Runner ~ランナー~
賢者テラ
短編
……もうそろそろ、出番か。
定年退職を来年度に控えた老兵、渡辺重三は軽く肩を回して気持ちを切り替え、長年の付き合いである愛車、ホンダVFR800Pに近寄り、その白く光るボディを愛おしそうに優しく撫でた。
「今年で最後だ。よろしく付き合ってくれな」
牛革の手袋をはめ、ヘルメットを頭に被せる。
選手たちの出走まで、あと15分を切っていた。
アイドリングをしてエンジンを暖気しておいた白バイを押して、放送局の中継車に混じって定位置に付いた。
重三は、神奈川県警・第一交通機動隊に長年にわたって勤務してきた。
その実直な勤務態度と優秀な実績を買われ、彼が28歳の時に初めて、毎年正月に行われるこの『箱根駅伝』の先導車の白バイ隊員として、コースを走った。
以来、毎年とまでは行かないが、三年に二回ほどは必ずその任に選ばれてきた。
そして歳月は流れ、いよいよ定年退職を控えた彼は、彼自身の警察生活の最後の晴れ舞台をここ箱根駅伝の舞台に飾ろうとしているのだ。
東京千代田区の読売新聞本社前に集結した、各大学の一区のランナーたちが、今や遅しとスタートを待ちわびつつ体をほぐしていた。
通信マイクの調子を確かめ、バイクにまたがった重三は、厳粛な気持ちでエンジンを軽くふかした。いよいよこれがオレの先導役としての最後か——。
ついに、今年の箱根駅伝のスタートの幕が上がった。
大歓声に見守られる中、一斉に選手たちが弾丸となって道路に吐き出される。
全長108kmの、坂などの起伏も多い過酷なコース。
本日1月2日と、明日の3日の二日にまたがって開催される、長い祭典である。
重三は学生時代、正月にこたつのなかでテレビ番組のチャネルを回しながら駅伝の映像がたまたま映るたびに、「正月から何でそんなしんどいことしたいんやろ?」 と肩をすくめてお笑い番組に切り替えたものだ。
でも、自分がこのマラソン大会に他人事ではない関わりを持ちだしてからは、駅伝を見る目も変った。そして、何よりこのスポーツ自体に興味を持つようになった。
やがて、団子に固まっていた選手たちも、それぞれのペース配分などの思惑や実力差などの要素によって、ばらけだした。重三が先導しているすぐうしろでは、いわゆる『先頭集団』がデッドヒートを繰り広げていた。
やがて戸塚中継所から国道134号線に出て、湘南海岸を望むコースに出た。
道路からの眺めは一見に値するが、必死に走っている選手にはそれどころではないだろう。
最もアップダウンの激しい、この第四区。
選手たちは、スタミナ、残距離、寒さの影響などあらゆる要素を頭でシュミレートし、ペース配分に慎重になっている様子が見て取れた。
重三のうしろ、つまり最先頭を走っているのはすでに三人だけになっていた。
あとは、300m以上離れて後続に2、3人の選手がいるのみで、それよりうしろは、もう重三の位置からは見えなかった。
一位は、駒澤大学。そのすぐうしろで、二位と三位の差がほとんどない状態で並んでいるのは、日本体育大学と山梨学院大学。
重三は、旗を振って選手たちを応援する人々の人垣をくぐり抜けながら、隊員服のポケットに忍ばせていたある選手の写真のことを思い出した。
……確か、彼は今二位を走っている日体大の選手だったな。
三日前にさかのぼる。
重三の元に、一通の手紙が届いた。
それは、郵送で届いたのではない。
ある朝、神奈川県警に出勤したら、巡査部長が 「お前に手紙を託していった子がいるぞ」 と言って、彼に手渡してきたのである。聞くと、女子高の制服を着たかわいい子だった、という。
そんな子から手紙を受け取るような心当たりは、全くなかった。
狐につままれたような気持ちで、交通課の自分のデスクで封を開けた。
拝啓
突然、このような手紙を差し上げます失礼をお許しください。
私は、今度の箱根駅伝で日本体育大学の選手として、往路の第五区に出走するはずだった選手、山城裕道の妹です。
兄は、本当にこの大会で走れることを楽しみにしておりました。
そして、コーチからも 『将来性がある』と、社会人になってからも上を目指して走り続けて欲しいともお言葉をいただいておりましたのに……一週間前、交通事故で兄は帰らぬ人となってしまいました。
私は兄の死、という事実に直面し、人間として未熟な私は今までずっと泣いてばかりいました。でもやっと、このままじゃいけない、と思えるようになりました。
聞けば、あなたは以前から白バイの先導者を歴任しており、今回もその最後のお勤めをなされるとうかがいました。
そこで、何とかかなえていただきたいお願いがあるのです。
兄の写真を同封いたします。
どうか、駅伝当日は、この写真を持って、一緒に走っていただきたいのです。
バカなお願いだとは、自分でも思います。でも、そうしていただけたら天国にいる兄も、喜んでくれるような気がするのです。
どうか、出走という晴れ舞台を前にして果たせなかった兄の無念を晴らしてあげてください。
失礼なお願いをしてしまいましたが、どうかお許しください。
それでは。どうかよろしくお願いいたします。
敬具
山城亜矢子
奇妙な手紙だった。
確かに、関係のない第三者が考えたら、写真を持って走ってあげたらそれがそのまま供養になる、などとは考えにくい。
しかし。この死した選手の妹が書く文面からは、兄を想う必死さがひしひしと伝わってきた。
女子高生が慣れない敬語を駆使し、日頃ケータイのメールで軽い文章ばっかり打っているであろうに、必死になってきちんとした手紙をしたためてきたその努力を、いじらしく思った。
そして本番中の今、重三は、写真の収まっている胸ポケットをチラッと見やった。
「……お前のとこは今二位だぞ。頑張れ」
いよいよ、本日の最後の戦いの舞台、第五区に差し掛かった。
たすきが渡され、明日に続く戦いの最後の舞台へと五区の選手は躍り出た。
一位は不動で、駒澤大学。第五区を任された注目の実力ランナー、宇和島浩一が先頭を切る。
4区までは二位と三位がほぼ併走していたが、ここへ来てようやく差がつき始めた。二位は日本体育大学。三位は二位から60mの差をつけられて山梨学院大学。
「…………?」
重三は目をこすりたかったが、ハンドルを握る身としてそれは不可能だった。
独走態勢のはずだった先頭に…二人の走者が見えた。
一人は、一位の駒澤の宇和島選手。横で走っているのは——?
見間違いでなければ、日本体育大学のゼッケンを付けている。
……バカな。二位の日体大には400m差がついていたはずだ。
バックミラーでチラチラと確認してみた。そして、驚愕の事実に気付いた。
「まさか」
そう。その選手の顔は——
重三が胸に抱く写真の顔、故・山城裕道選手にそっくりだったのである。
警察無線から流れてくる情報を確認して分かったことは、少なくとも彼が見えているのは自分だけだということがわかった。全国放送でも、先頭は宇和島浩一の独走である、と報じている。
でも重三の目には、確かに見えた。
デッドヒートを繰り広げる、二人の姿が。
幽霊、と言っていいのだろうか。
山城選手の幽霊は、玉の汗を散らして、息遣いも荒く必死に走っていた。
……幽霊でも、汗かいて必死に走るものなのか?
幽霊なら足を動かさずにスーッと流れるように走りそうなものだ、と勝手に考えたが、思い直した。
「そうか。お前は、この五区をどうしても戦いたかったんだな」
重三は、ヘルメットの中で、誰に語るでもなく独り言を洩らした。バックミラーで捕らえた山城選手の幽霊は、ちょっと笑顔を浮かべたように見えた。
一日目(往路) の結果は、流れ通り駒澤大学が一位を取った。
五区を走った宇和島選手は、大会記録に迫る1時間18分50秒という好タイムを叩き出していた。
ゴール後。白バイを停めた重三はすべてを後回しにして、宇和島選手のもとを訪れた。とりあえず呼吸も整い、監督の許したタイミングで、宇和島選手に話しかけることができた。
重三は、彼に自らの身分を告げ、時間を取ってくれたことに感謝の意を表した。
「ああ。ずっと先導してくださった白バイの方でしたか。本当にお疲れ様です」
もしかしたら、気違い扱いされるかもしれない。
そう思ったが、やはり尋ねずにはいられなかった。
「妙なことを、と思われかもしれませんが。走っている間中……誰か他の人間と一緒に走っている、という感じのしたことは、ありませんでしたか?」
この瞬間、興奮冷めやらぬ会場の喧騒も、二人にはまったく聞こえていなかった。
長い間のあと、しゃがんでいた宇和島選手は立ち上がった。
「ええ、それはずっと感じていました」
重三は、その答えに驚きを隠せなかった。
「独走してるはずなのに、常に誰かに追い抜かれるような不安を感じました。そう、まるで目に見えない誰かと勝負しているみたいに。きっと、山城のやつですよ」
「この、彼ですか?」
胸のポケットから写真を取り出した重三は、宇和島選手にそれを見せた。
「懐かしいなぁ」
旧知の友を見つめる宇和島の目は、優しげであった。
「……山城とは、高校時代からのライバルでね。進む大学がバラバラになってからはあまり会ってはなかったんですが、『大舞台で絶対に勝負をつけような』って約束してたんです。今回、あいつが残念なことになって僕としてもつらい走りだったんですが……。そうか、アイツが一緒に走ってくれてたんですね。だから僕も実力を出し切って頑張れた」
宇和島は、すべてが納得できて満足そうな笑みを浮かべた。
重三が礼を言って戻りかけた時、宇和島はうしろから声をかけてきた。
「あ、ちょっと最後に聞かせてください」
山城の写真をポケットに戻しながら、重三は振り向いた。
「何でしょう」
「参考までにお聞きしたいのですが……僕が本当に一位でしたか? それとも、山城のヤツのほうが一位でしたか? あなたなら見ていたかもしれない、と思って」
ちょっと考えた重三だったが、本当のことを言ったほうがいいだろう、と結論を出した。
「僅差でしたが、山城選手が先にゴールをしましたよ。彼には実体が無いのかして、テープは切れなかったようですが」
それを聞いた宇和島は、太陽を仰いだ。
「そうですか。次こそは、彼に負けない走りをしてみますよ」
三日後。
手紙の主、山城亜矢子に連絡が取れた重三は、ファミレスで待ち合わせて会うことになった。
夕方の4時の約束をしていたが、途中、ケータイにもう少し遅くなりそうだという連絡が入ったため、さらに文庫本を読んで時間を潰した。
一時間も経った頃、入り口の自動ドアが開いて、F女学院高の制服を着た少女がまっすぐに重三のところに歩いてきた。抱えていた大きなスポーツバッグをよいしょっ、と座席に置いた彼女は、すまなそうに頭をかいた。
「せっかくお時間作っていただいたのに、部活が押してしまって……スミマセン」
テーブルを挟んで向かい合うと、重三はさっそく一連の出来事の顛末を、彼女に語って聞かせた。
写真を持って先導したこと、五区で彼女の兄が現れ、コースを走り見事一位を取ったこと、そして何者かが一緒に走っている気配は感じていた、と現実のトップだった宇和島選手が認めたこと。
「そうだったんですか」
途中ちょっと涙ぐんだ亜希子だったが、健気にも笑顔を浮かべて、吹っ切るように言った。
「本当にありがとうございます。兄も、きっと喜んでいることと思います」
言い終わらないうちに、亜希子が不自然な動きをした。
急に、青ざめた表情で窓の外を向き、視線が貼り付きでもしたように離れない。
何事かと、重三が亜希子の視線の先を追ってみると……
夕日もかげり、大部分に藍色の闇が覆いかぶさってきた空の下。
ファミレスの駐車場に停まっている、車と車の間に——
あの山城裕道選手が、微笑んで立っていた。
夜の国道を走る、一台のバイク。
「しっかり、つかまってな」
後部座席に亜矢子を乗せた重三は、プライベート時の愛車、スズキGSX1400にまたがり、疾走する山城裕道の幽霊を追いかけた。
ファミレスの窓の外に彼の姿を発見した二人は、すぐに外へ飛び出したのだが、近付けば近付いただけスーッと離れて行ってしまうのだ。
何だか手招きしているようにも見えたので、とっさに重三は亜矢子とともにバイクでの追跡を試みることにしたのだ。
足も動かさずに、恐ろしい速度で進む裕道。
その様子を見れば、彼の幽霊であることが分かりやすい。
昨日、息を弾ませて生身の人間のように駆けていたのとは、えらい違いだ。
重三がスピードメータを確認すると、時速80kmが出ていた。
……オイオイ。もうちょっとスピード、落としてくれよ。
警察官がスピード違反でつかまっちゃ、シャレにならねぇ。
そう思った重三だったが、彼がスピードを緩めると、裕道のスピードもつられて遅くなった。
「何だ、合わせてくれてるんじゃねぇか。こっちがしゃかりきになることなかったんだな」
裕道を追うことに必死でスピードを上げてしまっていた重三は、苦笑した。
見覚えのある地点で、裕道は立ち止まった。
重三も、彼に並んでバイクを停車させた。
ここは……第五区の出発点、小田原中継所だ。
裕道は道のまっすぐ先を指差し、走り出した。
今度はさっきまでとは違い、明らかに人間のペースであった。
「お嬢ちゃん、行くぞ」
ギアをローに入れ、バイクを低速で発進させた重三は、後の亜矢子に声をかけた。
「うん。分かるよ。お兄ちゃん、もう一回走りたいんだね」
「どうだろう」
駆ける裕道の前に躍り出た重三のバイクは、一定の距離を取って走行した。
先導車のライダーとしての役を、もう一度与えられたのだ。
「一度走ってるからなぁ。多分今度の分は……妹であるあんたに見せたいんじゃないかな」
それは、実に不思議な光景であった。
裕道は、二人以外には見えない。
低速で走る重三に業を煮やすドライバーにクラクションを鳴らされるシーンもあったが、重三は忍耐強く、五区の 23,4km を見事に先導し通した。
芦ノ湖のゴールにたどり着いた。
山城裕道は、満足そうな笑みを浮かべて、息を整えていた。
重三がバイクを停止させると、亜希子は飛び降りてヘルメットを脱ぎ、兄の胸に飛び込んだ。
月光は、しばし抱き合う兄妹を照らし出していた。
やがて、顔を月に向かって上げた兄・裕道は、幽体の状態で初めて言葉を発した。
「もう、行かなきゃ」
彼の体が……足元から、消しゴムで消していくように見えなくなっていく。
腰が、胸が、手が——。亜希子の腕の中で最後は首まで消えた。
妹想いの、優しい微笑の残像を僅かに残して。
「行っちゃいやあああああああああああ!」
ガクリと膝を折って、亜希子は両手で顔を覆う。
こういう場面の極端に苦手な重三はどう声をかけてあげたらいいか分からず、しばらく亜希子をそっとしておくことにした。
悲しい別れの場面ではあるが、重三は亜希子の涙に、温かい何かを感じずにはいられなかった。
……山城君よ。オレの駅伝での最後の仕事に、いい思い出をくれてありがとうな。
重三は思わず、蒼く輝く月に向かって警察式の敬礼を捧げた。
涙に濡れた顔を上げた亜希子は、膝を折った姿勢のまま、いつまでも月を眺め続けていた。
【5年後】
ドイツ連邦共和国、ノルトライン=ヴェストファーレン州にある、ケルン体育大学。陸上競技場のグラウンドを、疾風のように駆け抜ける一人の青年の姿があった。
監督のオーギュストは、ストップウォッチを止めて叫んだ。
「おいっ、こいつぁ大会記録までコンマ2秒に肉薄する記録だぜ! まったく、練習とは思えねぇ! オレが保証してやるが、次のオリンピックには、絶対お前さんが出てるよ」
絶賛されたクラウス・ローゼンバーグは、息を整えて監督のもとへ駆け寄った。
「ありがとうございます。そう言っていただけると光栄です」
監督は思い出し笑いならぬ『思い出し泣き』をして、鼻をすすった。
「まったく、うれしいぜ。五年前、お前さんの心臓が危なかった時には、どうしようかと思ったよ。あの時運命の女神様が微笑んでくれていなけりゃ、十年に一人の逸材を失うところだった」
「ええ、それは僕もそう思います」
タオルで汗を拭きながら、クラウスは苦笑した。
「五年前のあの時、たまたま日本で適合するドナー登録の死者がでたんで、すぐに移植を受けることができたんですけど、それってものすごい確率のことらしいですね。奇跡に近いタイミングだったそうですよ。しかも、この心臓の持ち主も、元は有望なランナーだったとか」
そう言ってクラウスは、大事そうに左脇腹の心臓近くをなでた。
「なぜだかわからないけど、僕にはこうやって走ることが自分の持って生まれた使命のように感じるんです。だから僕は、見知らぬ人からもらった大事な命を、走ることで恩返ししようと思うんです」
クラウスとオーギュスト監督は、頭上に輝く太陽を見つめた。
広大なグラウンドの中央に立つ二人の間を、どこからともなく吹いてきた風が、通り抜けていった。
Runner ~ランナー~ 賢者テラ @eyeofgod
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