染まずただよふ

merongree

染まずただよふ

(笑うならば笑え————、僕の正体は強盗ですらなかったんだ)

 そう思いつつ、恩田誠一郎はバスを待つベンチの上で、麦色の頁をそっと捲った。

「よう、トレープレフ、」

 と、ふいに落雷を思わせるような力で、恩田の肩を揺さぶる者が現れた。顔を見なくとも、そんな振舞いをする人間は瀬川の他に考えられなかった。

「誰だ、きみは」

「こないだ百円貸してやった恩人を忘れたか」

「今日は困ってない」

「このツラの冷淡なこと」と言い、瀬川は恩田の青白い頬に掌で触れた。恩田は内心背に冷たい汗が流れるのを感じたが、瀬川というのは殆ど真面目になっていることがない青年で、やたらすぐ身体に触れる癖も、単にその快活さによって他人から拒まれたことのない経歴を表すものに過ぎなかった。

 ふいに瀬川が笑い出した。

「何だお前さん、こんな時分に大黒町で遭うなんざ怪しいと思ったが、互いに悪いこたあ出来ねえな」

 なにが、と恩田は微かに首をもたげつつ言った。

「白粉なんかべったりつけて、香水の匂いをプンプンさせてよう、ナカで風呂を貰わなかったのか、まだ美人の汗が混じってるようだぜ」

 そう言って瀬川は掌を見せ、恩田の頬から取った白粉の溶けた汗を、まるで彼から奪い取った勲章のように掲げてみせた。

 恩田は西日のなかで、目を細めてこの青年を見た。こんなに快活な男だったら、娼妓に戯れるのと同じ調子で、十年来の恩人の身体にまたがって首に掛かった縄を引くことぐらい、まるで回転木馬に乗る遊びのように楽しんだかもしれない。

「少しは話せるようになったじゃねえか、え、ついに友を得る気になったか」

「言っただろう、僕は別に何も困っちゃいない。ただ金がないだけだ」

「高利貸しの役だったらやるか、ユダヤ人は皆鼻が尖っているというぜ」

「役柄の問題じゃない。僕は己を偽るということが嫌いなんだ。儀礼でも遊びでも」

「そう言うな、吉村に頼まれてる。露西亜文学の大家、チェーホフ氏の傑作を上演するに当たってだな、主役のトレープレフを演ずるのは、我が校一の美男子の恩田君をおいて適任者なし、とさ。何なら黙って立っているだけでもいい、それでも、」

 と言い、瀬川はいつもの磊落さに乳を混ぜたような優しい力で、恩田の肩を引き寄せ、

「令嬢たちだけで立ち見が出る」

 と低く囁いた。彼はやや顎をしゃくり、道の反対のバス停にいる女学校の令嬢たちを示した。女学生たちは瀬川に手を振られると、まるで鉄砲を撃たれた水鳥のように騒ぎ出した。

 その時恩田の目には女学生の群れが、まるで白い靄のように見えた。その間じゅうずっと、肩を掴んでいる瀬川の掌の力の方が、眼前にはっきりと鮮やかに見える気がした。

 同時に、恩田は制服越しに自分を圧迫する同い歳の青年の膂力に失望をした。残酷さを自慢にする割には、その履歴の清らかさ、簡単さ、単純さときたら微笑ましいぐらいだった。

(成程、確かにきみの言うとおり……きみは自分自身を偽っちゃいない。きみは街に掃いて捨てるほどいるただの青年だ。工場で大量に生産される若者の一人で、健康と快活さの缶詰だ。喧嘩と女と酒が好きで、きみが愛するのはつまるところ行為だ。だが思想に対してきみは、己が不能かどうかすら試したこともないだろう……)

 恩田は瀬川の手を勢いよく払いのけた。瀬川はふと雨に打たれたような顔つきになり、

「何だイ、他人に見られるだけでも不潔だっていうのか。悪所帰りのくせに、まるで生娘みたいなことを言やがら」

 恩田はつい瀬川の顔をじっと見た。その中心で震える目を見て、それがただの言葉遊びでなく、もはや男の同胞であることを確かめようとする行為であることを、直に手を握られたようにまざまざと感じた。

  恩田は自身の履歴から、肩に触れられただけでもその相手の履歴を推し量ることが出来た。口では過激なことを言っても、瀬川は恩田が出会ったなかで最も取るに足らない部類の青年だった。頑是ない五つの子供が、玩具の刀で大人の自分を斬り殺せると思っている。

 恩田は溜息を吐いた。

「女に見られることぐらいが何だ、見られることなんか行為のうちに入りやしない」

「お、言いやがったな聖人君子が」

「一番嫌なのは死人の目だ————奴らは自分では指一つ動かさないくせに、目を合わせた途端にこちらの体内へと雪崩れ込んでくる。肉体が死ぬのと同時に、人間の敵意には境界というものがなくなるんだ。死者に見られることは、肉体を犯されることに匹敵する拷問だ」

「何だ急に、お前、……」

「女を殺したことはあるか」

 恩田のその言葉に、瀬川はふいに白い歯を見せてちょっと笑った。それでもなおいつもの快活さにまでは立ち戻らないようだった。

 恩田は内心、彼の意外な用心深さを好もしく思いつつ喋った。

「きみは常々僕が女を、酒を、幸福を知らないのではないかと心配してくれていたようだが、きみの心配ごと僕には無用のものだと僕は分かっている。それは死体に魂そのもののように嵌め込まれた目の輝きをきみが見たことがなくても、きみがきみの人生を謳歌出来るのと同じことだ。

 また僕はそれをきみに知らせてやろうという親切心も持たない。きみには随分冷血漢のように言われたが、僕がきみに『女を殺してみろ、きみは人生を知らない』と言ったことがあるか」

「……驚いたなトレープレフよ、聖人君子のお前さんが女殺しだったとはな」

「本当に殺したとは言ってないさ、知識が経験である必要は別にない。愛情の問題とて同じことだ。僕は『本当に愛する』経験が僕には必要ないことを初めから知っていただけだ。そして『本当に人殺しになる』義務がないように、それは僕にとって一縷の希望でもある」

 先が輪になって垂れている縄の夢は一生見るだろう、と恩田は思った。半ば溶けた蝋燭の先に揺れる炎の夢も。それを意味するものが何であったかを忘れても、その幻は己の内面を焦がし続けるだろう……。

 瀬川の掌が恩田の肩を二度叩いた。

「なあトレープレフよ、お前さんが不幸でないと言っても、俺はお前さんを見ていると何だかなあ……次第に遠くなる船を見ているように寂しくなることがあるよ。例え、お前さんが本当に女を殺したとしても、俺はお前を軽蔑しない、むしろ逆だと思うね。残酷さというものは、愛情と表裏一体であったりするもんさ」

 恩田は自分でも意図せずに吹き出した。

「ああ、きみの恋はいつも短命だったな。きみこそ他人に愛されることの恐ろしさが分かっていないと見える。

 残酷さが愛情の一形態であることなんか、きみの恋人は百も承知だ。そしてきみから残酷さを引き出そうとして躍起になるんだ。なぜってそれは貸しだからだよ。女たちは赦すという慈愛を貸すことで、きみを苦しめる高利貸しになりたがる。

 彼女たちにとって許し難いのは肉体よりも精神的な————愛情よりも残酷さによる浮気だ。もしきみが他の女にも同じように残酷であったら? きみの恋人はきみを捨てるなり殺すなりして、きみに貸した夥しい慈愛を————また自分が高利貸しだった事実ごと隠そうとするだろう。きみがもし、一人の令嬢に末永く愛されようと思うなら、その時は信じ込ませてやることだ————『この男は自分に対してだけ残酷なのだ』と」

 いつの間にかバス停に女学生たちはいなくなっていた。上空に浮かんだ紫色の雲から、烏がほろり、ほろりと零れ落ちるように飛んでいる。

「可笑しいか」

「いや、」

「作り話だと思うか」

「トレープレフ、もしそうなら大した才能だ。俺にまでお前に不幸にされた女が見えるような気がしたよ」

 それが皮肉でなく、無防備な正直さであることが、瞬間的に恩田を快活にした。まるで見られてないことを知った青年は、仮面の下でこんな風に多弁になった。

 瀬川、親切な友よ。あの目をきみが見るわけがない! ————あれは僕の金貸しだ。僕に慈愛を貸付け、残酷さを取り立てようとした寄生虫だ。あの血溜りは、あの男がついに僕から回収した利子付きの金だ。きみには世界が春画のように陽気に見えるんだろう。あの年寄りの虚ろな快活さ、年下の青年に対し、兄貴分の友情を偽装した快活さの、何ときみとかけ離れていることか! きみは僕らとは無縁の人間だ。恐らく気づいてもいまいが、きみは天性の金持ちだ……。

「不幸とは限らないさ、却って不幸を有難がる女だって多い」

「トレープレフ、そんな妙な女は十人のうちで、」

「じゃあ訊くが、きみが与える幸福を喜んだ女がどれほどいたかい?」

 瀬川は瞬時、斬りつけられたように黙った。こんな時でも彼は、まるで泥遊びをして叱られた子供のような顔になるのだった。

「南極探検も、偽札作りも、彼女たちが求めるものではなかっただろう。だがきみは人殺しの計画が彼女たちをいつか快活にすると————モルヒネよりも役に立つものと信じ込んでいる。僕にはきみの永遠の快活さが羨ましいよ、仲間入りをしたいとは思わないが」

 薄紫色のバスが角を曲がって来た。恩田は瀬川の手をふいに握った。

「頼みがある」と言い、彼は抱えていた茶色の紙袋を瀬川の胸に押し付けた。

「何だ、」

「新聞は読むか」

「ああ情死事件、尋ね人、風刺漫画は得意分野だ」

「丁度いい。明日にもきみは記者に訊かれるだろう。『何が入っていたか』と。きみは『知らない』と言ってくれればいい。ただ『彼が自分で買ったという物を預かっただけで、自分は中身を見ていない』と答えてくれ。それできみまでが罪に問われることはないはずだ」

 そう言うと、恩田は飛び乗るようにバスに乗った。角を曲がる時、彼の背を丸めて俯いた顔が、西日のなかで一瞬ぎらりと照らし出された。

 残された瀬川は、まるで約束を反故にするように紙袋をばりばりと破った。彼は約束の時刻を守ったたためしがなく、またそのことで悪びれたりしなかった。

『かもめ』

 と書かれた黄ばんだ背表紙を見て、この軽薄な好青年は吹き出した。

「何だ恩田の奴、全て演技だったってのかイ————、手の込んだ悪戯しやがって。お前にトレープレフを演じる気があったなら、古本なぞ買わずとも俺が貸してやったのに」

 紫色の微風のなかで、瀬川は黒い染みのついた頁を剥ぎ取るようにはらはらと捲った。

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