ぶち

和泉眞弓

ぶち

『卵子の源となる原始卵胞の数は、女児の胎児期における700万個を頂点とし、出生時には200万個、初経の頃には30万個と自然減少する。毎月排卵されるのは1個程度で、排卵期に成熟のタイミングが重なった卵子のうち1個だけが排卵される。その横で、毎日数十個の原始卵胞が育っては排卵されることなく萎み、消失している』


 ◇◇◇


 冷える手足を携帯カイロが温める。深紅に映える膝掛の裾を、隙間がないように今一度押し込める。

 紅葉の彩りが車窓に溶けて流れる、その手前にある夫の横顔を、勝代は眺めている。

 これはドライブではなくフィールドワークだ。植生の研究をしている夫から、突然変異が疑われる植物群がある一帯にだけ大量群生しているという話を聞いた。以来、その話が頭の隅にひっかかっていて、ふとした時に思い起こされ、気づけば頭から離れなくなり、これは実際に足を運んで行ってみなければ到底治まらないと、夫に連れて行ってくれるように頼んだのだ。勝代もまた菌の研究者だった。何かが匂う。まだ研究者のはしくれながら、こういう勘は高確率で当たるというのを知っていた。古い宿があるらしく、温泉に入って一泊できるという余禄も魅力的だった。旅行のために休みを合わせない夫も、研究のためならばいそいそと予定を組んでくれる。勝代は隙あらば旅の要素を挟みながら、二人でレジャーに出かけているという夢想をよくする。

 勝代は今、運転中の夫を前に、ここぞとばかりに隅から隅までその端正な横顔を舐めるように眺めわたしている。夫は神が造り給うた世界最高の造形物だと、また思う。


 かほどに美しい横顔の人の子を、妻でありながら産めない身体であることを何度呪ったことだろう。

 勝代がほぼ無排卵だと確定したのは大学生の時だった。当時大学院生だった夫はとくに驚かず、僕達の生活に子供はいらないから、と卒後まったく頓着なく結婚した。互いの親や親戚ともそれぞれの事情で疎遠で、とやかく言われる煩いもない。自由に研究に打ち込み意見を聞き合うことのできる、この上ないパートナーだ。互いの忙しさから生活時間が合わないこと、勝代が少々夫を好きすぎるかもしれないこと以外は、なんら不均衡もなく、うまくいっていた。


 車は熊笹が擦る小道へと入っていく。

「本当にこの道でいいの」心細そうに勝代が尋ねる。「大丈夫だ」夫は一言答えたきり、変わらない様子で車を走らせる。

 積み重なった落葉をタイヤががさがさ分ける音、踏まれて折れる枝の音、薙ぎ倒される熊笹の音がめりめりと響き、音量を増す。藪に遮られてうす暗くなってくる。轟音に包まれ、振動がひどい。道なき道を車でかき分けて切り開いているかのようだ。ナビゲーション上に既に道はなく、携帯の電波もとうに届かなくなっている。


 このままはてしなく続くかに思われた悪路の後——


「……あれ?」

 勝代は、急に明るくなった山中に違和感を覚えた。見たことのある野生植物なのに何かが違う。例えば、松の木。通常幹の少し高いところで枝分かれしているはずが、地上すぐの位置から無数の枝を掌状に放つ低木になっている。見回せば、背の高い木が一本もない。幼木もしくは若木のような背の樹木が、ひしめき合いながら葉と枝をひろげている。気候が違う外国のようだ。ぽっかりと開いた茜空に、もし黄泉の国に間違って来たらこんな感じだろうかと、ふと勝代は思う。横で、夫がくしゃみを連発する。たぶん有り得ない量の胞子が飛んでいる、と言う。


 今宵泊まるのは自家発電の宿だそうだ。周囲には見渡す限り民家らしきものが見当たらず、人の姿も見えない。犬や猫といった動物ばかりが多く、盛んに往来している。

 宿の灯りは煌々としてすぐにわかった。宿の店構えは思うよりも立派で、太い柱が何本も聳え立ち床は隅々まで磨かれていた。低い音が、ガタン、ゴトン、と遠くで響いている。受付の老女が宿帳記入を夫にすすめる。ガタン、ゴトン、音が続く中、老女は勝代にだけ聞こえる低い声で呟いた。


「あんた、石女産マズメだあね」


 勝代の世界から音が消えた。痛みの根を瞬時に握られたように、痺れて息ができなくなった。


「できるよ。ここなら。ぽんぽん、ぽんぽんとね。今夜は、お楽しみなされ」

 老女は、裂けんばかりの口角を上げて微笑んだ。


 廊下いっぱいに麹の醸された匂いがする。老女に言われた衝撃が冷めやらぬ中、甘酒に酔った少女のように、勝代の頭はぼうっとしてきた。夫は滅多に飲まない非常用抗ヒスタミン剤の効果が出てきて、くしゃみはとまったものの、やはりぼうっとした様子である。


 二人が部屋に腰を落ち着けると、


 ぴぃー、

 くっくくくけ、け、け、 け。


 ものすごく近くから音がして、ひぃっと勝代が跳ねる。


「ポットの音だ」

 田舎泊まりに慣れているせいか、夫は動じない。昔ながらの電気を使わないエアーポットは、時々わずかな隙間から空気が漏れる時に音がする。


「もう暗いからサンプル採取は明日にしよう。今日は早めに休もう、なんだか眠い」

「せっかく温泉に来たんですから、お風呂に入ってご飯食べてから、ねましょうよ」

 ねましょうよ、のところに粘り気が出た。老女の言葉が、丹田の奥、神経叢のあたりを掴んで離さない。



 男湯女湯で夫と分かれ脱衣所に入る。さっきからほかの客は見当たらず、立派な宿なのにやっていけてるんだろうかと勝代は不思議に思いながら眼鏡を外し服を脱ぐ。洗い場も一人。並んで洗うのは好きじゃないから助かる。洗いを終え、内湯はないようなので露天風呂に出る扉を開ける。


「ぎゃっ」

 開けかけた扉を、勝代はすばやく再び閉めた。


 今のは、なんだ。

 見間違いでなければ——


 白い「ぶちぶち」が、露天風呂一杯にひしめきあい、うごめいていた。


 なんだここは。気味が悪い。帰りたい。

 だがここまで来て湯に浸からないというのも癪だ。はしくれだけど一応は研究者だ。勝代は思い直し、裸眼で正体を見極めるべく、目を細め、腹を括って再びゆっくり扉を開ける。




「お客さんだー!」

 再び扉を開けた瞬間、明るい子供の声が響いた。


 白い「ぶちぶち」は、ようく見ると、様々な年齢の子供達の顔、顔、顔だった。ひい、ふう、みい、、十以上は軽くいる。裸眼で目鼻は見えず、まとめて蒸されているまんじゅうのようだった。

 おそるおそる勝代が近づくと、一番背の高い十代半ばぐらいの女の子が子供達を引率して、皆ぞろぞろと風呂から上がっていった。「なかま、ふえるかな」「どうかな」そんなことを言い合いながら、子供達はあっという間に風呂からいなくなってしまった。

 温泉は単純塩泉で湧出量が多いらしく、子供達が上がり一度低くなった水位はみるみる肩まで満ちてきた。肌がつるつるして、気のせいか張りも出てきたように感じる。灯りの当たるところに紅葉が見える。今が見頃なんだろう。蔦だけでなく、星みたいな小さいもみじが這うようにびっしりと繁り、みどりからきいろだいだいももあかえんじへとなめらかなグラデーションを作っていた。

 湯に体を沈め、勝代はようやく息を吐き手足を伸ばす。不思議な場所だ。ここに来てからというものの、驚きの連続だ。それだけでない。まだ数時間もたたないのに、自分を形作る細胞の一つ一つが、まるで分裂したての頃の力を甦らせているような感覚をおぼえていた。風呂から上がる頃、勝代は骨盤の腸骨と臍のあいだに、これまで感じたことのない鈍痛を覚えた。


 夕膳は豪華だった。食前酒の日本酒スパークリングをはじめ、酒精がふんだんに使われ、高級魚卵が「ぶちぶち」と零れんばかりに盛られている。食の細い勝代夫婦も、軽い酔いで中枢がにぶったのかほぼ完食した。特に、魚の粕漬け焼きの、たっぷりとまぶされた酒粕が奥深さのあるちょっと癖になりそうな味わいだった。後で、酒粕を分けてもらえないか老女に頼んでみよう、勝代はそう思った。


 夫はほろ酔いのまま敷かれた赤い布団に横たわると、すぐにでも眠ってしまいそうだった。

「だめ」

 勝代は夫に触れて、腕を絡め、働きかける。こういう時の夫は大抵眠気が勝ってしまうのだが、今日はそういうわけにはいかない。老女の言葉が勝代の耳底を流れる。今にも寝入りそうな夫のそれは意外にも、軽く刺激しただけで若い頃にも記憶にないほど固く大きく怒張した。勝代の乳房も夕食後からはちきれそうに張り、臍の両側はますます痛みが強まり、ぎりぎりと捩れんばかりである。すでに湧泉は溢れている。この上触れられればいったいどうなってしまうのだろう。

 季節外れの、犬猫の、ぶら下がった発情の声が聞こえる。

 これまでの性交はじゃれあいにすぎなかったと勝代は知る。生殖に向かう性交は、待てなくて、貪欲で、めくらめっぽうに深い所、皮膚も分かたず融け合ってしまう場所まで、だれにも教えられなくとも辿り着いてしまう。かたい振動が、最奥にある核を何度も突き上げる。失神手前で寸止めされる歓びは、繰り返され頂点が持続して線になりやがて高原状態となる。二人は獣のように交わり、幾度となく達し、何度しても飽かなかった。二人にとって、それは初めての状態だった。何か特殊な条件下で成立しているらしいこと、その訪れは今夜限りであろうことも、二人はどこかでわかっていた。


 果て散らかして、ぼうっと夢見心地のまま、夫が共同トイレに行こうと襖を開けると、すぐ側に鈴なりにはりついていた子供達が、ぼたぼたぼたと廊下に落ちる。

「うわっ!!」夫が腰を抜かしている間に、子供達は「なかまだ」「なかまができる」と顔を紅潮させ興奮しながらバラバラと階下に降りていく。奥から誰かに叱咤される声が聞こえ、子供達の声はしんと聞こえなくなった。ガタン、ゴトン、来た時にしていた低い音がまたして、トイレの電気がふわっと明るくなる。


 ぴーっ、

 くっくっく、け、け、け。


 静かになると、鳥みたいなポットの鳴き声がする。

 甘い余韻があるので、もう勝代は驚かない。何もかもおそらく今夜限り。そもそも子をそれほど欲しいとは思っていなかった。あるのは欠損の感じ、あるいは体験しえないものへのルサンチマンだった。今日できなければ、子を持つことをきれいすっぱり諦められる、と勝代は思った。

 だから今夜はできる努力をしよう。勝代は、何かで聞いた俗説を思い出し、腰の下に丸めたバスタオルを入れ心持ち高くして寝る。余韻の中、勝代はまどろむ。不思議な夢を見た気がする。酒精の香りの中、「ぶちぶち」とした白い粒が浮いている。初めは2つ、その次は4つ、次の瞬間には8つ、「ぶち」「ぶち」「ぶち」と倍々に増殖していく。あっという間に「ぶちぶち」は集合体になり、萎む部分もあれば、膨れる部分もあり、徐々に全体がどくんどくんと波打ち拍動する生命体になっていく。


 翌朝、夫は数種の植物と空気中の胞子を採取し、勝代は酒粕を頒布してもらった。「あんたはできにくそうだから分けるけど、やたらに配ってはいけんよ。空気にあまりさらしてもいけない」老女はやはり勝代だけに聞こえるように言う。勝代はあわてて検体採取用の密閉容器に酒粕をしまい、密閉カバンに入れて運ぶこととした。研究対象として、ラボにも少し持っていくつもりだ。


 別れ際に、老女がなおも耳打ちしてきた。

「多すぎたら、うちで引き取るから連れてきなさい。玄関先に置いといてくれれば、あとはいいから」


 ◇


 あの旅の後、夫はすみやかに原状復帰し、再び雄々しく猛々しくなることはもうなかった。

 しかし勝代は違った。旅が終わった後も乳が異様に張り続け、臍の両横の鈍痛の感じも気だるく後をひいている。溢れる潤いが続く。女性機能全体が腫れているような感じだ。明らかに、これまでに経験のない異状をきたしていた。夫には言わなかったが、二週間たたないうちに、勝代は懐妊を確信していた。


 ◇


 旅行から、1ヶ月が経過した頃——


「まあ、おめでたなの?!」

「そうなんですよ……」


 頬を染めるのは、勝代と同期入社の満里だった。

「まだ安定期じゃないから、おおっぴらには言ってないんですけど……」

 女子休憩室いっぱいに、祝福のムードが満ちる。


「おめでた」か——

 そうか、妊娠はおめでたいことだったと勝代は気づく。「おめでた」——そう呼ばれてみたかったと、勝代は思う。


 ◇


 勝代は旅の二週間後きっかりに市販の妊娠検査薬を購入した。期待した通りくっきりと二本線が出て、評判のよいレディースクリニックを調べ、勇んで受診した。尿検査は当然に陽性。週数が浅いせいか、エコーでまだ胎児の袋が確認できないという。妊娠は恐らく確定だが、経過に注意ということで一週間後の再診となった。五週目に入ったとたんに乳の張りが強まり、ブラジャーのサイズが2カップアップした。胸や胃の辺りがもやもやと常にむかついていて、お腹はすくが食べられない。気を紛らわせるため、漫画を読んだりゲームをしてみても不快が隣り合わせで没頭できない。さっぱりしたくオレンジを剥いてみたが、薄皮をとりぎっしり詰まった小房の「ぶちぶち」を見ると、逆に吐き気を催した。

 夫は、子を授かったことを喜ぶよりも、厳しい顔をしてその場で黙考し始めてしまった。夫の性格から考えれば自然で、事が重大であると認識し、人生設計に大きく関わることで、勝代のキャリアも尊重しているから故であるとわかっているが、直後の夫のその反応に、ひそやかに勝代は傷ついていた。


 レディースクリニックの再診日。強いつわりは相変わらず持続中だ。

 勝代は運転しながらLED信号の「ぶちぶち」を見て、うっ、と胃にこみ上げるものがある。信号を見ずに運転したいがそうもいかない。視線を外せばコンパクトカー通常装備の内装の「ぶちぶち」。車内から焦点をはずして外を見やれば、時刻と気温を告げる電飾の「ぶちぶち」。どこをみても「ぶちぶち」。

 気づいてしまうと、世の中はこんなにも「ぶちぶち」が溢れている。「ぶちぶち」がぞろりとそろいで勝代を見る。舌の根からは苦い唾液が噴出し、皮膚全体の感覚がむくんで浮いたように鈍くなる。勝代は、車を脇に停めては、「おう、おえ、おええ、げええ」と袋にもどすのを繰り返しながら、やっとのことでクリニックに辿り着く。



 医師がエコーを凝視している。

 一秒、二秒。沈黙が過ぎる。だめか。あってほしくない予測に勝代は傾く。

「これは……」やがて医師は口を開く。

 衝撃を最小限に、勝代は知識をめぐらせる。つわりはある。妊娠は継続しているだろう。子宮外妊娠か、ぶどうの房状に細胞が異常増殖する胞状奇胎か。つわりの強さからは後者かもしれない。勝代は着々と覚悟を固めた。

「……ひ、ふ、……」

 口の中でちいさく医師が何か言っている。


「袋が確認できました。妊娠、確定です」

「……え?」

 勝代は拍子抜けした。しかし、まったく警戒を解く気にならない。

 ためらいがちに医師が続ける。

「ただ……、その」

「ただ、その……? 」

 不安が一気に膨れ上がる。


「ええと、その——十胎、あります」


 十胎——

 十つ子?

 医師がキャプチャしたエコーを覗き込むと、そこにはわが子たちの姿が、まぎれもない、白い「ぶちぶち」が、写っていた。


 ◇


 無事に全員を産むのは無理だろう。あるのは、残す命を選ぶ減数手術か、全員堕胎か。


 夫は十人の子供の親になったと聞かされて、現実感のない顔をした。それはそうだろう。その次に、研究とさまざまな符丁が合った時のひらめきの顔が一瞬よぎった。夫はそういう人だ。そういう夫が勝代は好きだ。

 そうだ。そうだった。造作も所作も美しいこの人は生々しいものから遠ざかるべきなのである。間違っても命の選別などということに、この人を関わらせてはいけない。



「おろすことにした」つとめて乾いた声で勝代は夫に告げる。

「——そうだね」やがて夫が静かに答える。

「——気をつけて」

 夫の声の中に安堵した青少年がいないか、自傷のようについ探してしまう。それでいてごく微量のそれを探り当てると、それでいいという思いと、やりきれなさの両方が勝代のなかに浸み出してくる。


 ◇


 職場で勝代は影で吐きながら、手術まであと数日と同僚には黙っていた。昼休み、休憩所のソファをあたりまえのように「おめでた」の満里に譲る。「おめでた」でない妊娠中の勝代はスペース内の離れた床に横たわる。満里よりも数段具合が悪いのに。カーペットは薄く、すぐ下の床は固くて、しんと底冷えした。「おめでた」と呼ばれる者とそうでない者の違いはこれほどまでにあるものか。背を向けて横になっている勝代の目の端から、一筋だけ、涙が流れた。数日でお別れの下腹を撫でる。せめて自分だけは、この子たちに言おう。

 ——おめでとう、十人の子供たち。

 そして、ごめんね。


 ◇


 麻酔が落ちた。

 夢かイメージか、瞼の裏に流れてくるのは、着床した子供のへその緒の根を、銀のスプーンで一つ一つ剥がしていく映像だった。

「ぶちっ」「ぶちっ」

「ぶちぶちぶちっ」

 なかまはどこだ。スプーンはさらに八方を探る。「ぶちっ」「ぶちぶちっ」

 だいぶ少なくなってきたな。まだなかまがいるのか。どこだ。

 いた。「ぶちっ」

 あと一人。どこだ。どこさ隠れてる。隠れても無駄だ。


 ——見つけた。


「ぶちっ」




 残されたのは、蓮の根の穴のように集合した十個の孔だった。


 ◇


 まるで、何もなかったように世界が再開している。

 直後につわりがなくなり、食欲が戻ってきたので、ひさびさに夫と二人でゆっくり外食をする。

 たわいのない話が、何よりありがたい。


 ◇


「うおう、おお、うええ」


 今度は満里のつわりが目立ってきた。上司からの指示を仰ぐ時も青白く、うつろな目をしている。週数は勝代が妊娠継続していればそう変わらないはずだ。勝代は満里の妊娠がとてもひとごとに思えなかった。

「大丈夫?」勝代は満里の背をさする。レモンティーの粉を溶いて、満里にカップを渡す。

「……ありがとう」満里は弱々しく微笑んで受け取る。おいしそうにごくごくと飲み、一息つくと、呟くように満里が言った。

「勝代さんには、一番迷惑をかけてしまって……仕事が増えたでしょう。ごめんなさい」

 勝代はつとめて元気な声を作る。「迷惑とか、ごめんなさいとか、なし! おめでたいことなんだから。こういうのは、順番なのよ。私だって何があるかわかんないし、そん時は満里さんにお世話になるかもしれないし。それに私、仕事好きな方だし。気にしなくていいのよ」

 満里がお礼を言う。調子が悪い時は、みな顔が幼い。無邪気に安心する満里を見て、よかったと思う。堂々と労られる立場がうらやましくも思う。そして、もう一つ、名状しがたいうねりを感じ始めている。

 満里をさすった手から、不快に近い感覚がじわじわと上がってくる。

 苦い唾液が溜まり、胸がむかむかしてくる。反射的にえづく。満里に悟られないよう勝代は静かに場を離れ、トイレに吐いた。


 おえ、ええ、おえええ。


 それはまだ、勝代の記憶に新しい身体反応だった。


 ◇


 新たな妊娠はない。満里から何かつわり胞子でも飛んでいるのかと、ついばかなことを考えてしまう。まるでつわりが感染ったように、勝代の身体は強く反応し、満里とおなじ症状を示していた。



「ともづわり」


 つわり症状を近くで見るうちに、そばにいる妊娠していない人にも同じ症状が起こってくることをそう呼ぶらしい。調べたところ、女性だけでなく、男性にもあると書かれてある。

 胃薬、吐き止めを飲んで軽減することも可能かもしれない。しかし勝代はそうしなかった。

「ともづわり」を、治したくなかったのだ。


 おえ、ええ、おえええ。

 げえ、げえ、げおえおええ。


 職場の仕事量は満里の一部が増えているが、勝代は猛然と吐きながら遅くまで作業する。

 つわりも、仕事も、諦めたくない。


 顕微鏡を覗くと、着色された細胞核が「ぶちぶち」と10個ほどかたまりを成していた。10個の蓮の穴の、術中のイメージが蘇った。たちまち唾液が渋くなり、歯が浮いて今にも口の中で抜けてしまうような不快を覚えた。


 そして再び、「ぶちぶち」が勝代の生活を脅かし始めた。


 普段料理をしないのに、ブルーベリーは目の疲れにいいんだ、と言い、勝代を気遣って休日にパンケーキを焼く夫。美しいエプロン姿を見て、勝代は幸せを噛みしめる。いい香りがしてきて勝代がフライパンを覗くと、生地いっぱいに黒い「ぶちぶち」が浮いていた。生地の中からも小さい泡の「ぶちぶち」。悪いと思ったが、えづいて食べられなかった。


 食べやすいかもしれないと夫がもんじゃ焼きの店に連れて行ってくれた。ソースの匂いが食欲をそそる。野菜も不揃いのザク切りでありこれは行けるかと思ったが、あんの中に無数の「ぶちぶち」が浮いてきて、やはり申し訳なくも食べられなかった。


 夫は今度は百貨店で良いフルーツを買ってきた。季節じゃないから尚高いのに、見事なメロンだ。冷やして早速割ってみる。肉厚でジューシーで、みっしりと種がつまっている。うっ、となるが、我慢して、種を掻き出す。銀のスプーンだった。ずらりと並んだ種を、銀のスプーンで掻き出す。無数の種を、掻き出す。

 やっとの思いで掻き出した後には、種がおさまっていたであろう果肉に「ぶちぶち」と深い溝が列で刻まれ、種との繋がりが刈り取られたあとには糸状に突起した「ぶちぶち」が一面びっしりと並んでいた。


 勝代はついに夫の前でおえおえと吐きながら、号泣した。

 美しい夫が悲しげに途方にくれる。泣きながら、夫の手に余る自分を、勝代は責める。


「ぶちぶち」は加速し、生活に侵襲してくる。

 こんな年に限ってタピオカが流行る「ぶちぶち」。パン屋に寄れば生地に豆だらけの豆パン「ぶちぶちぶち」。シンクの排水口には多孔のくず受け「ぶちぶちぶちぶち」。菓子缶の蓋を開ければシートが「ぶちぶちぶちぶち」。通勤時には点字ブロックが「ぶちぶちぶちぶちぶち」。構内のレゴアートの突起が「ぶちぶちぶちぶちぶちぶち」。新しい靴底に貼る滑り止めのラバー「ぶちぶちぶちぶちぶちぶち」。見上げれば、もうそんな季節だったのか、ホワイトイルミネーションを形作る無数の粒々が、さえざえと明滅していた。


 おう、おえ、おえええ。


 イルミネーションが光る公園の、寒い公衆便所で、勝代は一人きりで嘔吐した。


 ◇


 そんな「ともづわり」も、満里が安定期に入るにつれ薄らいでいった。


 勝代は小康状態となると、まるで実姉妹のような距離で満里の子を楽しみにし、エコーや記録を見せてもらい、時には凝った手作りで満里が好みそうなおかずを持って来たりして、満里をはげました。

「勝代さん、人一倍忙しいのに、お料理も手がこんでて上手ですねぇ」「私、専業主婦になってもこんな上手に作れる自信ないです」満里の褒め言葉は、勝代の自尊心を立て直させた。

 仕事も、料理も、私の方ができる。

 私の方ができるのに、


 なぜ?


 ◇


 満里の家に、満期産で、まんまると玉のような女の子が産まれた。まどかと名付けられたその子を抱かせてもらうと思わず勝代の目に涙が滲んだ。「ちょ、勝代さん、うちのばあばと反応おんなじ。感動しすぎ」と満里が茶化してくる。あわてて円を満里に返し、早々に帰宅する。

 満里から円の成長写真を送ってもらっては、密かに待ち受けにする。かわいい。ああかわいい。いろいろものを贈ってやりたい。しかし、疎まれても悲しいので、最小限で我慢していた。


 ◇


 夫から、ある日厳重注意を受けた。

 満里さんの家への介入を今すぐやめなさい。

 先方は大変怖がっている。

 やめられないなら心療内科に行きなさい。


 私だけが?


 その問い返しに、夫は怪訝な表情をする。


 あなたは行かなくていいの?

 僕は、何もしていないよ。

 そうね、なんにも、なんにもしていないわね、あなたは。こうなったのは、私だけのせいなのね。

 君が手術をしてから情緒不安定なのはわかっていた。でも人様の家庭に入り込みすぎるのは良くないよ。

 私だけが悪いのね。

 今は取り乱しているんだ。少し休もう。君は理知的な女性だ。

 あなたは十人の子供達のことはどうでもいいのね。

 君の子供達は、僕のもうすぐ完成する新しい論文の大きなヒントになった。これは大きな波紋を呼ぶだろう。君の子供達は、死んでいない。歴史を変える論文の中に、生き続けるんだ。

「君の」子供達、なのね。もういいわ。安心して、満里とはもう連絡とらないから。しばらく一人にしてくださる。おやすみなさい。


 その後、夫からも勝代からも、夫婦生活は一切なくなった。


 ◇


 満里は育休を3年満期までとるという。とことん、めいっぱい享受する人だ。おかげでしばらく円に会えない。


「おおう、おおええ、えええ」

 聞き覚えのある音が職場のトイレから聞こえた。

 2年目の事務員だった。

「まだ、安定期じゃないので、内緒にしててほしいんですけど……」


 勝代の受容体は、待ち望んでいたように復活した。

「おう、おお、おえええ」

 再び身体細胞の全てが励起して、「ともづわり」をはじめる。


「ぶちぶち」が、また勝代をとらえはじめる。なめこの味噌汁。すりおろし皿。ゴアテックスのジャンパー。眼鏡を新調したらはっきり毛穴が見えるようになって鏡が見られない。夫が何か精神安定薬をもらってきて、勝代に飲むように言う。しかし、白くてぶちぶちした10錠のシートだったので、飲めなかった。


「おおう、おええ、おえええ」


 近くに妊婦が出るたびに、その兆しをキャッチし、勝代は「ともづわり」した。感度はますます研ぎ澄まされていた。勝代の身体は、隙あらばともに孕みたがっていた。一度、近くに妊婦がいないのに症状が現れたので何事かと思ったら、遠くに住む親友が懐妊していた、ということもあった。いつも遠方を含むだれかしらが妊娠していた。勝代はいつしかともづわりが、吐くことが、日常になった。パッと見、誰も懐妊していなくても、「ぶちぶち」を見れば気持ちが悪くなる。「ぶちぶち」を見て気持ちが悪くなる自分を確認すると、勝代はかえって安心するようになった。


 ◇


 妊娠ラッシュが少し落ち着いたころ。


 ついに勝代は永久冷凍保存してあったあれを取り出した。少子化対策に資する可能性のある物質として、研究対象にする勇気が出たのだ。


 ◇


 満里が、2人目を産んで、6年の育休をとって職場に戻ってきた。

 勝代がかつての非礼を謝ると、満里の方はもうそんなことは記憶の彼方らしく、よかったらまた家にも遊びにきてちょうだい、円も大きくなったのよ、下の子にも会いに来て、などと、のんきに言う。


 ええ、もちろん、頼まれなくても会いにいくわよ。


 ◇


 円はすっかり背が伸びて小学生かと思うほど大きかった。来年の春に小学生に上がるという。入学準備のためにそろえたであろう、色鉛筆や、丸が5つ集まって桜の形をしている磁石などが床に散乱していた。

「円、おかたづけして」満里が言うが、円は一向に意に介さず磁石を散らかして遊んでいる。満里は諦めて円が使っていない色鉛筆の方を大きな缶のペン立てに突っ込んでいく。「ケースに入れても、すぐ出してしまうものだから」満里は苦笑して、横で片付けている。


 ぶちっ


 ——うちなら、こんなだらしない子育てはしない。もっときちんと躾ける。

 勝代はそう言いたいのをかろうじて飲み込む。



 缶にまとめられた色鉛筆の後端の集合、二重丸の「ぶちぶち」。

 桜を模した5つの丸の磁石が、数十個集合した、「ぶちぶち」。

 よりによってこんなところで、「ぶちぶち」が、勝代を侵襲する。


 ぶちぶちぶちぶちっ


「円ちゃん。おばちゃん、ちょっとこのぶちぶちが、苦手なの。よかったら、見えないところにおかたづけしてくれると、おばちゃんたすかるわ」

 円が、初めて見る客人にも物怖じしない様子で尋ねてくる。

「おばちゃん、ぶちぶち、にがてなの?」

「うん。苦手なの」

 それを聞いた円が、にやりと不敵な笑いを浮かべた。


「イェーイ! ぶちぶち、ぶちぶち〜!」

 磁石の群れを、つかんで勝代に投げつけはじめ、ふざける円。


 ぶちぶちぶちぶちっ


「やめなさい、やめなさい円!!」満里があわてて止めるが、円は高揚してしまって止まらない。「へーんだ。ぶちぶち〜、ぶちぶち〜! おばちゃん、かかってこいやあ。ぶちぶちだぞ〜、ばあばからももらったからもっとあるぞ〜、それえっ」


 頭から降りかかる、無数のぶちぶち。


 せっかく生まれてきたのに、

 こんな子に、誰がした


 ぶちっ ぶちっ

 ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちっ


 下の子も、寄ってきて真似しだす。

 ぶちぶちぶちぶちっ


「ごめんなさいね、勝代さん」「ちょっとあんたぁ、円と翔を外で遊ばせといて!」

 ガタイの良い夫が、「すみませんね」と二人の子を担いでいった。

 育児に協力的な夫。

 ぶちっ


 落ち着いてようやく、満里とお茶できる時間ができた。

「うちの旦那、ああ見えて子供好きでね」

 ぶちっ

「円がちょっと、見ての通り手がかかるもんだから、私は3人目はいいよといってるんだけどね、旦那は産める限り産んでほしいっていうのよ。身体持たないよね。でも、旦那が3人目3人目ってうるさいの。双子でもいいって聞かなくて。私は、せっかくの専門職キャリアを捨てたくないんだけどね」

 ぶちぶちぶちぶちっ


「もう、何人産ませれば気がすむのよー! って、私が聞いたらね、なんと、10人ですって。自分も入れて、サッカーチーム作りたいなんて、大昔じゃあるまいしほんと考えることアホだよねえ」


 ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちっ


 勝代は、嵐が過ぎ去った後の明鏡止水の境地で、静かに切り出した。

「満里さん、実はね、とっておきの差し入れを今日持ってきたのよ」

「勝代さんのお料理、久しぶり! え、すごいいい香りする。なあに?」


「魚の粕漬け焼き」


 満里が驚く。

「勝代さん、すごい! うちじゃ絶対作らない! 流石、料理する人のチョイスね〜」

「この粕ね、深くていいお味で、めったに手に入らないのよ。ご主人と一緒に召し上がってね。10人産めるように、精をつけてね」

「やだわあ、勝代さん。精をつけるなんて。でもほんとに元気になりそう。ありがとう、いただくわ〜」


 円が一足先に帰ってきた。

「おいしそう〜!」手も洗わずに、勝代の持ってきたおかずに手を出そうとする。

「ダメ」

 満里が円の手の甲をぴしゃりと叩く。

 ぶちっ


 勝代は、円ににっこり微笑んで言う。

「円ちゃんには、お酒はまだ早いから、冷たい甘酒をこしらえてみたのよ」

 持参したサーモスの水筒から、円のグラスに注いでやると、円は礼も言わずにあっという間に飲み干した。

「おばちゃん! おいしい! もっとちょうだい!」勝代は、空になるまで注いでやる。円は、次々と飲み干す。

「よかったら、満里さんもつままない?」

 満里もさっきから酒精の香りにかなり惹かれていたらしく、「わぁ、いいんですか? いただきます」「おいしい、おいしい」食べ始めた満里は、止まらない。


 勝代は、満足そうに円と満里を眺める。






 10人子供がほしいんでしょう?

 ともに見ましょうよ。

 私の見た、「ぶちぶち」を。





 ともに、孕め。


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ぶち 和泉眞弓 @izumimayumi

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