海
「じゃあまた、一週間ほど前になったら連絡するよ。ありがとう」
「どういたしまして。ゆっくり楽しめるといいわね」
絵梨はそう言って電話を切った。
土曜の昼前。兄が用事で連絡してくるのはたいてい今ごろだ。単なるご機嫌伺いなら、通勤帰りの電車からメールを送ってくる。
リフレッシュ休暇をもらえる事になったので、夫婦でヨーロッパ旅行に出たい。子供たちは義姉の両親が世話をしてくれるが、三連休のかかる週末は絵梨のところに行かせたい。そんな話だった。
こんな時、台本を作るのは義姉で、兄はただそれを素直に伝えてくる。彼の頭には自分の子供たちと妹が一緒に楽しく週末を過ごすというイメージしかないし、絵梨もそれを壊すつもりは全くない。とはいえ、義姉に対しては複雑な気持ちがつきまとった。
「絵梨ちゃんにも、子育て体験を共有してほしいな」
姪が生まれて間もなかったころ、初めて顔を見に行った絵梨の腕にわが子を押し込むようにして、義姉は高揚した声でそう言った。
絵梨は彼女の真意をはかりかねて曖昧に笑うしかなかったけれど、姪と甥の誕生日や運動会、音楽教室の発表会といったイベントに呼ばれる度にその言葉が耳の奥にこだました。
実際に血はつながっていないけれど、姪も甥も彼女にとっては大切な存在だった。たまに会えば嬉しそうに話しかけてくるし、彼女が海辺の街に引っ越してからは、物珍しさも手伝ってか頻繁に遊びに来たがる。
兄に似ておっとりとした性格の姪と、義姉に似て要領がいいけれど、とても繊細なところがある甥。上が高一に下が中二で、これからどんどん自分の世界を広げてゆく二人が一緒に行動してくれるのもあと少しだと思うと、絵梨は彼らを楽しく迎えたいと心から願うのだった。
それでも二人は絵梨の子供ではない。短い時間を一緒に過ごしたところで、子育てなんて判るはずもなかったし、趣味の蕎麦打ちか何かみたいに「体験」できるものでもなかった。
まあそんな事どうだっていい。義姉はきっと、自分の発言なんてとうに忘れ去っているだろうから。
絵梨は冷蔵庫を開けると、琺瑯の器に入っているイカのマリネの様子を見た。朝早くに市場で新鮮なのを買ってきて、レッドオニオンとパプリカと塩漬けのオリーブで合わせた。本当は夕方まで寝かせておきたいけれど、今日は昼食会だ。
少し離れた場所に住む友人の駒子から、こちらに引越しを考えている知人が来るので、絵梨からも率直な意見を聞かせてほしいと招待されていた。手ぶらで行くのも気がひけるので、こうして料理を作り、もらい物の焼き菓子も持参する事にした。
熱をはらんだ海風は開け放った窓から緩やかに吹き込んできて、軒下に吊るした明珍火箸の風鈴を時折鳴らす。夏休みに入って以来、家の前の道路は海水浴客の車で渋滞しがちだ。早めに出発することにして、絵梨は寝室に入るとハンガーからインド綿のワンピースを外した。
「天気はいいけど、まだちょっと泳ぐには寒そうね」
「泳ぐっていうなら、止めはしないよ」
近くの駐車場に車を停めて、二人は海辺まで歩いてきた。夏場なら若者や家族連れで賑わうこの場所も、五月では人影もまばらだ。アスファルトの道路から浜に降りてゆくと、少しヒールのあるパンプスを履いた絵梨の右脚は、砂に捉えられてふらついた。
「こんな靴はいて海に行きたいなんて言い出すんだから、自業自得よね」
笑う彼女に、佐野は黙って腕を差し出した。遠慮せずにそれにすがると、絵梨は「でも私、海で泳いだことないの」と言った。
「お父さんの好みで、夏休みの旅行はいつも山だった。泳ぐのは学校か遊園地のプールだけ」
「友達と海に行ったりもしなかったの?」
「そうね。怪我してからはプールにも行ってない。皆が楽しもうって時に、水着姿で手術の痕とか晒すのも迷惑かなって、勝手に気を遣ってたの」
「僕は北海道だから、海で泳いだのは東京に来てからだな。でも、人が多すぎて泳ぐなんてもんじゃないし、正直いって何が楽しいんだろうって思った」
「確かに、普通の女の子に興味がない人にはつまらないかもね」
「そういうわけじゃないけど」
背の高い松の防砂林を抜けて、二人は波打ち際に近づいた。少し離れた場所では、二頭のレトリーバーが飼い主の投げた流木めがけ、先を争って海に飛び込んでいる。
「私達が今、こんなところを二人で歩いてるなんて、絶対にみんな知らないよね」
「知らせる?」
「まさか。私達は共犯者よ。そう簡単に尻尾を出すわけにいかない」
「それじゃこれからも、ちょっとした友達の絵梨ちゃんと佐野くんって事で」
「ねえ、佐野くんって、男の人に好かれちゃったりした事ある?そんなにカッコいいのに彼女作らないのはそっちの趣味じゃないか、なんて噂する人もいるけど」
「なくはない。いっそその方が楽かな、なんて思って、つきあってみた事もあるんだけど」
「そうなんだ」
絵梨は一瞬立ち止まって、彼の横顔を見上げた。
「でもやっぱり続かなかったな。相手にも悪いことをしたと思ってるよ」
「ていうか、つきあえちゃうもんなの?」
「まあね。僕はさ、誰かに必要とされてるなら、それはそれでいいんだ」
なるほど。だから私とも遊んでくれるのね。口には出さず、絵梨はまた足を踏み出した。
「ねえ、今だけ本気でつきあってるふりしてみない?」
「いいよ。絵梨ちゃんは何がお望み?」
「私のこと抱き上げてみて」
返事する代わりに、彼は絵梨の腰に腕を回すと軽々と抱き上げた。思いのほか力強いその動きに少し当惑して、絵梨は何故だか「馬鹿みたいね」と呟いた。佐野は黒い瞳で見上げたまま「馬鹿みたいかな?」と問いかける。
ふいに絵梨は悲しくなって、彼の肩に手をのせると、うつむいて唇を重ねた。彼はそのままゆっくりと絵梨を砂の上におろす。彼の舌が自分の少し開いた唇を探るように入ってくるのを感じながら、彼女は胸の中で「馬鹿みたい」と繰り返した。
自分が兄としてみたかった事、佐野が姉との間で望んでいた事。
こんなに広々と明るい場所で実現しているのに、誰も知りはしないし、何も生み出さない。なのに絵梨の身体は現実味のない快楽に溺れそうになって、彼女は佐野の柔らかな髪に指を埋めると、自分も舌を絡めた。
彼のいつもより少し早い呼吸。初夏の日差しをうけて高まったふたりの体温は、砂浜をわたってゆく乾いた風に散らされる。
「もういいわ」
絵梨は濡れた唇でそう囁くと身体を引いた。何も言わない佐野の表情は、ちょうど太陽を遮る角度でよく見えない。
「続きはまた後でね」
勝手にそう宣言して前に進むと、途端に足をとられた。ほどいたばかりの腕がまた自分を支えるのを感じて、絵梨は振り向いた。
「ごっこ遊びで十分楽しめるなんて、三十にもなろうってのに、私達まるで子供ね」
「かもね」
潮はどうやら退いている途中らしく、濡れた砂は暗く色を変え、陽光を反射して輝いている。波は穏やかなのに、腹の底に響くような音をたてて寄せ続けた。
「本当の意味できょうだいなのは、私達かもしれない。共犯者できょうだい」
「共犯者って言えばさ」
佐野は何気ない風を装って、絵梨の傍に並んだ。
「僕と姉さんも子供の頃はちょっとした共犯者だったよ」
「何をしたの?」
「うちの母って、三十七で亡くなったんだ。僕が物心ついた頃には入退院を繰り返してたけど、元々身体が弱かったのに、無理して二人も産んだせいだって、親戚のおばさんがよく言ってた。亡くなった時は、冬の初めに病院でもらったインフルエンザをこじらせて、肺炎であっという間。僕は三年生だったよ」
「そうなの」と頷いて、絵梨は佐野の腕を支えに歩き続けた。
「それでさ、母が亡くなって一年ほどすると、父は再婚を考えるようになったんだ。自分は仕事が忙しいし、子供はまだ面倒を見てくれる人が必要。親戚からも色々と紹介されたらしい。何人か会ってみて、よさそうな人がいれば、次は僕らも一緒に会うんだ」
「親子でお見合いするわけね」
「だいたいは札幌とか、道南の人だったけど、仙台まで行ったこともあるな。でも結局、父は今までずっと独身のまま」
「そこに犯罪の匂いがする」
「そう。新しいお母さんってものに対して、僕はけっこう乗り気だったんだよね。男の子なんて優しくされるのを期待してるだけで、単純なものさ。でも姉さんは違った。彼女はもう中学生だったし、僕からみたらほとんど大人で、すごく冷静なんだ。お見合いの前の夜になると必ず、彼女は僕の部屋にやってきて、いい?明日は絶対に途中で具合が悪くなるんだからねって、仮病をつかうように命令するんだよ」
「で、素直にお腹が痛いふりとかするの?」
「それがさ、子供ってすごいよね。本当に頭が痛くなったり、熱が出たりするんだよ。僕はほぼ打率十割でやってのけた。そうなると、お見合いもそこそこに家に帰って、それでおしまい。今じゃ風邪もほとんどひかないけど、僕は小さい頃はよく病気をしてね、母親のこともあったから、周囲は必要以上に心配したんだ」
「でも、実際に熱が出るなら苦しいじゃない」
「まあね。それでぐったりして寝てると、姉さんがやってきて、はいご褒美ってアイスクリームくれるんだよね。でさ、それ食べながら、今日の女の人って、お父さんにはにこにこして、私たちを見る時は一瞬真顔になるのよね、なんて聞かされて」
「なるほど、そうやって調教されちゃったんだ。佐野くんって立派な被害者だと思うわ。自覚はないでしょうけど」
絵梨の挑発にはのらず、佐野は溜息のような笑いを漏らした。
「姉さんにとって母は、何ていうか、絶対的な存在なんだ。資産家の生まれでさ、元々は樺太で林業とかやってた一族なんだけど」
「樺太?って北海道?」
「地図でいうと北海道の左上にある、細長い島だよ。戦争が終わるまでは南半分が日本の領土だったんだ。今はロシア領で、サハリンって呼ばれてる」
「へえ、知らなかった」
「まあ、それで、母は学校の成績もよくてさ、大学は東京で国文学を専攻して、大学院に残るよう勧められたらしいけど、やっぱり身体が弱くて。けっきょく卒業後は札幌に戻って、父とお見合いで結婚したんだ」
「資産家の令嬢らしい選択だと思うけど」
「でもね、母は本当のところ、満足してなかったんだろうね。姉さんにはよく、結婚は無理にしなくていいから、まずは手に職をつけて自立することって言ってたらしい。別に夫婦仲が悪かったとか、そういう事じゃないんだけど」
「その気持ちは、何となく判るわ」
「だからまあ、姉さんは母以外の女性を家に入れるなんて、絶対にしたくなかったんだ。でも父にも気を遣ったんだろうね。そこで僕が役に立ったわけ」
「結果的には、お父さんと結婚する人がいなくてよかったわよね。結婚してたらきっと、天使みたいな顔の小悪魔たちに、精神ボロボロにされてたわよ」
「僕たち、そんなホラー映画みたいな子供じゃなかったよ」
「十分ホラーだって。ねえ、そんな秘密聞かされて、私この後、海に沈められるんじゃないわよね」
「それはどうかな」
気がつくと二人は遊泳区域の終わりを示す桟橋まで来ていた。砂浜はその向こうにもまだ続いていたが、傾斜が強くて岩場が迫っている。水底もまた急に深さを増しているようで、深緑に近い暗さを抱え込んでいた。
絵梨は低い階段を上り、木製の桟橋に立ってみた。そして半分ぐらいの距離を進むと、遊泳禁止の側にだけある手すりにもたれて佐野に向き直った。
「ねえ、もし私が殺してくれって頼んだら、引き受けてくれる?」
「なんでそんなこと言うの?」
「事故で怪我をした時にね、もう少しずれていたら、一生寝たきりだったかもしれないとか、そういう事を言われたの。まあ、ラッキーだったと思わせたかったんでしょうけど、たまにふと考えるのよ、今更のようにそんな事になったらどうしようって。なんか馬鹿げてるけど、ちょっと転んだりしたはずみで、古傷が悪くなってそのまま寝たきりとかね。まあ、肉体的なものは受け入れざるを得ないって覚悟があるし、兄さんは当たり前の顔して面倒みてくれるだろうけど、あの人に迷惑だって思われるくらいなら、さっさとおさらばしたいの」
「そこで僕の登場か。でも申し訳ないけど、無理」
「あっさり言うわね」
「だって僕は動物実験だとか解剖とかが嫌で、医者になるのを拒否したんだよ」
「でも、スプラッターじゃない殺し方もあるわよ」
佐野は黙って絵梨の隣に立つと、彼女とすれ違うように手すりにもたれ、背筋を伸ばしたまま海の方へ軽く身を乗り出した。
「そういう理由だったら、僕は絵梨ちゃんと結婚する。そしたらお義姉さんも安心してくれないかな」
「そしたら佐野くんの博愛主義者としての名声も、不動のものになるわね」
「いい取引だ。善は急げでさっそく実行する?僕らは立派に適齢期って奴だけれど」
絵梨は前を向いたまま、波打ち際で駆け回っている二頭のレトリーバーを見ていた。
「それは無理。私が心の中に隠してる、最低な筋書きを教えてあげようか」
「どんなの?」
「あの人が死んじゃうの。病気でも事故でも、理由は何でもいい。それで私は大手をふって家に戻って、お兄ちゃんとチビたちの面倒を見るってわけ。世間からは妹さん、偉いわねえ、なんてヨイショされちゃって。気高き志を持つ、自己犠牲のヒロイン。だから私、自由でいなくてはならないの」
「確かにそういう可能性は、ゼロとはいえないね」
佐野が身体の向きを変えて、自分と並んだ気配を感じながら、絵梨は尚も犬たちを見ていた。
「でもさ、そういう事になったら、僕は誰からも非難されるやり方で絵梨ちゃんのことを捨てるよ。で、めでたく離婚成立」
「佐野くんって、時々そんな風に優しすぎて、だから嫌いになりそうなことがあるわ」
絵梨は手すりから身体を起こすと佐野を見上げた。彼も同じものを見ていたらしく、視線はそちらに向けたままで「ごめんね」と呟いた。
「買い物に不便した事は特にないけれど、遊びに来た友達が夜中に体調を崩した時は不安だったわ。近くの診療所じゃ救急外来はやってないから」
絵梨はよく冷えたペリエを飲みながらそう言った。今日のホステスである駒子は「市民病院なら夜間救急があるけど、車で三十分はかかるわね」と付け加える。
「やっぱりお医者さんや病院って大事よね」
聡美はそう言って夫の方を向いた。彼女は二十八で、夫の孝仁は三つ年上。プログラマーをしている孝仁は毎日出社する必要がないので、この街へと転居する計画をたてていて、知人である駒子にアドバイスを求めてきたというが、二人は結婚してまだ一年足らずらしい。
「どこで出産するかも考える必要あるかもね、産婦人科も小児科も一軒だけだから、事情がある人は隣町まで行ってるらしいわ。あとは市民病院一択よ」
駒子はそう言って、手際よく空いた皿を下げた。
「そうなの」と頷き、聡美は絵梨の持参したイカのマリネを皿にとった。今は派遣社員で経理を担当しているが、こちらでの仕事も心配らしい。
「まあ、引っ越してくる人が増えてるから、これかれは病院とかも充実してくると思うけど」
少し不安そうな聡美を励ますつもりで、絵梨はそう言うと手元の小鉢にあったプチトマトを口に運んだ。いったんキッチンに姿を消していた駒子は、焼きあがった茄子のグラタンの皿を手に戻ってきた。
「たしかに、今年は小学校一クラス増えたものね。岬タウンなんか、見学のお客さんで毎週末すごい人だっていうし」
「ああいうエリアでぽんと一軒買えるほどの金があればいいんですけどね」
取り分けられたグラタンを受け取り、孝仁は軽く頭を下げた。
口ではそう言うけれど、彼は実際には入念に計画を立て、理想の家を作り上げるタイプに見える。絵梨のような、直感と閃きに従って行動する人間の対極だ。
「駒子さんがこっちに移ったのは、絵梨さんの紹介でしょ?」
「紹介というか、夏に子連れで絵梨の家に遊びに来て、楽しかったのよね。いつもは喘息の発作が心配な息子が、妙に元気だったりして。で、次に旦那も一緒で一週間ほど民宿に滞在して、その次に来た時には不動産屋に会ってた」
「駒子さんは翻訳の仕事だから、引越しは影響しなかったでしょうけど、ご主人のお仕事はどうだったの?」
「うーん、だから最初は私と息子だけで移住しちゃった」
「駒子さんって、決断したら早いのよ」絵梨が合いの手をいれると、駒子は悪戯っぽく笑った。
「今のちょっと皮肉なのよ。それが原因で旦那と喧嘩もしたし、でもまあ、今は単身赴任みたいな感じね。彼は金曜の夜こっちに来て、月曜にここから出勤。まあ会社に異動の希望は出し続けてて、来年はこっちの営業所に移れそうよ」
「息子さんの喘息って、今はどうなの?」
「随分落ち着いてる。もちろんお医者さんにはずっと診てもらってるけど、丈夫にはなったわね」
「それだけでも来た価値があるわね。じゃあ、絵梨さんが引っ越してきたきっかけは?」
「え?私?」
なんとなく駒子と聡美に会話をまかせていたので、急に水を向けられた絵梨は少し慌てた。食べ終わったグラタンの皿をテーブルに置き、再びペリエを飲んでから口を開く。
「私は、ちょっと都内に住むのに疲れてたの。別に通勤する必要もないんだから、海の近いところに住もうかなって」
「ここ以外にも候補地はあったの?」
「それはないかな。何となく、海辺の町ってここしか思いつかなかった。ずっと前に遊びに来たことがあって、その時なんだか気に入ったのね。で、久々に来てみたらあんまり変わってなくて、それで住むことにしたの」
「それって、彼とデートで来たとか、そんな感じ?」
聡美のはしゃいだ声には、却って少し不自然なものがあって、絵梨は気を遣わせたのかな、と思った。
「ううん、一人でぶらっと来たの。五月で、すごく晴れてて、砂浜を散歩して、気持ちよかったのを今もはっきり憶えてる」
「二十四時間まであと少し」
「あっという間だったね」
昨日の夜、七時に待ち合わせして、今はもう六時を回った。車の窓からは沈みつつある大きな夕日が見える。助手席からそちらへ目を向けると、左側でハンドルを握る佐野の横顔が、朱色の逆光に浮かび上がっていた。
「疲れてる?」と絵梨が尋ねると、「全然。昼寝したもの」と、あっさりした答えが返ってくる。
砂浜を散歩して、近くの漁師町で目に付いた食堂に入って、定食を食べて、また少し散歩して、年季の入った喫茶店でコーヒーを飲んで、そして行きがけに見かけたラブホテルの中から、一番下らない名前のものを選んだ。
絵梨がノミネートしたのは「なかよし倶楽部」だったけれど、佐野は「猫のゆりかご」だった。
「猫のゆりかごだなんて、メルヘン調で普通じゃない?」
「でもさ、そういうタイトルの小説があるんだ。SFで、しかも世界が滅びるって話で」
「インテリって時々、凡人には判らないことで大ウケするよね」
最初に看板を見た時に彼が大笑いしていたのを思い出して、絵梨は呆れてみせた。兄もたまに、テレビを見ていてふいに爆笑する事があったけれど、似たようなものだろう。
「じゃあ見てみようじゃないの、その、猫のゆりかごって奴を」
絵梨はあっさり譲歩したけれど、そこはまあ常識の範囲におさまる外観と内装の建物だった。だからというわけでもないが、二人は常識の範囲におさまる程度の事をして、少し眠った。
実際には、絵梨はしばらくうとうとしただけで、あとは佐野の寝顔を見ながら、彼のしたことを反芻していたのだけれど。
「やっぱり佐野くんてさ、辛そうな表情してる時がいいよ」
絵梨はシートベルトの位置を直しながら、彼の横顔に話しかけた。
「何?いきなり」
「さっきベッドで見てて思ったの」
佐野は少し考えて、「僕は絵梨ちゃんの、ちょっと困ったような表情が好きだよ」と言った。
「そうなの?こんど天井に鏡のあるところに行ったら、見てみよう」
「誰と行くか知らないけど、僕だったらそんなに冷静でいられるの、あんまり嬉しくないな」
「そうよね」
この先いつか再び、彼と抱き合ったりする事はあるのだろうか。今こうして会っているのだって数ヶ月ぶりだし、身体を重ねたのは一緒に住んでいたとき以来だ。
その間に何年かの時間が流れ、絵梨は二人の男性と付き合ったが、どちらともそう長続きせずに別れた。佐野は一体どんな風に、その時間を過ごしていたのだろう。
突然、車が一瞬大きく左に振れ、佐野が「ごめん」と言った。
「どうしたの?」
「猫がね。かわいそうに」
絵梨は反射的に振り向いてみたが、既に何も見えなくなっていた。
「そういうの、かわいそうって思っちゃ駄目よ」
「どうして?」
「ついてくるから。父方のおばあちゃんがそういうの信じる人で、よく言われたの」
「じゃあ、どう思えばいいのかな」
「あーらら、ぐらいでいいんじゃない?佐野くんには難しいでしょうけど」
「あーらら、か」
「生きてる人間もね、かわいそうだと思うとついてくるわよ。つまらない人ほど、そう」
絵梨は再び彼の横顔を見た。その向こう、西の空には夕映えが鮮やかに広がり、宵の明星が気ぜわしく輝き始めている。
「絵梨ちゃん、なんだか僕より年上みたいなこと言うね」
「うん。実はさ、私どうも、佐野くんより先に年とっちゃったみたい。それもついさっき」
「さっき?」
「お昼寝してる佐野くんの顔を見てたら、こんな子だったら産んでみたいなって、とても強く思ったのよ。そして、色んなものから守らなきゃって」
そう言うと絵梨は背筋を伸ばし、前を走る車のテールランプを見つめた。佐野はしばらく黙っていたけれど、やがて「最初は僕の方がリードしてたのにね」と言った。
「あの二人、引っ越してくるかしら。絵梨はどう思う?」
聡美と孝仁が不動産へと出かけた後で、絵梨と駒子は一緒に食事の後片付けをした。ひと段落ついて、砂糖をたっぷりときかせた熱いミントティーを飲みながら、二人はテラスのデッキチェアに深くもたれて午後の太陽を反射する海を眺めた。夕凪にはまだ時間があって、心地よい海風が絶えず頬をくすぐる。
「どっちかというとご主人の方が乗り気みたいね。聡美さんはまだこっちでの生活がイメージできてない感じ」
「うちと逆だ」と笑って、駒子は軽く伸びをした。
「春人くん、まだ帰ってこないの?」
「うん。旦那と実家に行って泊ってくるの。今夜は久々に一人を満喫するわ。ねえ、明日、アウトレットモールまで遠出しない?」
「行きたいけど、月曜に都内に行く用事があって、明日はその準備しなきゃ」
「そっか。じゃあお一人様で行ってこよう」
駒子はそして、ポットに残ったミントティーを二つのカップに注ぎ分けた。
「実は私ね、こっちに来てから一度も、旦那の実家へ顔出してないの」
「何?喧嘩でもしたの?」
「そんなに深刻な喧嘩じゃないけど、引越がらみのあれこれで、互いの実家の悪口も出ちゃってさ。だったらもう無理するのやめようって話になったのよ。旦那が向こうにどう説明してるかは知らないけど。私は自分の親に正直なところを話したわ」
「いさぎよいわね」
絵梨は飛んできた羽虫を軽く払い、足を組み替えた。
「でもさ、春人がもう少し大きくなったら、疑問に感じるかもしれないわね。どうして小金井のおばあちゃんちに行かないのって」
「女の子はけっこう敏感に察知するらしいけど、男の子ってどうなんだろうね」
「今のところ、うらやましいぐらい単純に生きてるけど、中学ぐらいになったら難しいのかな。私さ、意識してあの子と距離をおこうとしてるんだけど、気がつくともうべったりなの。何でもすぐ口出しして、手助けしちゃうし。おまけに、春人のことは本人以上に判ってるという、根拠のない確信があるの。ちょっと何か選ぶのでも、あんたは絶対こっちにしなさい、なんてね」
「そうなんだ。クールでならした駒子さんらしからぬ溺愛ぶり」
「でしょ?自分でも不思議だもん。旦那にはずっと、もたれ合わないことを要求してきたのに」
「でもまあ、それも悪くないって感じでしょ?」
「そうね。満ち足りてはいるのよ。ただ納得がいかないだけ」
「素直に認めればいいのに。息子に夢中だって」と、絵梨は笑った。
「いま一番心配なのはね、春人がいつか結婚する事なのよ。平気っていう人もいるけど、私は取り乱しそう」
「まだ二十年ほど先の話よ。その頃には覚悟もできてるんじゃない?」
「そうなのかな。万が一の時は、絵梨ちゃんまた話聞いてくれる?」
「嫁いびりの計画だったら、色々相談に乗れるかも」
「心強い」
そう、私は共犯者に向いている。絵梨はひときわ強く吹いてきた海風に目を細めた。
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