4

 突然雰囲気が変わったことに、多少驚きはあった。さきほどまで飄々としていて感情が読めなかったのに、いきなり素顔に近いものを見せられて脳が困惑しているのかもしれない。

 違うのだとしても、彼女の表情の変化は知り合って間もない俺でも不思議に思えた。


「私はあなたに、彼氏でいることを強要する。だけどそれで、あなたの自由を奪いたくはないの。それに、相性ってあると思うし。四六時中とはいかなくても、これから多くの時間を共有することになるんだから、一緒に居て居心地が悪いといけないじゃない? だからこれは、一種の保険かな」


 彼女の言葉には確かな言い分がある

 なるほどな。確かに人には、相性がある。付き合いやすい、付き合いにくい、人の性格によってこれらは多くのパターンが存在する。そのたびに誰かが我慢して、誰かが受け入れて、お互いの関係は忍耐によって作られていく。その忍耐の度合いが大きければ大きいほど、我慢すれば我慢するほど、関係は壊れてしまう。

 それは男女だけではなく、友達間でも言えることだろう。その点を踏まえて。鷺沼は先手を打っておこうと思っているのだ。


 まあ、お互い付き合いたい訳でもなく付き合うのだから、それも致し方がない部分はあると思う。


「私を彼女として不服に思ったら、遠慮なく捨てていいからね?」

「言い方」


 語弊がありそうなことを言うんじゃない。


「とりあえずは、それくらいかな。何か質問とかある? なければ連絡先交換したいんだけど」

「無い……が、最後のは少しフェアではないような気がする」

「ん? そう?」

「お互い恋人として振る舞うんだから、お前も俺が合わないようなら別れてもいいと思う。俺だけ一方的にってのは、気分が悪い」


 頼んでいる立場だからだろう、鷺沼はかなり俺に譲歩した条件を提示してきている。けれどさっきも言った通り、人は相性だ。頼んでるから我慢するでは、俺の気持ちが優れない。

 だからこれは、正当なことだと思う。


「俺もできるだけお前の彼氏として振る舞うが、嫌なとこがあったら言ってくれていい。その方が俺も気兼ねなく言えるからな」

「……やっぱり葉月くんって変だね」

「……お前に言われたくはないんだが」

「変だよ。わざわざ関係を対等にすることないのに……でも、見る目はあったかな」


 微かだが、声色が優しくなった気がした。


「正当な権利だ」


 こんなことで感謝されても仕方がない。俺からすれば、当たり前のこととかわり無いんだから。

 海風が吹き、風に髪が乱れる。鷺沼は髪を直しつつ片手で押さえ、暗闇に沈む海を眺める。俺もつられて海を見るが、月明かりが海面を反射して、怪しく光輝いているだけだった。

 視線を戻して鷺沼を見る。この暗がりに目が慣れてきたからか、今なら鷺沼の表情が少しわかる。どことなく楽しそうな、嬉しそうな顔に、自然と惹かれるものを感じた。


 顔はやっぱり、モデルだけあってちゃんと見えなくても可愛いんだな。


「ねぇ、葉月くん」

「ん?」

「名前で呼んでいい? その方が彼女っぽいから」

「断る」


 即答した。するとあからさまに、鷺沼の表情が固まる。


「今の流れで断れるんだね」

「……」


 名前で呼ばれることに、どうしてか忌避感が生まれて、口がそう動いた。恋仲になるのなら、確かに名前で呼ぶのがセオリーで、はたから見ても鷺沼の意見は正しいと思う。

 それでもまだ、名前で呼ばれることも、呼ぶことも無理だと思った。


「うまく、言葉にできないんだが……」

「うん」

「名前で呼ばれるのは、むず痒い。慣れないのもあると思うけど、呼んでほしくないと思ってる」

「……そっか。じゃあ、葉月って呼ぶことにする。くん付けはよそよそしいし。それぐらいはいいでしょ?」


 完全に拒否した形になったが、鷺沼はそれを受け入れてくれたようだった。

 しかし歩み寄ってくれたことに関して罪悪感を覚えたのか、「……悪い」と口出していた。


「言いたいことは言う。契約だもん、それくらいはいいよ。だから私も、言っていいんだもんね?」

「それが、俺との契約だからな」


 お互いに嫌なことがあれば言う。別れたかったら別れる。けれどそれまでの間は、俺たちはお互いに恋人である。契約が続く限りは、その関係も続いていく。

 どこまで?


 ……そういえば、ちゃんとした契約期間を聞いていなかった。


「鷺沼」

「どうかした?」

「期間について聞き忘れてたんだけど」

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「2~3年とは言われたが……もしかしなくても本気なのか?」


 いくらなんでも、それだけの長い間恋人として振る舞うのは難しいものがあると思うのだが。それにその頃には、現3年生も卒業している。そもそもの意味がなくなると思うが。

 鷺沼は人差し指を唇に当てて少し考えると「できれば私が卒業するまではお願いしたかったんだけど……」と口にする。


 いや、そんなに?


「う~ん……じゃあひとまず3ヶ月でどう? 試験期間みたいな感じで」


 契約社員じゃないんだから。


「それに、恋人ってなぜか3ヶ月で別れる人多いし。丁度いいかもしれないよ?」

「……確かにそれは。でもあれ、なんでなんだろうな?」

「さあ? 付き合ったことないし、これから確かめていけばいいんじゃない?」


 鷺沼は手を差し出して「これからよろしく」と握手を促す。照れくさくなりつつも、彼女の華奢で冷やっこい手を握り返した。女の子の手を握るのは初めてだが、なんていうか……自分とは違う存在なんだなと思わされる。小さくてスベスベしてて、それなのに俺の手のひらに吸い付くようなモッチリ感がある。


 これが同じ人間の手なのか……。


 感慨深く手を握っていると、鷺沼は「どうかした?」と見つめてくる。


「ああ……いや、なんでも」


 手を放して、恥ずかしさからか握っていた方の手を後ろに隠した。鷺沼は少し疑問に思ったのか、目で俺の手を追いながらも、「帰ろっか」と笑顔を見せる石階段を上がっていく。


「送ってくよ」

「別に大丈夫だよ? それに私電車だし」

「駅までは送る。遅くなっちゃったし、女の子を夜に1人にするのはな」

「早速彼氏っぽいことしてくれるんだ」

「一般常識だ」


 照れ隠しとかそういったことはない。これは本当に一般的で、当たり前のことだ。それにこんな可愛らしい女の子だ。正直何があってもおかしくないと思ってしまう。

 そもそも海辺に連れてきたのは俺だ。ちゃんと明るくて人通りのある場所まで連れていく義務はある。


「……やっぱり、君にしてよかったかも」

「何が?」

「恋人」


 甘い声に、心臓が跳ねた気がした。いまさらだが、こいつは顔だけではない。声もまた、男を虜にする何かを秘めている。

 天性の魔性……ってやつなのか? いや、さすがにそれは失礼か。

 とはいえ、これからは少し気をはっていよう。でないとふとした時に、こいつの魅力に取りつかれてしまいそうだ。好きとは別に、男としての本能が揺さぶられる。


 俺たちはあくまで契約。そういう邪な思いは、考えるだけ無駄な時間だ。ただ頭では理解できていても、それをどこまで実行できるか……だな。

 少し苦労しそうだな。そう心の中で愚痴り、自転車の籠に自分の鞄を突っ込み「んっ」と空いた方の手を、隣にいる鷺沼に差し出す。

 彼女は不思議そうにその手を眺めて、なぜか貝殻を合わせるように手のひら重ね、指の間に指を絡めて握ってくる。いわゆる恋人繋ぎ。恋人たちにしかできない、リア充丸出しの手の握りかた。


 さすがに度肝を抜かれて、目を見開いて鷺沼を見た。彼女は小首を傾げるだけで、別に問題はないでしょ、と言いたげだ。

 はれて恋人になったから、確かに問題はないのだろうが……そうじゃない。


「鞄……貰う」

「……ははっ」


 乾いた笑みを溢して手を離してくれる。

 表情一つ変わらないのが凄いところだ。俺だったら、たぶん顔に出るだろうな。


「はい」


 鞄を手渡され、それを俺の鞄の上に置く。ギリギリ籠に収まっているので落ちないとは思うが、注意はした方がいいな。

 自転車を押して、一緒に歩き出す。来た道を戻りつつ、駅を目指した。その最中で鷺沼は、チラチラとこちらを見る。

 そう何度も見られると、少し居心地が悪い。


「……どうかしたか?」

「……やっぱり、手……繋ぐ?」


 手を差し出され、一瞬心が揺らいだのがわかった。けれども先程、自分で言い聞かせたことを思い出して「いや……また今度な」とやんわり断った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋人契約~3ヶ月更新でいいですか?~ 滝皐(牛飼) @mizutatu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ