本
「どうぞご遠慮なく」
絵梨はそう言うと、さっきコンビニで買った缶ビールを差し出した。龍村は「じゃ、いただきます」と軽く頭を下げて受け取ると、すぐに口をつけて勢いよく飲んだ。
「はあ、これは格別だな。富谷さんの言う通りだ」
「でしょ?ここでビール飲んでほしくて、わざわざ案内してるようなもんだから」
十月の晴れた午後。波打ち際では龍村の妻と幼い息子が、お城らしきものを作っていて、あとは少し離れた場所に、運動部の練習なのか、スタートダッシュを繰り返している男子学生が六、七人いるだけだ。
廃材で作られたベンチに腰をおろし、穏やかな日差しに包まれていると、風にまじって口笛のような、鳶の鳴き声が聞こえてくる。
絵梨はかぶっていた帽子のつばを軽く折り上げると、バッグからジャスミン茶のペットボトルを取り出して一口飲んだ。
「奥さん、もうすっかり元気みたいね」
「まあねえ、こういう遊びには子供並みに夢中になるから。そのうち、チビより先に海にはまって、ケツ濡れたーって、半泣きで戻ってきたりするんだよ」
「やめてよ」
絵梨は声をあげて笑った。
「本当にそうなんだって。今までにどれだけそんな事が起きたか、言っても信じないだろうけど」
龍村は苦笑いして、またビールを飲む。言葉とはうらはらに、妻と子に向けられた彼の眼は限りなく優しい。
彼の妻は流産がきっかけで心を病み、去年の暮れから夏の終わりまでを病院で過ごしていた。ようやく退院した今、辛い記憶のある住まいで、また同じ季節を迎えることに不安を抱えていて、いっそ環境を変えるという選択も考え、彼らはこの町を訪れたのだった。
「毎日こんな天気なら、すぐにでも引っ越そうかって思うんだけどなあ」
「残念ながら、雨の日も風の日もあるわよ」
「台風も来るよね」
「それに都心からは少し遠い」
「まあそれは、通勤してるわけじゃないからいいんだけど」
龍村はフリーのライターで、以前は佐野と同じ事務所にいた。事務所ができたばかりの頃は、一番仕事がなくて暇だから、という理由で代表を務めていたが、今は妻子を養えるぐらいの収入はあるのだろう。
「でもさ、生活を変えることじたいが負担になったら意味ないんだよね。引っ越しの荷造りだとか何だとか」
「だったら、ちょっと高くつくかもしれないけど、都内の家はそのままで、期間限定でこっちに住んでみたら?最近はこの辺にも、家具やキッチン用品つきのウイークリーマンションができてるのよ。夏場のお客が目当てだから、これからの季節は少し安くなると思うわ」
「なんか、だんだんとその気になってしまうな」
「でしょ?私、友達とか四組も紹介して全員成約させちゃったから、不動産屋からも重宝されてるの」
絵梨はそう言って笑うと、スニーカーの爪先で砂を軽く蹴った。龍村はまた少しビールを飲み、「そもそも、富谷さんはどうしてここに移ることにしたの?」と尋ねる。
「私?まあ、ありがちなところで、街なかに住むのが急に嫌になったの。変よね、都内で生まれ育ってるのに」
「花粉症みたいなもんかな。ある日突然コップがあふれて、もう都会暮らしは無理!なんてさ」
「かもしれないけど、一番大きな理由はたぶん、佐野くんがあんなふうに亡くなったせいだと思う」
他の誰にも言ったことはなかったけれど、佐野をよく知る龍村には話したほうがいいような気がして、絵梨は敢えて淡々と告げた。
「私は最初、ものすごく腹が立ったのよ」
「腹が立った?」
「そう。だって彼が亡くなったって連絡受けたとき、仕事で高知の山奥にいたんだもの。大雨が続いて一歩も動けなかったの。そんな状態でさ、薬飲んで自殺しただの、次の日にお姉さんと会う約束してただの聞かされて、はらわたが煮えくり返ったわ。何よそれ。そんなに気楽に、いつもの調子で「お先に失礼」なの?って」
話すうちに、あの時のやり場のない怒りが甦るような気がしてくる。絵梨は自分を落ち着かせるため、わざとそっけない口調で「龍村くんはお葬式に行ったのよね、札幌まで」と言った。
「うん。解散はしたけど、同じ事務所の代表としてね」
「私はさ、お葬式なんて行ってやるもんかと思ってた。実際は日程的に無理だったんだけど。だからさ、後から東京であったお別れの会にも、不参加のつもりだったの。でも、お宅の事務所の葉山さんに、来なくちゃ駄目って言われたのよね。彼女には仕事の上で色々とお世話になってるから、断れなくて。でも結局、途中で帰っちゃった」
「たしか、親知らず抜いたばっかりで、体調悪いって言ってたよね」
「そんなの嘘に決まってるじゃない。私あの日、初めて由香里さんに会ったの」
「びっくりしただろ?綺麗すぎて」
「まあ、写真は見せてもらった事があったけど、確かに驚いたわよね。でも私、彼女にも腹を立ててたの。本当はその少し前に彼女から、渡したいものがあるって連絡もらってたんだけど、都合がつかないって断ってた。で、ようやく会ったっていうのに、どうも、みたいな感じで、ろくすっぽ目も合わせないで」
「でも、どうして由香里さんに腹が立つの?」
「わっかんない。佐野くんに似すぎてたからじゃない?八つ当たりって奴。男の人なら、あんな美人にそんな失礼な事ないでしょうけど」
「俺はお葬式の時に会ってたけど、とにかく圧倒されちゃったよね。あの人がお姉さんだったら、学校も仕事も行かないで、彼女の靴でも磨いて毎日暮らすだろうな」
龍村は軽く溜息をつき、空になったビールの缶を掌で弄んだ。
「それでね、お別れの会から半月ほどして、葉山さんから呼び出されたの。行ってみたら、由香里さんから預かり物があるって。騙し討ちみたいなもんよね。でもまあ、葉山さんも板挟みで困ってるだろうから、しぶしぶ受け取ったの。そしたら実は、由香里さんじゃなくて、佐野くんからだった」
「何だったの?」
「本よ。宮沢賢治の童話集。私はとにかく本を読まない子供だったから、そんなのも読んだことなかったけど、佐野くんにとって、それがどういうものなのかは知ってた。昔、お母さんに読んであげてたんだって」
「彼のお母さんって、わりと早くに亡くなってたよね」
「うん。小学校三年生の時よ」
そして絵梨は少し黙った。波の砕ける音に混じって、龍村の息子のはしゃぐ声が切れ切れに聞こえてくる。
「それで私、また腹が立ったの。こういう大切なものを、私に持たせるってどういうつもり?ってさ」
「由香里さんに?」
「ううん、佐野くんに。ややこしいのよ。で、由香里さんに電話して、すぐに本を返したいって伝えたんだけど、弟の遺言だから受け取ってほしい、いらなければ処分してもらって構わないって言われたの。おまけに、ご迷惑をおかけしてすみません、なんて謝られちゃってさあ。仕方ないから本棚に立てておいたの。でも、その本を受け取ってから、変なことが起きて」
「変なこと?」
「全然眠れなくなった。すごく疲れてる時でも、寝てもすぐに目が覚めるの」
「それで?」
「大体は、お酒飲んで寝直す」
「でもさ、酒飲んで寝ると、結局また目が覚めない?」
「そうなのよ。仕方ないから朝までネット見たり、音楽聴いたり。幸いというか、地方での仕事が多い時期だったから、とにかく外で泊ったわ。日帰りができる時でも。そうすると少しは眠れるのよ。出費はかさんだけど」
「病院とか行かなかったの?」
「行かない。別に病気じゃないって思ってたし。ただ眠れないだけだもん。お酒飲めば何とかなるし。精神的な不調って、そんな感じじゃない?」
「うん。うちの奥さんの時はそれで失敗した。もっと早く医者に見せてたら、あんなに辛い思いさせずにすんだのに」
龍村はビールの缶を握りつぶすと、足元に置いた。
「まあそんな感じで私も、病院には行かずに、ひと月以上うだうだしてたのよ。でもある日、例によってお酒飲んで寝て、また目が覚めて、ああ畜生、なんて感じで寝返りうったら、本棚の宮沢賢治童話集と目が合ったの」
「本と目が合った」
「そうとしか言いようがないわ。で、じーっと背表紙を見ながら、いま電話で佐野くんのこと呼び出して、私にこの本読んで聞かせてって言ったら、来てくれるかなって考えたの」
「本気で?」
「ええ。でもすぐに気がついた。彼はもういないんだって。まず最初に、ああ残念って思って、それから、私の周囲に立ち込めていた怒りが、霧が晴れるようにして消えていった。
本当のところ、私はそれまでずっと、怒ることで自分を守っていたのよね。よく考えたら、いつもの行動パターンなのよ。子供の頃から」
「まあ、そういう人いるよなあ」
「怒りが消え去って、残ったのは後悔だけよ。私はあれやこれや、佐野くんに色んなわがまま言って、彼は何だってきいてくれたわ。でも彼がたった一つだけ頼んできたことを、私はその場で断ったのよ。
どうしてもっとましな答え方をしなかったんだろう。少し考えさせてとか、そんな風に答えてたら、何か違ってたんじゃないかって、もう叫びたい気持ちで私はその本を手に取った。そして思ったの、とりあえず、とりあえず佐野くんにこの本を読んであげようって」
絵梨は呼吸を整えるように、長い溜息をついた。
「でも、いざ声を出してみると吐きそうになった。単にお酒のせいかもしれないけど、部屋中が自分だらけって感じがして、頭が痛くなって、胸がむかついて、我慢できなかったの。それで仕方なく、黙って本を読んだわ。「どんぐりとやまねこ」から始まって「よだかのほし」で終わる童話集を。朝までかかって、全部」
「そうなんだ」
「次の日から私は、声に出してこの本を読むのにふさわしい場所を探したんだけど、どこもかしこも人や建物でいっぱいで、ざわついてて、駄目だった。でも家だとやっぱり自分が充満してて、ひどく気分が悪くなるのよ。
仕方ないから車を借りて、この浜辺まで遠出したの。ずっと前に佐野くんと遊びに来たことがあったのよね、例のマセラティで。のんびり散歩したのがいい思い出になってたから、もう一度歩いてみようと思って。
道が混んでたから、着いたのは午後遅くだったけど、私はあそこの桟橋で、海に向かって腰掛けて、初めて大声出して本を読んだわ。秋も終わって、もう冬ですって季節で、風もかなり冷たかったけど、別に辛くはなかった。
そして暗くなって字が読めなくなるまで,ずっとずっと朗読して、その夜は駅前のビジネスホテルに泊った。本当に久しぶりにぐっすり眠ったわ。で、次の朝に不動産屋に行って、今住んでる家を見つけて契約したの」
「すごい決断力だね」
「あんまり突然に引越したもんだから、失踪したと思った友達もいたぐらい。まあ、龍村くんもそうだけど、勤め人じゃないからできた事よ。私には養う家族もいないし。そして、仕事のない時は、朝でも夕方でも昼でも、とにかくここに来て宮沢賢治を朗読した。人からはたぶん、売れない劇団員とか、そういう人だと思われてたんじゃないかな。「朗読女」とか、子供に呼ばれてたかもしれない。でもそんなの構ってる場合じゃなかったのよ。そうしてないと頭が変になりそうだったから」
「富谷さんなりの解決策だったのかな」
「そうかも。で、本当に何度も繰り返し朗読して、ある日ようやく、私は心の準備ができたと思った」
「心の準備?」
「うん。佐野くんに頼まれて、一度は断った事を、やっぱり引きうけようと思ったのよ。最初に私が断ったのは、自分を守りたかったからなのね。軽蔑されたくないとか、嫌われたくないとか、そういう理由であって、佐野くんの事なんか少しも考えてなかったの」
「差し支えなければ、どういう事を頼まれたのか、聞かせてくれる?」
龍村の声には、少しだけ怯えたような響きがあった。彼は彼なりに、佐野の死に責任を感じてきたのかもしれない。
「プライベートな事だから、詳しくは言えないわ」
「そうか」
「それでね、頼まれた事を実行するために、私は由香里さんに会ったの。佐野くんが亡くなってから、半年近く経ってた。彼女に一生嫌われて、軽蔑されるかもしれないけれど、その位のことは引き受ける覚悟ができてた。
前に会った時に比べると、彼女は少し元気そうになってて、私はちょっとだけ安心したわ。はじめは互いに近況報告なんかして、それから本題に入るつもりだったんだけど、そこで思いがけず、私は自分の求めていた答えを手に入れてしまったの」
「答えって、頼まれ事の?」
「そう。私がぐるぐると迷路を回ってる間に、ものごとは少しずつ動いてて、答えが出ていたのよ。ああそうかって、私は思った。やっぱり佐野くんって優しい人だわ。私にそういう、ちょっときついこと、させずにおいてくれたんだから。でもその一方で思ったの、彼って時々そんな風に優しすぎて、だから嫌いになりそう」
絵梨は言葉を切ると、頬に一筋だけ流れた涙を指先で拭った。
隣に座る龍村は、何も言わずに波打ち際を見つめている。彼には絵梨とはまた違った、佐野との思い出がたくさんあるだろうし、彼なりの悲しみがあるはずだ。
その場の空気を変えたくなって、絵梨はつとめて明るい調子で「そういえばこないだ、珍しい人に会ったわよ」と言った。
龍村も軽く「誰?珍しい人って」と聞き返す。
「赤井くん。私さ、ずっとR大附属病院の整形外科にかかってるんだけど、半年ぶりに検診に行って、支払い済ませてたら、館内放送の真似して、富谷絵梨さーん、まだ富谷さんのままですか?なんて声かけてきたのよ。そのちょっと前に、書類の手違いで私の名前が呼ばれたのを聞いてたのかもね」
「相変わらず、失礼な事を平気でしてるんだな」
「しかも何だか憎めない。私も普通に、そっちこそ、まだ時効になってないはずだけど、こんな場所うろついてて捕まらないの?って聞いてやったわ。そしたら、一時帰国してるだけだもんね、なんてさ、どうもまだ外国にいるみたい。
誰にきいたんだか、色んな人のこともかなり詳しく知ってて、龍村くんの奥さんは具合どうなの?なんて事まで言うから、本人にちゃんと連絡とりなさいよって言ってやったわ」
「連絡なんて、もらってないけどね」
「だと思った。別に元気みたいよって言っておいたら、なんだそっかあ、心配しちゃうよね、なんて。それがまた本気に聞こえるから不思議なのよ」
「彼はさ、俺たちが考えてる意味での善悪なんて、気にかけてないんだ。ある意味ですごく子供」
「へえ、割り切ってるのね」
「まあ、それが判るほどにはつきあったつもり」
「そうなの。まあそれで、東京うろついてる暇があるなら、佐野くんのお墓参りぐらい行きなさいよって、嫌味言ってやったら、昨日行ってきたとこ、ついでにススキノで思い切り遊んで来ちゃった、なんてさ」
絵梨は大げさに肩をすくめて龍村の方を向いた。彼は呆れた顔つきで「赤井らしい」とだけ呟いた。
「それでさ、ねえねえ、佐野絵梨っていい名前だと思ったことない?なんて言うのよ。だから私、赤井絵梨よりはずっとマシかもねって言い返したら、にやっと笑って、元気でね!って逃げてったわ」
「はあ、目に浮かぶよ」
そう言ってから、龍村は軽く手を振った。その視線の先、波打ち際では、幼い息子が飛び跳ねるようにして両手を振っている。
彼はそして、やや言い難そうに「実はさ、俺も少しだけ、佐野は富谷さんと結婚するんじゃないかと思ったことがある」と言った。
「冗談じゃない」と即座に否定して、絵梨は「どうしてそんな事思ったわけ?」と訊ねた。
「佐野と仲の良い女の子は大勢いたけど、富谷さんはそう仲が良さそうには見えなかったんだよね。でもそれは、わざわざ仲良くしなくても、お互いのことを本当によく判ってるからじゃないかなって。まあ勝手な想像だけど」
そんな風に見えていたわけか。口には出さず、絵梨は風に折られた帽子のつばをもう一度折り上げた。
「ビール、もう一本どう?」
「いや、もう十分堪能したよ、ありがとう」
「じゃあ、ちょっと不動産屋、行ってみましょうか」
絵梨がバッグを肩にかけてベンチを立つと、龍村も足元の空き缶を拾って立ち上がり、妻と子のいる方へと歩き出した。柔らかな砂に沈み込んで、後を追う絵梨の足元はふらついたが、龍村は気づくことなく大股に歩いて行く。
ゆっくりと姿勢を立て直しながら、いいのだ、と絵梨は思う。ここで自分に腕を差し出す男など、優し過ぎて嫌いになるだけだから。
キャラメル 双峰祥子 @nyanpokorin
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