さようなら、ワンピース。
芙野 暦
さようなら、ワンピース。
本当だったら私も今日は受験前日になるはずだった。
今朝の天気予報では、ここ一週間は晴れの日が続くでしょうとキャスターは言っていて、確かに体育館の二階の窓から見える雲は薄く青い空が透けている。
空気が乾燥して、窒素や酸素の粒が青色を強く散乱させているから、空がより青く見えるのだという塾で習った理科の知識が無意識に蘇る。
体育館の舞台側の隅っこで三奈子が一人、体を丸めて見学をしていた。私は同じチームの男子と選手交代を済ませて三奈子のところへ行くと、紗名、暇だよお、と三奈子は嘆いた。
「今日の体育、バスケットボールだって知っていたら参加したのに」
三奈子は、模様が大人っぽい白いセーターに顔をうずめて、羨ましそうに試合を眺めている。
一月末のこの時期は本来持久走なのだが、前日の雨でグラウンドがぬかるんでしまったから、体育館でバスケットボールをすることになった。男女混合で試合をしているから、どうしてもボールに触れる回数は男子のほうが多くなり、途中で先生は女子がゴールを決めたら四点にすると特別ルールを設定して、私にもパスがきたけれど、ドリブルが下手だから、だむだむとついているうちに手と脚のタイングが合わなくなってボールだけが先に跳ねていってしまった。
「三奈子、風邪じゃないんだから参加すればよかったのに」
「お母さんがダメだって。明日から入試で怪我できないから。というか寒すぎ。これで風邪ひいたら馬鹿みたい」
「いよいよ明日だしね。やっぱり緊張する?」
んー、と三奈子は頬を膨らませて考えたあとに、今は大丈夫かなあと答えた。
「明後日が本命で、明日は滑り止めだからまだ気楽。しあさっては第二志望だから、明日の夜は緊張してるかも」
「本命は変わらず?」
「うん。最後の模試判定でB判定が出たから塾の先生も自信持って受けてこいって。だから案外何とかなるんじゃないかなとか思ってきてる」
私と三奈子が夏期講習前に受けた模試では二人ともE判定でぼろぼろだった。第一志望に記入した中学校は、私が外国の建物みたいな校舎に一目惚れして、すごく通いたかった偏差値の高い女子校。去年の六月にオープンスクールが開催され、お母さんと一緒に行った。あの日は津島駅から名鉄津島線の準急に乗って名古屋駅まで出て、そこから市営地下鉄と乗り継ぐと、学校までは一時間くらいかかった。合格したら毎朝六時には起きないといけないけどちゃんと起きられる? とお母さんに聞かれて、起きる、何としてでも起きると私は言い張った。特に制服がお気に入りで、明るいブルーのワンピース型の制服で、その制服に身を包んで通うのを夢見ていた。
三奈子とは塾が同じで、放課後一緒に通塾していたのは夏休みに入る前まで。地元にも進学塾と掲げた塾はあるにはあるが、合格実績が高い、名古屋にある中学受験専門塾に通った。私たちの小学校から中学受験をする子は三奈子、同じクラスの笹山くん、そして隣のクラスの一ノ瀬くんくらいでそれ以外の子は天王中学に入学する。来月の中旬には中学校訪問が総合の時間にある。
「紗名、受験終わったらいっぱい遊ぼ」
「うん」
「来週の月曜の夜には全部終わってるんだよねえ。変な気分」
「もうちょっとだね」
「絶対に受かって自由を手に入れるんだ」
「じゅうぶん自由じゃない?」
「お母さんに勉強勉強言われるの耳痛いし、成績伸びなかったら、受験やめろバカ娘って絶叫されるし。もうストレスで限界」
「三奈子のお母さん、授業参観で見たことあるけど、すごく綺麗で、あと優しそう」
「あれは外の顔。二重人格だからあの人」
そうは言うものの三奈子は口元にえくぼを浮かべた。だらんと長い足を伸ばして壁にもたれかかっている三奈子を先生が見つけて、おかもとぉ、ちゃんとすわれぇ、と大きな声で注意をした。すぐに体育座りに戻した三奈子はぼそっと、いちいち細かいと愚痴をこぼした。ピーっと笛が鳴り試合が終わり私のチームは十点差をつけられて負けた。
冬の体育館はいつも冷え切っていて、長袖の体操着を着ていても冷気が染み込んでくる。夏はクーラーが欲しいし、冬は暖房が欲しい。さぶっ、と三奈子は震えて、明日風邪ひくかも、と言った。独り言のようだった。口にしたことは本当になるんだよ。言霊って知らないのかなと私は思った。
六時間目の授業が終わり、帰りの会が始まる時間になっても男子が騒いでいたから担任の佐々木先生は、喋ってばかりで人の話が聞けないといい大人になれないということを、隣のクラスが終礼を終えた三時半を過ぎても説教を続け、それが終わる頃には四時前になっていた。
「今日はもう塾ないから、一緒に帰ろ」
三奈子はランドセルを右肩にかけてやってきた。放課後に残って遊ぶ子たちはクラスのボールを持って教室から走って出ていった。
「いいよ」
一組の教室を出ると隣のクラスの小笹先生が、明日落ち着いて頑張りな、と三奈子に声をかけた。小笹先生は背が高く、けれど全体的にひょろりとしている。壁に貼られた習字の作品が一枚はがれかけていて、小笹先生は壁に刺さっている余った画びょうで止め直し、階段を降りていった。
「あたし、担任、小笹先生が良かったなあ。他のクラスなのに声をかけてくれるし。佐々木先生は気に入った子しかよくしないし、受験するのに声もかけないって人としてどうよって思う」
私たちのクラスの佐々木先生は女の家庭科の先生で、いつも眉間にしわを作っている。中学受験をよく思っていないらしく、受験校に提出する調査書の発行のことで、三奈子のお母さんはもめたらしい。一学期末の三者懇談でも私のお母さんは、なぜ受験をさせるのかと聞かれていたから、よっぽど私立の中学受験に反対なのだろう。
「あたしに何かとあたりが強かったなあ」
「そうだったね」
ミシンの縫い方がずれているとか調理実習で食器の片付けが雑だとか、三奈子は頻繁に注意されていた。
上靴からスニーカーに履き替え、校舎を出る。外の風は強かった。マフラーを上にあげた頬を刺すような冷たい風もあと二か月は我慢しなければいけないのか、と頭の中でカレンダーをめくる。二か月は長いのだろうか。短いのだろうか。小学六年生になって夏前までは短かった。特訓の課題や宿題や補習に追われていたから、一日が四十八時間制だったら、と泣きたいほど忙しく、でも塾を辞めることになって暇になり、学校の勉強もすでに習ったことばかりで、一日が果てしなく感じられた。十二時間制でもいいのにと思い続け、やっと一月まで来た。
「まだ一月かあ」
私の心の声が思わず飛び出てしまった。
すると三奈子はええ? と驚いた。本当に驚いているようで声も大きくなった。
「あたしからしたらもう一月って感覚だけど。夏休みが過ぎてからあっという間で、地球の公転速度速くなってるんじゃないかなあ」
「受験勉強していると一日早いよね」
「だからちょっと心配しているのは、来週には受験が全部落ち着いて受験勉強をしなくなるし、あたしも紗名みたいに毎日退屈だあって時間が待ってるのかな」
「別にそこまで退屈でもないよ。したいことできるし。読書とか。観たい映画が公開されていたらお父さんが連れて行ってくれるし。塾があったときって、日曜は模試とか志望校特訓とかで自分の時間なかったからさ」
「あたしも受験終わったら人間辞めるってくらいぐうたらな生活を送ってやるう」
自由な時間があるっていうのとだらだらとした時間を過ごすのは違うんだけどな、私の中では。
「三奈子、絶対合格しないとね」
「そうそう。失敗したら何も勉強をしてこなかった子と同じ中学に行くことになるもん。それだけは絶対に回避しないと」
三奈子の言葉に、私の胸の中にある悲しさとか悔しさとか後ろ向きの感情がざわりと反応する。
校門の前の道には歩道はなく、交通量が多い。静かな通りが多いから、車が近づいているかは音でだいたいわかるけれど、狭い路地の十字路は必ず止まってから安全を確認する。駐車場の横に脇道があるのでそこを通り抜けてまっすぐ進んだ。入学式前に買ってもらったランドセルは滑らかな赤色だったのに、六年間も使い続けるとすっかり光沢がなくなってしまった。硬かった肩ベルトもずいぶんと柔らかくなった。
隣の三奈子の顔を見上げる。私よりも頭ひとつ分、背が高い。三奈子の成長は早く、中学生にも見えるほどでかえってランドセルが不釣り合いだ。こういう子が私立の女子校に通っていくんだろうな、となんとなく思った。
歩いていると白いヘルメットを被った中学生が自転車で横を通り過ぎた。百円ショップを過ぎ、歩道橋の標識には天王川公園の文字と右矢印が書かれている。長くのびる褐色のレンガ畳の道は天王川公園へと続く。天王中学校方面に家がある三奈子とはここでさよならだ。話が途中だったから立ち止まって話を続けていると引っ越しのトラックが音を立てて通り過ぎて、そしてまたしんとなった。風が吹いて落ち葉がアスファルトに擦れる音がした。木々の隙間を縫うように吹いた風で、肩まで伸ばしていた私の髪の毛が顔を覆い、乱れた。
「紗名の髪、伸びたねえ」
「中学の入学式までには胸のあたりまで伸びておいてほしいけど、肩から先の伸びが遅い」
「あたしも伸ばそうかな。せっかく環境変わるんだし」
「ショートカット、似合っていると思うけど」
「好んで短くしているわけじゃないし。勉強の邪魔だっただけで。ほら、髪の毛乾かす時間ってもったいないから」
確かに髪が長いとドライヤーで乾かすのは手間がかかる。だけど、あのボオーという、それ以外の音を遮断する温風の中で、明日は何しようか、何の本を図書館で借りようかと思い巡らす空白の時間は、私は好きだ。
「紗名は、高校は地元? それか私立?」
「わかんない。まだ中学生にもなってないんだし。そもそも私立に通えるなら塾を辞めずに済んだもん」
そうかあ、と三奈子の語尾は弱弱しかった。
「でも高校からは一緒に通いたいなあ。私立でも上位で合格したら特待制度使える学校あるから、そこ受験したらどう?」
「行きたい高校に特待制度があればいいけど。私、上位合格できるような学力ない」
「勉強したら大丈夫。あたしも勉強してなんとかB判定まで伸びたから」
「私、夏から勉強してないし、昔より頭悪くなってる」
三奈子は、そんなことないって、と言ってくれたけれど、ひと呼吸の間があった。
「そうだ、終わったら一緒に中学の内容を予習しよ」
「どうやって勉強するの?」
「あたしのお母さん、高校の英語の先生だったから。あたしの家に来て一緒にしよ」
「受験終わったら遊ぶんじゃなかったの?」
「遊ぶよう。でも遊びっていつか飽きるし、きっと。毎日遊園地とか映画館行けるんだったらいいけど、小学生では絶対無理。だから」
「別に予習はいいかなあ。急がなくても春から中学生だし。私にはまだ先のことはわからないから」
「あたしもわからないよ」
「先々の予定を立てても実際は違う方向に進むことのほうが多いし。というかまず、三奈子は明日のこと心配しなくていいの? 目の前のことに集中しないと失敗するよ」
「どうしたの? なんで急にそんなとげとげした言い方するの?」
「三奈子からしたら、あと数日でひと段落かもしれないけど、私の区切りがつくのはまだ先なの。勝手に浮かれられても私ついていけないって」
「ごめん。あたしはこれからも紗名と友達でいたいだけで。中学も高校も同じところ行きたかったし。せっかく紗名も受験勉強したのに、もったいないから」
「後悔してないもん。知ってる子たちとそのまま中学も一緒だから、不安は少ないし」
「気に障ったならごめん」
「怒ってない」
それから二人の間に会話はなかった。だからと言って一人が怒って別れるわけでもなくただ黙って歩いた。三奈子は半歩ほど私の後ろにいた。
はあっと小さく息をはく。
白い息が視界を覆い、またもとの風景に戻る。
もしも私の両親が離婚をしなければ、塾を辞めずに済んで、三奈子と一緒に、いよいよ明日だね、終わったら何しよう、と気持ちのリズムは合っていたのかもしれない。
きっと合っていたのだろう。
お父さんとは一緒に暮らせなくなったの、とお母さんの声が耳に蘇る。それを聞いた記憶は曖昧で、今でも思い出すのはまだ六月なのにその日の夜がやけに蒸し暑かったということと、互い目を合わせないお父さんとお母さんの姿だ。
離婚すると私はどちらと住むことになるのか気にかかり、部屋に誰もいないときに離婚についてネットで調べた。そうして調べながら泣けてきた。
数日後、私とお母さんが家を出て賃貸マンションに住むことになった。これからしばらくばたばたするから、と休塾になった。落ち着いたら戻れるようにとそのときは退塾にはならなかったので、毎週末塾の課題が郵送されてきたものの、送られてくる課題は次第に自力で解けなくなっていった。七月末に模試を受けに塾に行くと仲良かった友達が久しぶりと私の周りを囲んでくれて意外と気まずさはなかった。三奈子は一つ上のクラスに上がったようで、かつての教室の座席表に名前はなかった。
塾はその日が最後になった。お母さんが仕事に出るようになって、何気なく買ってもらっていたお菓子や読みたい本も、また今度買ってあげると断られることが多くなった。私の苗字が今橋から、お母さんの旧姓の吉岡に変わったのは八月で、二学期が始まると出席番号が後ろから二番目で、後ろが鷲尾くんになった。ワ行の苗字って鷲尾以外他にあるかなとか考えていた。授業中先生に、吉岡と呼ばれて即座に反応できず、ああ私? となることがしばらく続いた。
お父さんとは今でも頻繁にではないものの、会っている。ご飯に連れて行ってもらったり映画を観たり。欲しいものを聞かれ、切望とまではいかないにしてもお母さんには買ってもらえないものを頼むと買ってくれる。結構甘やかしてくれるのに、胸の中ではずっと曇り空が広がっていた。
カラスの鳴き声がして、それからぴゅうっと違う鳴き声も空から聞こえてきた。空を飛んで、はるか上空から私が住んでいるこの町を見下ろして、それからぐんぐん上昇して地図帳でも眺めるように地上を見渡せたらどれほど気持ちが洗われるだろうか。冬の空に寂しさが突き上げていくようで、追いかけるように見上げると、飛行機がゆったりと飛んでいた。
「ごめんね」
「私も三奈子の受験前に嫌なこと言ってごめん」
気まずくて私は三奈子の顔を見ることができなかった。歩道と道路の間に植えられている街路樹と私たちの影が左に向かって細長く伸びている。
天王川公園とは正反対にある天王中の手前の道を曲がると三奈子の家だ。茶色と白がよく映える一軒家。恵まれている人はいつでもどこでも、どこまででも恵まれているんだろうな、と思う。いつものようにクラスの子たちがいる公園に行こうと思った。
「また来週ね」
「明日から頑張って」
「紗名の分まで頑張ってくる」
「私は関係ないって」
「じゃあ、火曜日」
それで。
三奈子とは別れた。
あの子の受験と私は、全く関係ないもんなあ。
そのままUターンしてもよかったのだけれど、同じ道を通る気にもなれなくて中学校の前の横断歩道を渡って津島図書館側の道を歩く。右を向いて離れたところから中学校の校舎を眺める。生徒たちが談笑しながら下校していた。私の一区切りって中学生なることではないのかもしれない。私服じゃなくて制服に変わるって特別なことなのに、やっぱり受験することも入学することもできなかった女子校の校舎とワンピースの制服を思い出して、胸がじんと締め付けられた。
離婚なんてするから。
中学生になるまでお父さんもお母さんも仲良い振りをしてくれていたら受験ができたのに。模試の判定はE判定だったけれど、あのまま勉強を続けていれば成績は伸びたはずだ。だって三奈子は塾にいても他校の友達と話してばっかりで自習室でも寝てばかり。国語の成績は同じくらいだったけれど、算数も理科も私のほうができた。
家庭科の先生に怒られてばっかりと三奈子は文句を言っていたけれど、あの子だって授業中教科書に塾で配られた理科の暗記帳を挟んで見てたじゃないか。真面目に授業を受けていなかったから、先生が怒るのは当然だ。受験で忙しいって言い張って卒業アルバム制作係決めからも逃げていた。
私だったら。
歩めなかった道を想う。
両親が離婚したばかりの頃は誰もいない家に帰るのが嫌で、かといって友達と遊ぼうともならず、気を紛らわすために図書館の自習スペースで時間を潰した。一段低くなった隣のテーブルでは小学二、三年生くらいの女の子も毎日一人で宿題をしていたっけ。
公園へと続く道を歩く。
植物を絡ませてある木でできた屋根の下は日光が差し込んでこないから暗い。途中にある浮橋を渡ると西に傾きかけた太陽が見えた。遠くのほうから子どもの声がうっすらと聞こえてくる。
私は早足になる。
歩く速度に合わせて、声も段々と大きくなる。公園の脇には自転車が止められていて、ジャングルジムや滑り台は賑わっていた。ベンチには知り合いのお母さんが座っていて、こんにちはと挨拶をする。
さなー。
クラスの女の子たちが手を振ってくれる。鬼ごっこをするわけでもかくれんぼをするわけでもなく、ただ自転車の周りに集まって喋っているだけ。いつもと変わらない夕方だ。
私も輪の中に駆け寄る。
ぴゅうぴゅうと鳥の鳴き声が、また空から降ってきた。
さようなら、ワンピース。 芙野 暦 @hiroshot
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