴が穿たれ、見る見るうちに広がっていった。

 大蟹は凄絶な悲鳴を上げ、大鋏を切り離した。

 しかしそれは天潤の上に落ちる寸前で、白い灰となって散った。

 天潤はさらに、人喰い蟹の胴体に視線を向ける。

 大蟹の巨体が大きく痙攣した。

 再び炙るような異音が響き、その体から青みを帯びた煙が上がった。凶悪な鬼の面の如き模様の浮かぶ腹部が白変し、甲高い音を立てて無数の亀裂が走った。


「……この眼は、天眼というそうです」


 大蟹の悲鳴を聞きながら、天潤は淡々と語る。


「人は天帝を描く時、決してその眼を描きません。それは天帝の顔を誰も知らないのと――その瞳を見たものは、全て死んでしまうと伝えられているから」


 天潤はすうっと眼を細めて、両眼の脇に指先を置いた。


「同じように、私の瞳も全てを殺すのです」


 人も、獣も、鬼怪も――天潤の瞳は、万象を殺す。

 視界に入ったものがなんであれ、視認したものは全て滅ぼしてしまう。

 日頃、両眼を覆っている包帯はそれを封じるためのまじないを施した呪帯だ。


「これが天眼。天帝の破壊神としての権能が現われたとも伝わる――忌むべき私の力です」


 その言葉を、聞き終えることもなく。

 完全に白く変色した大蟹の体が、ぐらりと揺らぐ。

 その震動だけで、ひび割れた蟹の体は、ぼろぼろと川へと崩れ落ちていった。

 玉髄江の人喰い蟹は、翡翠江下流の淀んだ水の中で果てた。

 チョークのように崩れていく大蟹の体をじっと見つめて、天潤は目を閉じる。

 その顔に浮かぶのは、勝利の喜びではなかった。


「――――おぞましい」


 深い憂いの滲む声を零して、天潤は再び呪帯を両眼に巻いた。

 そうして、悩む。

 どうやって連絡船まで戻ったものか。

 気歩で戻るのは難しい。常に霊眼での視界を維持することに気を向けている天潤には、これで長距離の移動をすることはできない。せいぜい一歩が限界だ。

 途方に暮れていると、なんと連絡船が戻ってきた。


「あんたには驚かされてばかりだな」


 船内に戻った天潤に、操舵室の船長は舵輪を握ったままぼそりと言った。


「助かりました。まさか戻ってきていただけるとは」

「あんたの荷物を預かってる。それに幽龍までの金ももらってる」


 船長が軽く顎をゆらすと、用心棒が操舵室の扉を開けた。そうして、仏頂面で天潤の手に鞄を押しつけてくる。預けた荷物だ。


「幽龍まで、だいたい五時間、狭っ苦しい船だがせいぜいくつろいでな」

「……ありがとうございます」


 天潤に、船長はふんと鼻を鳴らして答えた。

 鞄を手に、天潤は先ほどまで座っていた窓辺に戻る。

 脅威が去ったこともあり、船内はずいぶん静かになっていた。興味津々といった様子の乗客達の視線を感じつつ、天潤は窓に顔を向ける。

 幽龍。それは狂仙に侵される爛において、最大の隆盛を誇る都。


『幽龍ならば、お前の望むものも見つかるだろう』


 七歳の天潤を拾い、育てた仙人――玉蓮真人ぎょくれんしんじんは、そう言った。

 彼は天潤を自らの住処である落陽洞に迎え入れ、剣と音楽といくつかの方術とを教えた。

 そして半年前、『神酒を探しに行く』と言い残し、ふらりと姿を消した。

 長く生きた仙人は人間とはかけ離れた思考を持つ。

 故に玉蓮真人が何故、幽龍に行くよう示したのかは天潤には知りようもない。


「私の望むものは……」


 

 ――雨の音。母の沈黙。鉄の冷たさ。生まれて初めて見た色は赤と白。

 嫌な像が脳裏をよぎった。

 そして鼓膜に蘇るのは、淡々とした師の言葉。


『天眼を持って生まれたものは、決してそれから逃げられない』

『それは呪詛の如く、輪廻の後もお前に宿るだろう』

『天眼を消す術があるとすれば、それは――』


「……虚呪きょじゅしかない」


 虚呪――それは、伝説に語られる究極の方術の一つ。使えば対象の霊魂は完全に消滅し、決して輪廻することはないと伝えられている。


「……早く、消えたい」


 死にたい。二度と生まれたくない。こんな忌々しい瞳を捨て去りたい。

 だから天潤は落陽洞を出で、十年ぶりに人界に降り立った。

 全ては天眼から解放されるため――この世界から、完全に消滅するために。

 そのためには虚呪が必要だ。


「……幽龍なら、きっと」


 憂いに満ちた声で天潤は囁き、そして自分の言葉に小さくうなずいた。

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