第23話 the end




 全てが終わった、とあえて記した。日記の話だ。

 欠子洸牙は日記を付ける人間ではない。日々を事細かに記録し、たまに思い返すために保存すると言う面倒な行為を好む人間ではない。

 ただ、彼の住む屋敷の自室には、必ず一冊の日記帳がある。そこに刻まれる日付は『毎日』ではない。数日の間を置くこともあれば、数週間に渡って放置されることもある。ただし大抵の場合、その感覚が一ヶ月以上開くことはない。

 欠子が記録する日は、すなわち人を殺した日だ。

 どのように殺したのか。何故殺したのか——個人的な動機のことではなく、何故殺しを依頼されたのか、、、、、、、、、、、、と言う意味だが——、または殺した相手がどんな人物で、どれほど悪辣な社会悪であったか。それに関わった人間がどのような末路を辿ったのか。その事象に関して、全てを網羅するごとくに、彼は記録する。

 今回は、特に記述すべきことが多かった。

 管根をめぐる事件のすべてに、鷺山純恋という少女が関わっていたからだ。ただの最初はただの被害者としてだったが、日を経るごとに彼女の性質は変わっていった。復習に駆り立てられた哀れな少女となり、そして結局は人を殺せなかった。最初から最後まで変わらなかったのは、どんなに迷っても結局彼女は善人でしかいられなかったということか。

 今回の事件は、まさしく鷺山純恋が善人である、、、、、、、、、、という一点が証明されたことで幕を閉じたと言っても過言ではない。

 だから欠子は書き綴った。

 彼女は善人である。そして、この事件はそれで終わりなのだ。すべてが終わったのだ――と。





 山森大輝の件を最初とするならば、一連の事件から二週間が経っていた。

 結局のところ、世間的にも事件は終わったとの見解で一致している。無論、犯人は捕まっていないし、殺人の動機や背景、凶器さえも警察は解明できていなかった。しかし二件目の殺人——専業主婦をしていた女性の死を最後として、一週間以上も『物騒なこと』が起こっていない。呑気にも安穏な一般市民が『事は終わった』と認識するのに、その時間は十分すぎるものだった。

 学校では以前とほとんど変わらない生活が送られている。部活動の停止は二日前に解除され、外出禁止令も取り消された。

 そして、欠子洸牙が受け持つ教室においては、大きな変化——と言うより、修復がもう一つ。

 鷺山純恋は、三日前から学校に出てきていた。





 その日、欠子洸牙は屋上に呼び出された。

 放課後のことで、しかも急な雨が降る中のことだった。天気予報を頼みに持ち物を決めている欠子にとって、この雨は予想外のことだった。当然傘など持ち合わせていなかったため、呼び出しに応じればそれだけで風邪を心配する必要が出てくる。

 本当なら無視するところだが、しかしこの場合、応じないわけにはいかない。相手は鷺山純恋だ。彼女は曲がりなりにも、欠子の『弱み』を握っている。

「遅かったですね」

 純恋はそんな事を言って、欠子を出迎えた。

 殺風景な屋上にただ一つある給水タンクのすぐ側に立った彼女は、その手に安っぽいビニール傘を持って、雨粒を凌いでいる。欠子がたった今出てきた昇降口からは五メートル以上離れた位置だ。どう考えても、会話をする距離ではない。

 溜息をついて、欠子は雨の中へ進み出た。

「傘を探していた。結局見つからなかったが。誰かに借りようとも思ったが、雨の中わざわざ屋上に出ると言うのは流石に不自然すぎると思ってね」

「あれ、傘持って無かったんですか」

「天気予報では一日中晴れと言っていたからね。予報が曇りなら持っていたが、生憎そこまで慎重な性格じゃない。だから話があるなら、屋内にして欲しいんだが」

「屋内だと、誰かに聞かれるかもしれないでしょう。さっき先生が言った通り、雨が降ってる屋上なんて誰も足を運ばないから、安心かなと思って」

「なら社会科準備室でも良いだろう」

 以前、欠子の方から純恋を呼び出した場所だ。あそこはあそこで、互いの安全を確保した上で内緒話のできる稀有な場所なのだが。

「あそこは……嫌いです」

 純恋は実際に嫌そうな顔をして、そう言った。まあそうだろうと言うのが欠子の感想だ。担任教師に脅された思い出のある場所など選びたくはないだろうし、あそこはそもそも教師側が主だって使う教室だ。呼び出しをするのは無理がある。

「だからと言って、わざわざ雨の日を選ぶ事は無いだろうに」

「私もそう思ったんですけど……考えてみたら『学校の屋上に呼び出す』って行為は、学生からすると青春の一ページみたいな感覚があって。でもこの天気なら、そういう雰囲気は打ち消されるかなって」

「……言えてるな。一人は色気のないビニール傘、もう一人は傘もなくずぶ濡れだ」

 相合傘でもすればまた雰囲気は変わるだろうが、という冗談を欠子は呑み込んだ。

「まあ、良いだろう。天候は気に食わないが、私も君に話しておくことがあった」

 言いながら欠子は、給水タンクに寄り掛かった。立ち位置は純恋の左側、一メートルほどの間隔を空けた場所。

「話しておくこと、ですか?」

「覚えているかな、そもそも私は依頼を受けて殺人を行なっているという話。その依頼主から、先日叱られてね。『たかがお前の身勝手な善悪感情で一介の女子高生に秘密を漏らすとは何事だ』、と、要約すればそんなことを言われた。まあ当然の意見と言える。私が正しいと判断したとはいえ、依頼主にまで損失が及ぶようなことをするべきでは無かったと反省したよ」

「……何が言いたいんですか?」

「君に裁かれても良いと言った。あれは嘘だ。悪いが私は裁かれるわけにはいかない」

 抜け抜けと、欠子は言った。もちろんのこと、純恋は思い切り顔を顰める。

「……この間言ってたことはなんだったんですか?その時々の気分で人格が変わるの?」

「さあな。あの時は夜の寒さで熱でも出していたのかも……いや」

 そこまで言って、欠子は思い直したように首を横に降る。

「冗談で誤魔化すのも良いが、君相手では少々今更だな。

 私はおそらくあの時点でも、口ではあんなことを言いながら、その実捕まって良いなんで風にはこれっぽっちも考えてはいなかったよ」

 君に裁かれてもいい。そんな考えが生まれつつあるかもしれない。欠子の言葉はこうだった。

 そして、彼は今こう言ったのだ。『結局そんなものは気のせいだった』、と。

「私は人殺しだ。そうとしか生きられいと思い知っている。欠子洸牙にとって殺人とは衝動であり、衝動とは満たさなければ生きていけないモノだ。そして、私は——私を肯定したかった。私と言う存在を、否定したく無かった。

 君に問おう。否定しかされない悪が肯定されることを望んだ時、どんな方法があると思う?」

「それは……肯定される存在に変わること、でしょう。つまり、善人に」

 純恋はほとんど迷わずに、そう答える。

「そうすれば肯定される」

「その通りだ。私もそれを目指した。だが不可能だと知った。その時、私が次に見出したのは——肯定されることを望むのではなく、自らが自らを肯定するという方法だった」

 純恋は、そう語る欠子の瞳を覗き見た。今まで通りの何もない虚無の眼差し。その奥にほんのひと欠片だけ存在する、哀しみ。

 純恋は悟った。巨大な虚無の中に、確かに存在する小さな感情。虚無と感情が同居した、諦観の概念——おそらく人は、それを狂気と呼ぶのだ。

「私は自らを肯定した。生きることを肯定した。私はもはや生きるためだけに生きている。人の形骸を保つことのみに執着した悪霊のようなものだ。——解るか?私はとうに、真っ当な人であることなど捨てている」

「……あなたは人ですよ。じゃなきゃ、私はあなたを悪人と呼べません」

「それについて君と議論するつもりはないよ。私の中ですでに答えは固まっている。口でなんと言おうと、欠子洸牙は生きることしかできないし——殺すことしかできない。そういう存在だ。その在り方を捨てることはできない。だからね、私はやはり、君に終わりを委ねることなどできないんだ」

「だったら、また私を脅すってことですか?」

「どうだろう。君を脅す材料など、残っていない気もするが」

「じゃあ良いことを教えてあげます。実は、私はもう死んでも良いなんて思っていません。だから私自身の命を脅しに使えば、簡単に口を閉じられますよ」

 純恋が言うと、欠子は珍しく——本当に珍しく、驚いたような表情を作った。

「……へえ。君はとうに生への執着など捨てていると思っていたが」

「だったら見込み違いです。そもそも、人を殺すことしかできないくせに、人が生きたがっているかどうかなんて見定められるわけがないじゃないでしょう。そう言うところ、あなたは根本的に傲慢なんです」

「……正論だな。耳が痛いよ。しかし、ならば訊きたい。君は何故生きたいと思うんだ?たった一人の家族を失って、今まで見てきた価値観全てを覆されて、それでもなお君に生きる意志があるのか?」

「別に、生きるのに意志なんて必要ないでしょう。生きようと思わなきゃ生きられないわけじゃないんですから。人は呼吸をして、食事と睡眠をとっていれば死にませんよ」

「"生きる"とはそういうことじゃないと、君は解っているだろう」

「……すみません。今のは意味のない反発でした」

 でも、と言葉を区切って、純恋は続ける。

「私は本当、生きようなんて風には考えてないと思います。そんなポジティブな考え方は、まだできない。それこそ死のうとは考えていないだけで……ネガティブじゃないってだけなんです」

「なら訊き方を変えようか。君は何故、死のうとは思わない」

「やることがあるから」

「やること?」

「やらなきゃいけないこと。って言うより、やろうとしなきゃいけないこと、かな。多分それは、人間の誰もがやらなきゃいけないことで、その中でも私は誰よりもやらなきゃいけないことだと思います」

「……回りくどいな。結論を言ってくれ」

 欠子がそう求めると、純恋は、今更のように彼の方に目を向けた。

あなたを殺すこと、、、、、、、、です。欠子先生」

 欠子は表情を変えない。冷ややかに、自らの生徒の眼差しを受け止める。

 彼には解った。その目にあるのは敵意でも憎悪でもなく、ましてや殺意などとは程遠い。そこにあるのはただの『義務』だ、と。

「——先生が管根を殺した時から、ずっと考えていたんです。先生は本当に悪人なんだろうか……悪人と、切って捨てて良い人なんだろうか、って」

「……下らないな。私の中では、自分自身に向けるには今更すぎる問いだよ、それは」

「ここであなたの話を聞いて、私もそう思いました。いえ、多分その前からずっと、結論は出ていたと思うんですけどね。先生は存在してはいけないし、先生の存在を認める世界もあってはいけない。

 けど私は、この世界があなたのような存在に頼らなければいけないものなんだと知りました。だから私は——世界を、変えます」

 世界を変える。言っているのが一介の高校生であることを鑑みずとも、良識ある大人ならば一笑にして取り合わないような言葉を、純恋は口に出す。言った本人でさえも、その途方もなさには自嘲を漏らしてしまうような言葉を。

 けれど純恋は笑わない。欠子もまた、表情を動かさない。

「政治家でもボランティアでもいい。この世界を、いつかあなたの存在する余地のない——あなたが存在できない場所に変える。どんな手段でもいい、ただし正しい手で。 

 それが、私が欠子洸牙を知った意味だと——そう、結論を出しました」

「————」

 『結論』を聞いて、欠子はただ納得していた。やはりそうだろう、と。そして、ここにいない殺人の依頼者に向けて心の中で口にする。やはり言った通りだろう、と。

 彼女は、世界を変える。変えようとはできるくらいに、強い人間だ。それは終始、欠子の思うままだった。


 ——雨は強く、欠子だけを打つ。逃げ場のない殺人者に、水滴は酷く冷たい。

 その冷却に触れながら、欠子洸牙は純恋の見る前で初めて——笑った。

 作られたものではない、心よりの笑み。彼が授業中に作る、形のいいはっきりとした笑顔とは違う。薄く、本当に薄らと、口角に角度がつくだけの表情。

 それが欠子の本当の感情だった。

「——ありがとう」

 その笑顔で、欠子は礼を口にする。

「これで私は選択肢、、、を棄てられた。君が私に正しい裁きを求めてくれると言うなら——ああ、それは君に任せよう。そして私は別の終わりを求めるとするさ」

「……別の、終わり?」

「正しくない、終わりだ。日頃、私は自らが裁かれて終わるべきだと思っていた。だが同時に、自分にはそんな真っ当な終わりは相応しくないとも考えた。私のような理不尽な殺人者は、同じ理不尽によって殺されなければならない、と。

 君は言ったな。私を正しく終わらせると。ならば私は、正しさの逆を行こう。微塵の正当さもなく、理不尽に、無残に終わる道を探そう」

 それが善人である君のあるべき道であり——救い難い私のあるべき道だ。

 欠子はそう言った。言った通りに、その瞳から迷いを捨て去って。

「……させません。私はあなたを正しく終わらせます」

「させはしない。私は私を、不浄のままに終わらせる」

 同じ人間に対して互いに異なる終焉を求める二人は、向かい合い、互いに宣言した。

 私は私の思うままに、欠子洸牙を終わらせる——と。

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