爪
「あーもう、ぶっ殺す!」
頻繁に車線を変える前の車に向かって、絵梨が思わず悪態をつくと、助手席のヤシ君が「運転、代わりましょうか?」と申し出た。
頑張れば高速を降りるまで行けそうだったが、二十代の男の子相手にそんな根性を見せても意味がない。
「じゃあ、次のサービスエリアでお願い」
絵梨は素直にそう頼むと、少し背筋を伸ばした。
さっきまで眩しかった西日は低い丘陵の向こうに沈み、その上に薄く広がった雲は残照で朱鷺色に輝いている。七月の長い午後はようやく終わりを告げ、しばらく離れていた都会の夜景がその向こうから立ち現れようとしていた。
「この後、彼女と約束してるの?」
「ないっす。明日が水曜でノー残業デーだから、今日はけっこう遅くまで残るらしくて」
「あらそう。じゃあ晩ご飯食べていこうか」
ヤシ君は実に屈託なく「ごちそうさまっす」と返事した。年は二十五、大学を出てIT企業に就職したのにすぐ辞めて、後はずっと撮影スタジオでバイトをしている。絵梨がそのスタジオを仕事で訪れた際に今回の廃校撮影の話をしたら、無給でいいから手伝いたいとついてきたのだ。
よく気がつくし、体力があって、呑み込みが早い。彼はかなり理想的なアシスタントだった。食費と宿泊費は全てこっちが負担したけれど、日を改めて謝礼を出そうと絵梨は考えていた。
「スタジオのバイトはいつから戻るの?」
「昨日電話してみたら、今そんなに忙しくないから、月末まで大丈夫って言われて。ま、しょうがないっすね、十日以上休んで、いきなり戻りたいってのも勝手な話だし」
「その間に就職活動でもする?」
「いやあ、まだ具体的にどうしたいか決まらないんで」
彼はそう言って、へへっと笑った。本当に「いい子」ではあるけれど、自分というものがとても薄い感じがする。若い頃は「自分」を持て余していた絵梨から見ると、彼の頑健な身体とあっさりした性格はうらやましい程だった。
「絵梨ちゃんって、僕が思ってたよりずっと薄情だね」
「そうかな」
「二年ぶりで日本に帰ってきたら、黙って引っ越してるなんて、冷たいじゃない」
佐野はそう言って、お土産だというチョコレートの小さな箱を差し出した。それを当然のように受け取りながら、絵梨は「また一緒に住んじゃったら、今度はいつ出て行けばいいか判らなくなりそうだから」と低い声で言い訳した。
「なるほど」と、彼は少しだけ笑う。
「じゃ、合鍵はちゃんと返したからね。今月の光熱費はまた請求してもらえば払うわ」
「それはいいよ。鉢植えも全部面倒見てもらったし」
「思い出した時に水やってただけよ」
それだけ話すと、絵梨にはもう言うべきことがなくなった。
佐野がロンドンへの留学から戻り、自分はその一週間前に彼のマンションを出た。そして今日は近所のカフェで会って、部屋の鍵を返した。以上。
「それで、絵梨ちゃんは今どこに住んでるの?」
「前に三浦さんが住んでた部屋。結婚が決まったっていうから、家具だとか食器だとか、ほとんどいただいちゃって」
「そりゃついてたね。で、写真の方も順調なんだ」
「からかわないでよ。ちょっと雑誌に載ったからって、順調とは程遠いわ。相変わらずコールセンターでバイトしてる時間の方が長いんだから」
「別にからかってないよ。この二年の間に、絵梨ちゃんは自分の生活を切り開いたんだ。もっと自信を持ってあちこち売り込みしてもいいんじゃない?」
「外国帰りの人ってすぐにそういう事言うわよね。日本ってそんなに調子のいい国じゃないわ。まあ、じきに思い出すでしょうけど」
何故だろう、本当はとても懐かしくて嬉しいはずなのに、口を開けばつっかかるような言葉ばかり。なのに佐野は嫌な顔ひとつせず、落ち着いた様子でコーヒーを飲んでいる。だが以前の無条件に明るい感じが影をひそめ、うっすらと物憂げな気配があるのは、それだけ年をとったという事なのか、単に少し疲れているだけなのか。
「お姉さんにはもう会ったの?」
「来週会いに行ってくる。今は神奈川の病院に勤めてるんだ。絵梨ちゃんは実家に顔は出してる?」
「必要に応じて」
「どんな必要?」
「姪っ子の誕生祝いだとか、両親の命日だとか。来月あたり二人目が生まれるから、また行くでしょうね。お祝い持って。次は男の子らしいわ」
「そうか、色々とうまくいってるんだね」
「まあ、お兄ちゃんは非常勤のままで、予備校も掛け持ちして働いてるけど、あの人は産休に育休。明けたらすんなり職場復帰して、お兄ちゃんが仕事の合い間に保育所の送り迎えして、家事もするんだわ。そんな感じの円満家族よ」
今の自分はとんでもなく意地悪な顔をしているだろうが、佐野に見られても全く平気だ。
「絵梨ちゃんのこと、うらやましいよ」
「素敵な身内がいて?」
「吹っ切れるだけの条件が揃ってるところがね」
佐野はそう言って、窓の向こうに目を逸らした。絵梨はその顎の輪郭が以前よりも鋭くなった事に、何か悲しいような気分を覚えた。
「別に吹っ切れちゃいないわ。私はただ、置いてけぼりにされてるだけ。そうなれば一人で立ち上がるしかないもの。ねえ、お姉さんって彼氏とかいないの?写真を見る限りではすごい美人だし、周囲が放っておかないでしょ?」
「さあ、忙しくてそんな暇ないって、いつも言ってるけど」
「それってさ、向こうも実は佐野くんの事、本気で思ってくれてるんじゃない?」
彼はそれには答えず、口元だけでかすかに笑った。
ああ、どうして私はこの人をこんな風にいじめるんだろう。
絵梨は自分に腹が立って、前髪をかき上げると溜息をついた。
「失礼なこと言ってごめんなさい。でも何ていうか、私みたいにあちこちぶつかってきた人間と、まっすぐ育った佐野くんが同じような迷路にはまっちゃってるのが、時々どうしても納得いかなくなるの。だけどもしかすると、却って佐野くんの方が大変かもしれないわね。少なくとも私は、こんな目に遭ったんだから、ちょっとぐらい頭がおかしくなってもしょうがないでしょ?って言い訳できるから」
客観的に見て、絵梨は不幸な経験をしてきた人間に分類されるだろう。
幼稚園の頃に両親が離婚して、父親に引き取られた。そして一年生の時に父は再婚。相手には六年生の男の子がいて、子供たちは兄妹になった。新しい母親は穏やかで優しい人だったが、父親は彼女に家を任せきり、仕事で不在がちになった。
絵梨が兄のことを異性として意識し始めたのは、かなり早い頃だったような気がする。中学に上がる頃にはもう兄以外の人間と結婚するなんて想像もできなかったし、その一方で、どうやら自分は間違っているという事にも気づいていた。
それでも、一家が普通の家族として続いていれば何とかなったのかもしれない。しかし高校三年の夏、両親と彼女が乗った車に対向車線から居眠り運転の車が突っ込んできた。両親は即死、彼女は重傷を負った。それ以来、血のつながらない兄妹はふたり寄り添って生きることになってしまった。
絵梨には事故の記憶というものがない。十八歳の夏には何やら頼りない空白があって、その後に始まる思い出は病室の窓から見た黄金色の銀杏並木だ。両親の死をどうやって伝えられたのかも憶えていない。ただ、気がついたら父も母もいなくなっていた、という感じで、長い間、ふいに戻るような気がして待っていたように思う。
そして何度か手術をしたけれど、絵梨の傷は完全には回復しなかった。右脚は少しひきずるようになったし、子供を産むことは不可能になったと言われた。
絵梨は自分は不幸な人間になったと思った。
入院とリハビリが長引いたので、高校三年をもう一度やり直すことになったし、学校に行っても事情を知っている同級生から距離をおかれ、いつも困惑を含んだ笑顔で丁重にあしらわれていた。一足先に進学した友人の母親からは、「真面目に生きてれば、赤ちゃんは産めなくても、きっとお嫁にもらってくれる人がいるからね」と、涙ながらの励ましを受けた。
ただ一人、兄だけが今までと変わらず自分に接してくれた。余計な事は言わず、たまに気持ちがくすぐられるような冗談を言い、少し間抜けで、万事においてゆっくりではあるけれど、決して的外れな事はしない。落ち度があれば説教もされたが、それ以外は何も無理強いせずに、自分の気まぐれやわがままにつきあってくれた。
六年生まで母子家庭で育ったせいで、兄には食事の支度だとか洗濯だとか、何でも自分でこなす習慣がすっかり身に着いていた。兄妹二人だけで暮らすようになって、むしろ困ったのは絵梨の方で、まともに弁当を作れなかったり、ブラウスにアイロンをうまくあてられなかったり、その度に兄の助けが必要だった。
将来について特に目標のなかった絵梨は、高校を出て、流されるように大学へ進学した。難しくなさそう、という理由で私大の社会学部を選んだが、学生生活は予想以上に楽しかった。
それまで通っていた私立高校の、家庭環境も学力も似たりよったりの同級生に比べて、大学の友人たちはさまざまな背景を持っていて、ものの見方もそれぞれ違っていた。彼らと付き合ううちに、絵梨は自分の「不幸」についての考えを新たにした。
自分の「不幸」は「兄と結ばれる可能性ほぼ無し」という事だけだ。他の「不幸」は人から定義されたもので、自分が本当に感じている事ではない。
両親の死は彼女にとって悲しみではあったが、不幸と呼ぶには厳粛すぎる気がした。それは人間が立ち入れないところで仕組まれたものだ。自身も肌を掠めるほど死に近づいたせいで、絵梨はその事を心の深い場所で悟っていた。それに比べれば不幸は人の心が生み出す、物事のありように対するひとつの解釈で、ある意味で暖かくすらある。
そして二十歳を過ぎた頃、絵梨はたった一つの不幸を選び取って、他を捨てた。
それからは、自分でも不思議なほどに全てが気楽になった。ちょうどそんな時期に、アルバイト先のデザインスタジオで佐野と出会ったのだ。
絵梨はただの雑用係で、コピーをとり、郵便を出し、原稿を届け、コーヒーを淹れ、ゴミの分別をし、夜食を買いに走り、熱帯魚の水槽の掃除もした。一方佐野は、アルバイトとはいえ、中堅のスタッフと同レベルの仕事をこなしていた。
そこでは佐野を始めとして、絵梨が会った事のないタイプの人間が働いていた。ちょっとした世間話ですら刺激的で、仕事と遊びの境界線が無いような気楽なスタンス。かと思えば集中力は半端なく、納得いく結果のためには残業どころか徹夜も辞さない。
「みんな真剣勝負してるのよね。私だけぶらぶらしてお金もらってる感じでさ、まあ雑用だから当然なんだけど、これでいいのかな、って焦る時があるの」
ある日、帰り道で一緒になった佐野と歩きながら、絵梨はそんな話をした。
「だったら、絵梨ちゃんも何かやってみたら?」佐野はさらりとそう言った。
「私?無理よ。何もできない」
「でもさ、これでいいのかなって思うのは、心の底に何かがあるからだよ。写真なんかいいんじゃない?こないだ見せてくれたの、みんなも面白いって言ってたし」
「そりゃお世辞っていうか、社交辞令って奴でしょ」
写真、というのは、絵梨が友達と出かけた旅行で撮ったものだった。突然思い立って、すぐに予約のとれる旅館を選んだら、とんでもなくさびれた温泉街で、夜はまだしも、日が昇ると魔法が解けたように廃墟の様相を呈する場所だった。そのすたれきった感じに却って親しみのようなものさえ感じて、街のあちこちや、たむろする野良猫たちを写真に収めてきたのだ。
「あそこの人、みんな社交辞令なんか言わないよ。それは絵梨ちゃんもわかってるだろ?」
「そうかなあ」
「ああいう写真は絵梨ちゃんしか撮れないと思うよ。だからもっとやればいい」
思いがけず熱心に勧められて、その時は何となくはぐらかして終わった。それから二ヶ月ほどして、新人の女子社員と入れ替わる形で絵梨はバイトを辞めた。彼女は大学の四年生になろうとしていて、就職活動の代わりに夜間の写真学校に通い始めた。
ほぼ半月ぶりに戻った古い一戸建ての借家は、暗く静まっていた。絵梨は玄関に荷物を放り出したままで家中の窓を開け放ち、台所と風呂の換気扇を回した。それからサンダルをつっかけて、すぐ近所に住む大家を訪ねた。
夜風は穏やかで、かすかに潮の香りが混じっている。海へ続く大通りに出てから少し歩き、もうシャッターを下ろしている古びた雑貨店の裏手に回ると、彼女は「こんばんは」と声をかけた。「はあい」と小さな応えがあって、勝手口に明かりがつく。
「お帰りなさい、お疲れさま」
出てきたのはエプロン姿の奥さんだった。洗い物をしていたのか、濡れた指先をエプロンの端で拭っている。彼女は去年還暦を迎えたらしく、孫も三人いるが、年よりも若く見えた。
「もうちょっと早く帰るつもりだったんですけど、遅くからすみません。これ、よかったら召し上がってください」
絵梨は手にしていた紙袋を差し出した。中味は仕事先で買った、地元客に人気というクッキーだ。
「いつもありがとうね。晴れ間を見計らって風通しておいたから、カビとかは大丈夫だと思うけど」
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
長期の仕事で家を空けることはよくあるし、不在の間に大家が時々様子を見てくれるのは有難い。
「長旅でお疲れでしょう、早くお休みなさい」という声に送られて、絵梨は自分の住まいへ戻った。
海に近いこの街に引っ越してもう随分になるが、最近では首都圏へのアクセスが良いという事もかなり知れ渡り、単身者だけでなく家族で移ってくる人も増えている。
本格派のベーカリーだとかカフェだとか、いつの間にかそんな店が目につくようになり、街は少しずつ変わってきた。後から越してきた知人によると、絵梨が借りている平屋の家賃は現在の相場に比べてかなりお得らしい。
とはいえ、絵梨の住まいは築三十年で、入居前に水周りをリフォームしてはあったが、風の強い日などは音をたてて軋むことがある。越してきた翌年に大きな台風が直撃して、その時はさすがに一瞬後悔したけれど、翌朝の光り輝く海と抜けるような青空を見たら、やっぱり当分ここに住もうと思った。
家の前には屋根つきのカーポートがあり、引っ越しを機に買った中古のトヨタが闇の中で緩やかに放熱している。掃除に洗濯、買い物と洗車。頭の中で明日の予定を組み立てながら、絵梨は鍵をかけずにおいた玄関に入り、キッチンへ行くと冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して一口飲んだ。そしてボトルを手にしたまま風呂場に行くと湯船に栓を落とし、蛇口をひねってお湯を出した。
「こういう時、恵存って書くんだってね」
「そんなに堅苦しくなくていいよ」
「え、もう書きかけちゃった」
絵梨は溜息をついて、手にしていたサインペンで「存」の字を書き上げた。
「佐野一彦様恵存」、画数の多い「恵」に対して明らかに小さい「存」に思わず苦笑して、「やっぱり新しく書こうか」と表紙を閉じかけると、佐野は「駄目だよ、これがいいんだ」と手を伸ばして引き取った。
B5サイズの薄い写真集。表紙も含め全てモノクロで、地味で部数も少ないけれど、とにかくそれは絵梨にとって初めての作品集だった。
「みんなに恵存って書いてるの?」
「とりあえず身内だけ。お兄ちゃんにそう書けって言われたんだけど、違うのかしら」
「いや、それが正しいんだけど」
「まあ、私のキャラじゃないわよね」
絵梨はサインペンにキャップをするとバッグに戻し、照れ隠しのように膝のナプキンの位置を直した。佐野はもったいぶって表紙を開き、「車関係と勘違いされたりしない?」と笑った。確かに「ハイオク」という書名は紛らわしいが、最初に浮かんだのがそれで、中味も廃屋だけでまとめたので嘘ではない。
「勘違い需要も見込んでつけたタイトルだからね。佐野くんも車好きだから、ムラっと来たんじゃない?」
「それはないけどさ」と言ったところで前菜のテリーヌが運ばれてきたので、彼はその本を鞄の中にしまい、赤ワインの入ったグラスを手にした。
「ではあらためて、写真集出版を祝って」
「ありがとう」
絵梨も素直にグラスを差し上げ、ワインを軽く口に含んだ。佐野は料理だけ絵梨に選ばせ、ワインは自分で決めたけれど、絵梨の舌でも相当高価らしいということは感じ取れた。
噂によると佐野はかなり稼いでいるらしいが、それでもこんなに優雅な雰囲気のフレンチレストランでご馳走になるというのは、何だか落ち着かない事だった。
「絵梨ちゃんもこれで、名実ともにプロフェッショナルだね」
「まあ、ようやく写真と無関係なアルバイトとは縁が切れたけど。正直いって不安ではあるのよね。仕事が途切れたらどうしようっていつも思ってるし、佐野くんみたいに学校で教えられる学歴もないし」
「自信を持って、正面向いて真剣にやれば仕事はちゃんと来るよ。でも、心配だったらうちの事務所に入る?」
「それは遠慮しとく。明らかにカラーが違うし」
佐野は留学から戻り、大学院を出てからしばらくはフリーで仕事をしていたが、二年ほど前から友人の立ち上げた事務所に所属している。
「ねえ、どうして今のところに入ったの?フリーの方が気楽じゃない?それに事務所だったら前のところの方が知名度あるのに」
「まあ、今は学校でも教えてるし、小さいところの方が気楽なんだ」
彼は事もなげにそう答え、長い指でパンを割ってバターを塗った。絵梨が人づてに聞いた話は少し違っていて、その友人の事務所というのが大して儲かっておらず、佐野が入ったおかげで何とか持ち直したらしかった。
人助けだか何だか、優しいところ見せちゃって。
絵梨はむしょうに腹立たしくなってきて、グラスのワインを飲み干した。
「ねえ、もうお姉さんとは一緒に住まないの?神奈川から都内の病院に移ったって言ってたよね」
「絵梨ちゃんが、またお兄さんと住むようなことがあれば、もしかしたら」
「なるほどね」
いまさらこの程度のやりとりでは互いにびくりともしない。絵梨はナイフを置き、佐野の端正な顔をあらためて検分した。
ほぼ左右対称で、鼻筋が通っていて、北国の生まれらしく色が白い。女性的ともいえる、柔和な顔立ちをしているのに、ただ目の光だけは深く暗い色を湛えている。しかしその瞳の暗さに気づかない人間が多いことも、絵梨は知っていた。
「私はもう、一人でいる事に慣れたわ。だけど、それでもたまに、お兄ちゃんと二人だけで、下らない会話を延々と続けたいなんて、思ったりはする」
何も言わずに軽く頷いて、佐野は絵梨のグラスにワインを足し、自分のグラスにも注いだ。いくら飲んでもほとんど顔に出ないけれど、彼は酔うと少し無防備になる。
「ねえ、今夜泊めてくれないかしら。それで明日、噂のマセラティで海を見に連れてってよ。どうせお祝いしてくれるなら、二十四時間ぶっ通しでお願いしたいわ」
突然こんな図々しいことを言っても、絶対に拒まれないという確信がある。そして案の定、彼は少し眉を上げただけで、「わかった。でもあの車、中古だからね」と笑った。
絵梨はシャワーの後で借りたパジャマを着てベッドに横たわり、二つ折りにしたクッションに背中を預けて、同じくパジャマ姿で隣に座っている佐野の膝に足を投げ出していた。
彼はまるでプラモデル作りに熱中する小学生のように、真剣な様子で彼女の足の爪にエナメルを塗った。レストランの帰りに寄ったコンビニで、外泊に必要なものを買ったついでに選んだ、マットなベージュ。
彼女の右脚の中指から小指までの爪は、左よりも小さくて褐色がかっている。
「こっち側だけ、怪我をしてから色が変わっちゃったのよね。やっぱり血の巡りが悪いのかな」
彼はそれには答えず、俯いたままでひんやりとした液体を重ねてゆく。手元を照らすスタンドの明かりだけがほんのりと明るく、部屋の隅は闇に沈んでいる。枕元のスピーカーからは、絵梨がリクエストしたカエターノ・ヴェローゾが低く流れていた。
「ねえ、お姉さんにもこんな事してあげた?」
「手の爪にはね。彼女が高校生だった頃に、よく塗ってあげたな。これから出かけるのに時間がない、なんて時にはね。それで、乾くまでの間に髪も巻いてあげるんだ」
「困った弟さんだ」
「本当にね」
そう言うと、佐野はエナメルの瓶の蓋を閉めてサイドテーブルに載せた。そして絵梨の足を膝から下ろすと、壊れ物でも扱うようにシーツの上に横たえた。
「この爪が乾くまでの間は、何をしてくれる?」
彼女がそう尋ねると、彼は少し考えて、「僕から質問していい?」と言った。
「どうぞ」と答えてクッションの位置を直し、絵梨は彼の言葉を待った。
「絵梨ちゃんはお兄さんが結婚して、彼自身の家庭を持ったことに満足してる?」
彼は自分の足元に目線を落としたままでそう問いかけた。その指は絵梨の爪先のすぐそばで、内側に張りつめたものをシーツの海へとかすかに伝えていた。
「満足っていうか、納得してるかな」
「納得?」
「うん。彼が望んでいる、普通に働いて普通に結婚して、普通に子供を育てるって事を邪魔せずにすんだって、そういう意味での納得。お兄ちゃんは残念ながら大学のポストは手に入らなかったけど、ちゃんと中堅の会社に入って、専門の研究は続けて、それなりに評価されて、奥さんはしっかり者で、健康で賢い子供が二人もいる」
「おまけに妹は写真家で、作品集を出した」
「それは別にどうでもいいの。とにかく、ああ、絵梨さえいなければ、なんて思われてなければ、それでいいのよ」
絵梨はまだ乾ききらないエナメルに触れないよう、注意深く足を組んだ。佐野はちらりとそちらを見て、再び視線を落とす。
「まだ僕とこの部屋に住んでた頃、彼女は家庭のある人と付き合ってたんだ」
そんな話、初めて聞いた。絵梨はそれを口に出さず、ただ「そう」とだけ答えた。
「相手は彼女より一回りほど年上でね、僕が大学に入って、こっちに住むようになった時にはもう始まっていた。彼女は僕と住むことで、けじめをつけようと思ったみたいだけど、それは無理だった。奥さんとは家庭内別居だとか、離婚を拒否されてるとか、よくある言い訳をされたらしいけど、まあ彼女もそれを信じたかったんだろうね」
「誰かを好きになるって、そういうものかもしれないわね」
「初めてそれを知った時、正直いって僕は頭が変になりそうだったよ。こっそり相手の職場に行ってみたり、何度も彼女と口論になったりした。でも結局、そうする事ではっきりしたのは、僕は決してその男の代わりになれないって事実だけだ。
知ってるだろうけど、うちの父親は医者で、僕もそうなる事を期待されていた。でも絶対に嫌だったんだよね。それで、中学受験をするかどうかって時に、彼女に相談したらさ、大丈夫、お医者さんになるのは、私が引き受けるからって約束してくれた。そんな重荷を預けたままで、僕に彼女の何を責められるだろう」
絵梨は黙ったまま、自分の呼吸だけを感じていた。
「だから僕は少しずつ、現実を受け入れる努力をした。ある意味では僕の思い通り、彼女は完全には誰かのものにならず、傍にいてくれるんだから。それにほとんど成功したと思っていたある日の夜、彼女はひどく酔って帰ってきた。今度こそ本当に別れたから、私は大丈夫、一彦さえいてくれれば絶対に大丈夫、そう言って笑ってたのに、次の瞬間には大粒の涙を流してるんだ。それで僕は」
彼はそこで言葉を切り、肩で大きく息をした。
「僕は彼女に触れた。弟と姉じゃないやり方で。自分を抑えられなかった、なんていうのは言い訳で、今だったら、一度だけなら許されるんじゃないかと、そんな風に思ったんだ。でも彼女はすぐ我に返って、僕を拒んだよ。当然だけれどね。
僕は彼女に謝って、すぐに家を出た。その夜は友達の家に泊って、次の日も、また次の日も帰らなかった。そして、学校で留学生審査に応募する書類を出してからようやく戻った。でもその時にはもう、彼女は出ていった後だった」
絵梨は「そうだったの」と言ったつもりだったが、かすれた声は自分でも聞き取れなかった。
「最低なのは彼女に、何もかも自分が悪かったって、そう思わせてしまった事だ。あれからずっと、互いに何もなかったように振舞ってはいるけれど、僕はそんな自分が許せない」
低くそう呟いて、佐野は両手に顔を埋めた。絵梨はただ「お姉さんもあなたも、誰も悪くないわ」と言うしかなかった。
長い沈黙が訪れ、いつの間にかカエターノも歌うのを止めていた。絵梨は身体を起こすと、もう一度「誰も悪くない」と繰り返し、佐野の肩に手をかけた。彼はようやく顔を上げると、なんとか微笑みを浮かべようとした。
「絵梨ちゃんの一番好きなところはね、絶対に泣かないところ」
「私だって、泣くことはあるわよ」
「でも僕の前では泣かない。だからとても安心するんだ」
「それはそうね」と絵梨が頷いてみせると、佐野は彼女の爪先を軽く握った。エナメルはとうに乾いていて、絵梨はその手の温もりで、思いのほか自分の身体が冷えていた事に気づいた。
「ね、もう寝ましょ。それでさ、明日の朝とびきりおいしいコーヒー淹れてくれる?それから車とばして海に行って、帰り道に一番くだらない名前のラブホテルに入ろうよ」
こんどは佐野も少しだけ笑ってくれて、絵梨はそのまま爪先を引っ込めると毛布の下に潜った。
少しのぼせたみたいだ。絵梨は腕を伸ばして窓を半分ほど開くと、夜風を招き入れた。湯船に沈んだ右足の爪は今や親指以外全て褐色になっていて、自分の生命が少しずつ終わりに近づいている事を知らされているような気分になる。
でも別に怖くはない。
流れる時間の中で自分は生きている。その先には死という名の静寂があり、もう一つの世界がある。自分はいつかそこで、両親に再び会うのだろうか。そして佐野ともう一度、語らうことがあるのだろうか。
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