桜
「はい、これお土産。お父さんから」
駅の改札から出てくるなり、姪の美那は手にしていたペーパーバッグを差し出した。その後ろには、また縦にだけ大きくなった甥の剛が、照れたような笑顔で立っている。
「絵梨ちゃんはこれ食べてたら機嫌がいいから、だってさ」
「まあそりゃ、好物だからね。ありがとう」
絵梨はそう言って受け取り、駐車場へと歩き始めた。ペーパーバッグの中味はいつだって同じ、実家の近くにあるケーキ屋のフィナンシェとマカロンだ。彼女がまだ小学生だった頃からある小さな店で、誕生日やクリスマス、入学祝い、何かあればここのケーキを食べるのが家族のきまりのようになっていた。
しかし確かに、二十代の頃はケーキの二つや三つ平気で食べられたけれど、四十近くにもなるとそんな勢いはない。ただ、兄にとっての自分は未だに洋菓子を次々と平らげる女の子らしくて、それを否定するのも何だか違うなという気がするのだった。
「先に買い物するから、つきあってね」
心配していた台風もそれて、九月も半ば過ぎだというのに真夏のような日差しだ。美那と剛は口々に「これだけ暑かったら、まだ泳げるかな?」「水族館は明日行く?」と質問しながら絵梨の後をついてくる。
「帰ったらまずお昼にしようか。それで、夜は友達の家でバーベキューだから、午後は持って行く料理の準備。それから時間があれば、少し浜を散歩しましょう」
「じゃあ、水族館は明日だね」
「まだあさってもあるし」
少し離れただけなのに、停めていた車の中はまるでサウナだ。いつも通り、美那が助手席で、剛は荷物と一緒に後ろ。窓を全開にして、絵梨は駐車場から車を出した。
「お父さんたち、今どこにいるの?」
「昨日の夜はオーストラリアだった」と美那が答えると、即座に剛が「オーストリア!」と訂正した。
「美那って本当にカタカナ弱いんだ」
「いいじゃん別に。でさ、今日からスイスに三日いて、あとはフランスに行って、パリから帰ってくるの」
「アルプスで氷河見るんだよ」
「ヨーロッパって九月になると、かなり涼しいんだって」
「あったり前じゃん。緯度、北海道と同じぐらいなんだぞ」
「知ってるって」
兄夫婦の行程については事前に知らされていたけれど、子供たちの口から聞くとまた違った感じがする。
「オーストリア、スイス、フランスか。まさに周遊ね」
「お母さん、ずっと夢だったんだって。新婚旅行は、私がお腹にいて行けなかったからね」
美那は自分がいわゆる「デキ婚」で生まれたという事について全く屈託がない。そんなところが兄を思い出させた。
「お父さんが送ってきた写真、後で見せてあげるね。お料理の写真とかもあるから」
「でも、絵梨ちゃんはヨーロッパ行ったことあるから、別に珍しくないよ」
「撮った場所が日本でも外国でも、他の人の写真って面白いわよ。こういうところ見てるんだ、って、発見があるから」
連休のせいで道は少し混んでいるが、それでも真夏に比べると、海辺の町は随分と寂しくなった。突き抜けるように青く澄んだ空も、どこか冷たい色を帯びている。駅からの細い道を抜けて県道へ出ると、「海の匂いがする!」と美那がはしゃいだ声をあげた。
あと十日ほどで十六歳になる、血のつながらない姪。彼女の誕生がきっかけで家を出たことを思うと、あれからの年月はまるで夢の中のように、一瞬で過ぎ去った気がする。
「あと五分だけ待ってね」
佐野は絵梨に声をかけると、カウンターの向こうにある事務所へ入り、スーツ姿の男性職員と言葉を交わした。絵梨はロビーのベンチに腰掛けたまま、あらためて周囲を見回す。
彼が週に二回教えているデザイン系の専門学校。でも正確には教えていた、で、四月からは休職するという。今日は引き継ぎ関係の用があるらしく、絵梨はこうして待っているのだった。
時刻は六時前で、これから社会人向けの夜間クラスが始まる。隣のベンチに座っているOLらしい女性は、自動販売機で買ったコーヒーを片手に、シリアルバーを齧りながらテキストに目を通している。かと思えば昼間のクラスの女子生徒が四人、名残惜しそうに掲示板の前でたむろしている。
切れ切れに、どうする?私はいいけど?じゃあ一緒に行く?といった、海の生き物の臆病な触手を思わせるやりとりが聞こえてくる。近づきたい、でもぶつかりたくない、なのに触れ合いたい。
あの年頃の自分にもあった、そんな気持ちは、今どこにあるんだろう。ぼんやり考えていると、「お待たせ」と声がして、見上げると佐野が立っていた。
「もう用は済んだの?」
絵梨も立ち上がり、傍らに置いていたバッグを肩にかける。
「まあね。これでとりあえず、この学校ともしばらくお別れ」
「でも、また戻るんでしょ?」
「空きがあればね」
二人して玄関に向かうと、たむろしていた女子生徒が声をかけてきた。
「佐野せんせーい、私も先生が帰ってくるまで一年休学しようかな」
「入れ違いで卒業なんて、つまんない」
佐野はとびきりの笑顔を浮かべ、「もしかしたら、後期に代講で来るかもしれないよ」と答えた。
「だったら代講じゃなくてチェンジチェンジ!水田先生と交代して!」
「それがいい!あの先生、課題出さなかった時が怖すぎるもん」
笑いさざめく少女たちに「だったらちゃんと課題出して。しっかり勉強してね」とエールを送り、佐野は軽く手を振る。絵梨は彼女たちが自分を値踏みする視線をやり過ごして、夕暮れの街に足を踏み出した。
「佐野先生、あんなに生徒に好かれてるのに、どうして休職しちゃうんですか?」
絵梨のわざとらしい質問にも、彼はいつもの調子で答える。
「言ったじゃない、少し充電したいって」
「学校以外の仕事はどうするの?」
「全部、ひと区切りつけてある」
「そして心置きなく、半年間ヨーロッパ旅行か」
「正確には四ヶ月ほどだけどね」
「羨ましいわ」
あちこちのビルから仕事を終えた人々が出てきて、最寄りの駅へと流れを作っている。佐野は「こっちを通ろうか」と、裏道に絵梨を導いた。流れを乱さないペースで歩こうとすると人を避けるのが難しくなる彼女には、静かな裏道は気が休まる。
「ねえ、絵梨ちゃんも半月ほど合流しない?」
「え?向こうで?」
「そう。六月なんかどうかな、気候もいいし。僕はその頃たぶん南仏あたりにいる」
絵梨は少しだけ、初夏の南仏でオープンエアのカフェに座り、呆れるほどに長い黄昏を過ごしている自分を想像してみた。
「うわあ、本気で行きたい。でも無理なんだよね。実はさ、七月に外国での仕事が決まったところなの。どこだと思う?」
「という事は、ヨーロッパではないんだよね」
「国でいうとヨーロッパなのかな?樺太よ。サハリン」
「本当に?」
言われた絵梨の方が驚くほど、佐野は大きな声を上げて立ち止まった。
「サハリンか。僕の方が合流したいくらい」
「そう?まあ、ある意味で故郷だもんね」
絵梨が一歩踏み出すと、彼も再び歩きだす。
「前に台湾で仕事があってね、日本の植民地時代の家を撮影したんだけど、その流れで、今度はサハリンどうですかって話になったの。二つ返事でOKしちゃったんだけど、調べてみたら、けっこう大変なところらしくて、実はかなりビビッてるの。まあ、現地のコーディネーターもいるし、一人ではないけれど」
「大丈夫、絵梨ちゃんならきっとできるよ」
「あっさり言うけどさ、相当不便なところらしいじゃない。治安もあんまり良くないらしいし」
「そういう話もあるね。で、今日のお誘いはその事?」
「ううん、また別の話。仕事はさ、どれだけ心配でも不安でも絶対にやるわ」
「だよね。やっぱり絵梨ちゃんは強いから」
「うちは肉と飲み物以外の担当なの。野菜とか、果物とか」
とりあえず書き出しておいたメモを見ながら、絵梨は売り場の配置を確かめた。
半年前にできた、この街で一番大きなスーパーマーケット。普段は近所の小さな店で十分だが、イベントの時にはやはり、こういう店の品揃えが心強い。
絵梨と美那は並んで歩き、剛はカートを押して後からついて来る。
「僕、しいたけ嫌いだからね。あの匂い、最低」
「出た!剛のわがまま攻撃。嫌いなら食べなきゃいいだけの話じゃん」
「だから、食べなくても匂いがしてくるのが嫌なの。あと、オクラも嫌い」
「オクラはバーベキューに使わないから」
美那と剛の喧嘩漫才のような会話は途切れることがない。
「あ、レンコンだ。うちのお母さん、バーベキューにレンコンも使うよ。先にレンジでチンしとくの。バターで焼くとおいしいんだ」
美那はそう言って新物のレンコンを手に取った。
「へえ、じゃあやってみようか。かぼちゃの薄切りもいいよね」
「僕、かぼちゃも嫌い」
「だから、食べなきゃいいじゃない」
「二人とも、買い物に来ればいつもこの調子なの?」
「ていうか、お母さんと買い物なんか行かない」
「美那も?」
「うーん。お母さんは仕事があるから、買い物は週末にまとめてするの。でも私は土日はクラブと塾で忙しいし、結局お父さんが運転手でつきあってる」
「優しいね、お父さんは」
いつの間にか先に立ってカートを押す剛の背中を見ながら、絵梨は美那と並んで歩いた。そして束の間思い出す、兄と二人だけの生活になり、怪我のせいで外出が億劫だった頃のことを。
兄はよくそんな彼女を誘ってスーパーへ出かけた。のんびりとカートを押す彼の傍で、病院食の方がおいしかったとか、どこのメーカーのカレーも食べ飽きたとか、たまにはカウンターで寿司が食べたいとか、憎まれ口ばっかりきいていた自分の幼さが少しだけ懐かしい。
そして今では、兄と結婚して休みの日には一緒に買い物に出かける、などという夢想をしなくなった自分がいる。兄が義姉と仲良く買い物に行くと聞いて、心が波立たなくなったのはいつからだろう。
「今日呼び出したのはさ、ちょっと愚痴らせてもらおうと思って」
絵梨はそう言って貝柱のカルパッチョ仕立てを食べ、白ワインをまた一口飲んだ。小さな店のカウンターには彼女と佐野だけで、無人のテーブル席には「予約席」のプレートが置かれている。
「絵梨ちゃんからお誘いがあるだけでも珍しいのに、愚痴とは更に珍しい」
佐野は大げさに驚いて、グラスを口に運ぶ。
「何かさ、女友達に話してもうまく伝わらない気がしたの。でも佐野くんはとりあえず私の話は聞いてくれるじゃない。説教もしないし」
「説教できるほど立派な人間じゃないもの。話って、お兄さんの事だったりする?」
「違う。母親なの」
「絵梨ちゃんの、実のお母さん?」
「そう。辻井徳子、五十九歳」
「年は別にいいけどさ」と、佐野は当惑気味の笑みを浮かべたが、絵梨はそれくらい他人行儀に話をしたかった。
「ずっと、年賀状のやりとりぐらいはあったんだけど、先月いきなり、ちょっと会いたいって連絡がきて。いったい何年ぶりだか」
「それで、会ったの?」
「うん。お昼をごちそうしてもらったわ。もう顔忘れてるんじゃないかと思ってたけど、やっぱり親子ね、待ち合わせしててもすぐに判っちゃった」
「お母さん、元気にしてた?」
「そうね、ちょっと太り気味。で、最近どうしてるなんて話してたんだけど、用もなく会おうなんて言うはずないし、こっちから水を向けたら、相続の話だった。
徳子さんは両親、つまり私にとっての祖父母から家と土地を相続してるの。埼玉で、ずっと人に貸してたんだけど、こんどその家に自分たち夫婦が住んで、敷地に娘夫婦の家を新築することになったらしくて」
「絵梨ちゃん、妹さんがいるんだ」
「それがなんと、二人も。上は結婚してて、二つになる女の子がいるの。下はまだ大学生。会ったことないけどね。で、問題の家と土地なんだけど、徳子さんが亡くなった場合、彼女の今の旦那さんと、私も含めた娘三人が相続する権利を持ってるの。でも、徳子さんは私以外の娘二人に相続させたいわけ」
「なるほど。で、絵梨ちゃんの意見は?」
「別にどうでも。私はそんな不動産があることじたい知らなかったし、家は妹夫婦が建てるんだから、頑張って下さいって感じで、相続放棄OKしちゃった。まあ、実務的な話は司法書士さんから連絡があるらしいわ」
そこへ焼きあがったピザが出されたので、話はしばらく途切れた。溶けたチーズとバジルの香りが食欲をそそる。二人はフォークも使わずに、熱く、脆い一切れを手づかみで口に運んだ。
「焼きたてのピザを食べるのを保留にするほど重要な話って、そんなにないわよね」
最後の一切れを頬張ってから、絵梨は指先を拭い、ワインを飲んだ。
「たまにそれでも話に夢中な人がいて、そういうの見ると、早くしないと冷めるじゃないって、気が気じゃないの」
「世の中は冷めたピザが平気な人と、そうじゃない人に二分されるのかな」
「徳子さんは平気な人の方かもね。茶碗蒸しが冷めても平気でしゃべってたから」
「お母さんには、それだけ重要な話だったんだろうね」
「どうかしら。旦那さんの年金が少ないだとか、妹夫婦の収入じゃ家を建てるのが精一杯とか、二人目がもうお腹にいるとか、下の妹は大学院に進みたがってるとか、そんな話だったけど。私は熱々の茶碗蒸し食べながら聞いてたの」
「ちょっと複雑な心境だった?」
「別に。ここの茶碗蒸し、おいしいな、なんて思ってた」
「でも、愚痴りたいんだ」
佐野は軽く目配せをして、続いて出されたショートパスタを取り分けてくれた。
「そこが我ながら不思議でもあるんだけど、変な気分になったのは家に帰ってからよ。お風呂に入ってぼんやりしてたらさ、昼間のあれ、一体何だったんだろうって。
徳子さんとか、妹たちとか、家とか、土地とか。それまで自分にとってはっきり存在していなかったものが、一瞬現れて、すぐに消えたような気がしたの。残ったのはマイナスって感じだけだったのよ」
「なるほど」
「私が相続放棄をOKしたら、徳子さん急に安心したみたいでさ、自分たちの近況とか、色々と話してくれたわ。で、妹たちの写真まで出てきて、これがまたけっこう私と似てるの」
「じゃあ絵梨ちゃんって、お母さん似なのかな」
「確かに、身勝手なところはすごく似てると思う。それでさ、上の妹が子供抱いてる写真なんてのもあってね、私にとって甥姪ってお兄ちゃんの子だけだと思ってたんだけど、よく考えたらこっちの方が血縁関係なのよ。まあ、そういう事全てが、ぱっと現れて、また消えたの」
「でも、消えてないっていうか、これをきっかけに行き来するという選択もあるんじゃない?」
「向こうにその気があるなら、司法書士から連絡させたりしないと思う。こっちも別につきあいは望んでないし。ただ少しだけね、私にもし別の人生があったとしたなら、それはどこで消えたんだろうって、そう思ったの」
「実のお母さんに育てられた人生?」
「そう。私これまで、徳子さんにはけっこう感謝してたのよ。だって普通、子供がまだ小さいのに離婚するとなったら母親が親権とるじゃない。なのに父親に譲ってくれて。まあどういう事情だか未だに知らないけどさ。おかげさまで私はお兄ちゃんと一緒に暮らせるようになった。
でも、もし徳子さんに引き取られてて、大きくなってからお兄ちゃんと知り合っていたらどうだったかしら、なんてね。少なくとも父の再婚相手の息子って接点は生じるじゃない」
「そして恋に落ちて結婚する」
「万が一にもそういう可能性はないって、判ってるんだけど。私ってお兄ちゃんのタイプじゃないし。でもこんな話を女友達にしても、お母さんだって色々あったのよ、とかさ、絵梨ちゃんの潜在的な結婚出産願望じゃない?とか、もっと素直にお母さんに甘えれば?とか、そんな事言われそうだし」
「なるほど」
佐野は相槌だけうってワインを飲んだ。彼も含めて、絵梨は自分と寝たことのある男には子供を産めないことを話していたが、大人になってから知り合った女友達には、余計な気遣いをさせるのが嫌で黙っていた。
「実際は事故が大きな節目だったのに、何故だかもうずっと昔に、私の人生のポイント切り替えは完了してたように思うのよ。でもね、あの日だけ、私は蜃気楼みたいなものを見ちゃったのよね。そして」
そして、何だろう。
絵梨はふと黙って、空になったショートパスタの皿を見た。この話だって、パスタを食べながらできるほどだから、別に大した問題じゃないのかもしれない。
「まあ、そういう事」続きは口にせず、彼女は話を終わらせた。
「これが本日の、私の愚痴の全て」
「別に愚痴ってほどでもないな。絵梨ちゃん、それで、本当におごってくれるの?」
「約束したじゃない。私、デザートはクリームブリュレと苺のソルベにするけど、何がいい?」
「じゃあチョコレートケーキ」と言って、佐野はワインの残りを飲み干した。絵梨はデザートのオーダーを入れてから、「ねえ、佐野くんのお母さんてどんな人だった?」と訊ねた。
「あんまり憶えてないけど、わりと社交的な人だったかな。体調のいい時はあちこち出歩いてて、友達とコンサートに行って夜遅くに帰ってきたり、日曜でも朝から何かのサークルに行ってたり。僕は大きくなってから、よそのお母さんってもっと家にいるんだって驚いた記憶がある。
でも、具合が悪い時はほとんどベッドで横になってたから、僕は学校から帰るとずっとそばにいた。たいていは、クラシックのCDを一緒に聞いてたんだ。リクエストに応えて曲をかけてあげたり、誰の指揮や演奏か当てて遊んだりした」
そこへコーヒーとデザートが出されて、絵梨が苺のソルベを食べ始めると、佐野は再び話を続けた。
「あとはそうだな、よく、本を読んでくれって言われた。特に宮沢賢治の童話集が好きだったんだよね」
「読んだことないなあ」
こんな時、絵梨はつくづく十代の自分に説教したくなる。勉強もクラブもスポーツも、何一つ一生懸命にならず、本すら読まずにぼんやりと過ごして、兄の事ばかり考えていた少女に。
「童話集ではあるけれど、僕にはちょっと難しい漢字がけっこうあってね。つまると母が教えてくれるんだけど、すらすら読みたくて、少しずつふりがなを書いていったんだ」
「佐野くんらしいわね。何だか目に浮かぶ」
「でもけっこう面倒くさいんだよね。で、ある日姉さんに、僕ちょっと友達の家に遊びに行ってくるから、ふりがなふっておいて、って頼んだんだ。で、夜になって彼女が本を返しに来て、十ページぐらい進んでるかと思ってたら、最後まで全部やってあって」
「さすがね」
「何だかあの時、決定的に、姉さんには絶対叶わないって思ったかな。平然とした感じで、はいこれ、なんて。でも大人になってから聞いてみたら、本人は全然憶えてないんだ。まあとにかく、それからはすらすら読めるようになったわけ。宮沢賢治ってね、詩人でもあるし、声に出して読んだ方が面白いんだ」
「ふーん、またそのうち読んでみる。でもさ、お母さんの話をしてても、やっぱりお姉さんの話になっちゃうわね」
佐野は少しだけ眉を上げた。
「確かに。まあそれに、母はそれから三月もしないうちに亡くなったからね。叱られた記憶もなくて、僕にとってはとにかく、何だか宙に浮かんだような感じの人だった。姉さんから聞くと、また違った印象なんだけどね」
「佐野くんの天使体質って、お母さん譲りなのね」
絵梨の言葉に、佐野は黙って少しだけ微笑み、頬杖をつく。舌に残ったクリームブリュレの甘い余韻を消すため、絵梨はコーヒーを飲んだ。
「ねえ、しばらく旅行したいのって、疲れちゃったとか、そういう理由?事務所解散したりとか、面倒な事があったから?赤井くんが詐欺まがいのトラブル起こしたって、噂になってるけど」
他人の身に起きた揉め事なんて、挨拶代わりの噂話で消費するのに格好のネタだ。
佐野と同じ事務所にいた赤井という男が、架空の取引で自分の口座に百万ちかい金を振り込ませ、そのまま行方をくらませたという話は、二人を知る者の間では既に知れ渡っていた。
「それは直接には関係ないかな。まあ、事務所もなくなって、今は別に、誰にも必要とされてないし、まとまった休みをとるいい機会だと思って」
「こうして私に呼び出されてるのに、そういう事を言うわけ?でもさ、事務所のことはとりあえず解決したんでしょ?」
「解決っていうか、お金の問題は全部、龍村くんが引き受けたんだけどね。自分が代表なんだから責任はとるって。でも、もしかしたら本当は、僕に原因があるのかもしれない」
「どういう意味?」
佐野はそれには答えず、ちらりと腕時計を見て「出ようか」と言った。
昼間は春らしい晴天だったが、夜の街はしんしんと冷えている。絵梨はスプリングコートのボタンを留め、両手をポケットに入れて歩いた。隣では佐野が、こちらもジャケットの襟を立てている。
「こういう寒さ、花冷えって言うんだってね。最近ようやく憶えたわ。週末はみんなお花見らしいけど、佐野くんはあちこちから誘われてるでしょ?」
「別にそんな事ないよ」
そうは言っても、絵梨にはよく判っていた。彼がいるだけでその場が明るくなるし、みんなの気持ちが和むので、佐野はとにかく何かの集まりには声をかけられるのだ。ただ、それが本人にとって本当に楽しい事かどうかまでは判らない。
「絵梨ちゃん、まだ時間ある?」
「うん、別に急いでないけど」
「じゃあ少し遠回りして、夜桜見ていかない?小さな神社だけど、一本だけ立派な桜があるんだ。きっと咲いてると思う」
「うん、行ってみたい」
そして二人は、ほとんど明かりの消えたオフィスビルの続く坂道を並んで歩いた。時折、思い出したように現れる小さなレストランの明かりや、コンビニの青白い光がぼんやりと足元を照らす。
「ね、さっきの話、聞いていい?事務所の解散の話、佐野くんに原因があるかもって、言ったよね」
絵梨は前を向いたまま、早口で小さく訊ねた。答えるのが嫌ならそれでいい、自分も言わなかったことにして歩き続けるから。しかし佐野は低い声で答えた。
「前にさ、男の人とつきあったことがあるって話をしたけど、あれ、赤井くんなんだ」
「そうなの」途端に動悸が激しくなって、震えそうになる声を絵梨は何とか抑えた。
赤井とは共通の知人を介して何度か会ったことはあるが、いつもふざけたような態度で遊び人を装っているのに、奇妙に目だけは醒めた光を宿していて、正体がつかめない男という印象しかなかった。
「といっても学生時代だけどね。僕ら同じ大学で、彼は一つ上の学年でさ、僕が二年の時に実習室でちょっと話をしたのが最初かな。すごく頭が切れて、才能とセンスもあって、自信家で、しかもニヒリスト。何だか面白い人だなって、すぐに友達になったよ」
「でも友達のままではいなかったんだ」
「そうだね。僕は姉さんと住んでたから、よく彼のアパートに遊びにいって、夜通し色んな話して、お酒飲んだりしてたけど、ある日何となく誘われたんだよね。ちょうど姉さんの交際相手のことでとても不安定になってた時期で、僕としては、彼が自分を必要としてるなら別に構わなかったんだ」
「それって、恋愛感情として好きだったって事?」
「友達としては大好きだったよ。でもどうなんだろう、その先は。今でもよく判らない」
たぶん佐野には本当に判らないのだ。姉以外の全ての人間に対する彼の気持ちは、同じ種類の好意で、男女を問わず無心に捧げられたものだから。
「でも、あの頃の僕はまだ子供みたいなもので、完全に彼を誤解していたんだ。何ていうか、クールで、ドライな人で、僕との事も半分遊びだと思ってたんだけど、本当はすごく寂しがり屋で、いつも僕がどこで何をしてるか知りたがって、僕が他の友達と遊んだりするだけで傷ついて、怒りをぶつけてきた」
「けっこう重たい人だったのね」
「こっちがもっと従順なら話は簡単だったかもしれない。でも僕もかなり息苦しくて、百パーセント君のものにはなれないって、そう言ったんだ。別に喧嘩という程ではなくて、ちょっとふてくされたぐらいの感じ。そしたら彼は、急に冷静になって、笑顔すら浮かべて、了解、って一言。それだけだった」
「プライド高いんだ」
「今ならそうわかるけど、当時は何がどうなったのかわからなくて、何だか自分が過剰反応しいてたような気さえしたよ。それで、また友達に戻ろうとしたんだけど、適当にあしらわれて。でも決定的に拒絶されるわけでもなく、知り合いに降格されたって感じ。まあ今考えると、僕が呑気すぎたんだけどさ」
「形としては、佐野くんが失恋したみたいに持ってかれたのね」
「かもしれない。で、まあ、大学を出てからも、噂は聞いたり、何かの集まりで偶然会ったり、お互いにどうしてるかは知ってたんだよ。そしてある日いきなり、事務所作るけど入らない?って声かけられたんだ」
「気まずいとか、思わなかったの?」
「たぶんそこが、僕の変なところ。仕事だし、やっぱり彼の才能って好きだし、必要なら協力しようかなって思った。
彼はさ、軽い人間に見せてるけど、思いつきで行動することは絶対にないんだ。色々考えて、ようやく出した結論を、何気ないふりして口にする。だから僕はOKしたよ。仕事は仕事で、私生活は関係ないし、自分も少しは大人になって、彼に対してどう振舞うべきかを理解したつもりになってた」
「でもあんな結末になった。彼、今も連絡とれないんでしょ?」
「うん。問題が起きた時はアメリカにいるって話だったけど、どうだか。でもとにかく、彼が本当に困らせたかったのは、龍村くんじゃなくて僕だったと思う」
「なるほど。佐野くんの弱点をよく判ってるんだ。自分より、周りの人が困る方がずっと辛いって」
佐野それには答えず、「ほら、あそこ」と、前方にほんのり明るく照らされている一角を指差した。
そこはうっかりすると通り過ぎてしまうほど、間口の小さな神社だった。鳥居をくぐり、両側を雑居ビルに挟まれた細い参道を歩いてゆくと、いきなり空間がひらけて、一抱えほどもある幹から豊かに枝を広げた桜が一本だけ聳えていた。まだ満開まではもうしばらく待つ必要があったが、初々しいような気配を漂わせて、境内の常夜灯にほんのりと照らし出されている。
「わあ、きれいね」
絵梨は思わず声を上げた。近隣の住人にはよく知られているのか、二人の他にも犬を散歩させている初老の男性と、夫婦らしい中年の男女が訪れていた。
「去年の春に教えてもらったんだ。あの時はもうほとんど散ってたけど」
佐野は絵梨の隣に立つと、同じように桜を見上げた。街中とは思えない静けさがその場を包み込んで、時の流れからも遮断されたような錯覚をもたらす。ただ、足元から上ってくる夜気の冷たさだけが、これは現実だと知らせていた。
「ねえ、いちど姉さんに会ってくれる?」
ふいにそう話しかけられて、絵梨は我に返ると佐野の顔を見た。彼はずっと桜を見上げたままだ。
「いいけど、どういう心境の変化?」
「心境というか、彼女に時間的な余裕ができたから。半年ほど前に、大学病院から個人のクリニックに移ったんだ」
「そうなの?よかったじゃない。もちろんお目にかかりたいわ」
「で、一つだけお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「彼女にきいてほしいんだ。どうして、今つきあってる人と結婚しないのか」
絵梨は思わず唇を引き結び、身体ごと彼の方に向き直った。
「何言ってるの?初対面でいきなり、そんな質問できるわけないじゃない」
佐野はようやく桜から彼女に視線を移し、悪戯がばれた子供のように笑った。
「だよね。今のは冗談。でも姉さんには会ってね。きっと仲良くなれるよ。僕が旅から帰って、たぶん寒くなるまでには会ってもらえると思う」
彼はそれだけ言うと、いちど足元を見て、それから神社の本殿に向かってゆっくりと歩き出した。絵梨はその後姿が何だかとても儚く、そのまま夜の闇に滲んで消えそうな気さえして、後を追うと彼の腕を捕らえていた。
「どうしたの?」と、呆れたように振り向かれ、思わず「ちゃんとお願いしなきゃ。二人とも無事に旅から戻れるように」と口にしていた。
「なるほど。絵梨ちゃんって、けっこう信心深いんだ」
その後、春の終わりから秋にかけての数ヶ月、佐野は長い旅の途中に何度か、絵梨に宛てて短いが気持ちのこもったメールをくれた。彼女もまた、サハリンで撮影した写真を何点か送り、「珍道中については、また会う時をお楽しみに」と伝えておいた。しかしその機会は永遠に訪れなかった。
「花火、あと一袋あるんだって」
剛は弾んだ声を上げてテラスに戻ってくると、テーブルに置かれたグラスの麦茶を飲み干し、また庭へと駆けていった。そこでは駒子の夫と、息子で三年生の春人が花火を楽しんでいる。美那はひとしきり遊んだ後は、絵梨の隣に座って大人の会話に加わろうとしていた。夜風には潮の香りと、花火の煙と、食べ終えたバーベキューの匂いが混じっている。
「蚊にさされてない?」と言いながら、駒子が絵梨たちの持参したカットフルーツの盛り合わせを運んできた。
「花火が蚊取り線香になってるみたい」と笑って、美那は葡萄を一粒口に放り込む。絵梨はフォークでパイナップルを刺して口に運んだ。
「ああしてると、剛ってまだ小学生みたいに無邪気よね」
「だって頭の中は四年生ぐらいだもん。春人くんと変わらないよ」
「でもやっぱり中学生だなって思うわよ。しっかりしてるじゃない」
駒子はそう言って腰を下ろすと、グレープフルーツを手に取った。彼女の家は目の前に海が開けていて、隣家との距離もあるので、こうした集まりをしても気兼ねの必要がほとんどない。
「あーあ、私もこんな家に住んで、毎日海を眺めて暮らしたいなあ」
美那はうらやましそうに溜息をついたが、突然座りなおすと、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。どうやら両親からのメッセージを受信したらしい。
「今、バスにて移動中、だってさ」
こちらに向けられた液晶画面には、窓際に座り、笑顔で少し首をかしげている義姉が写っている。外の景色は柔らかな緑の田園地帯だ。駒子も隣から覗き込み、「楽しそうね」と微笑んだ。
「美那ちゃーん、線香花火するよ!」
春人の声に誘われ、美那はすぐに立ち上がると携帯電話をポケットに戻し、駆けていった。
「お母さんたちの事、すごく気になるのね」
「普段は親がウザいだとか言ってるのに、いざ離れてみると心細いのよね。それにさ、旅ってどこか不安なものよ。行ってる人間も、待ってる人間も」
絵梨はそう言って、麦茶を一口飲む。
子供たちは相変わらず大声ではしゃぎ、線香花火に照らされたその姿は、古い映画のようにちらちらと瞬いていた。
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