キャラメル

双峰祥子

 雨は一向に弱まる気配もなく、フロントガラス越しの世界は白く煙っている。

 まるで飛行機の操縦だと思いながら、絵梨はカーナビに従ってハンドルを左に切った。

 大名屋敷を移築したという史跡公園の向こうに、待ち合わせ場所であるホテルが目に入る。周囲に高い建物がないので、雨の中に屹立するその姿は巨大な墓標のようにも見えた。

 地下の駐車場に車を入れ、ロビーに上がってから携帯を見ると、由香里からメールが入っていた。予定が押していて、三十分ほど遅れるという謝罪だったが、絵梨には却って好都合だった。

 この隙に何か軽く食べておこう。

 約束していたカフェテラスに入ると、窓際の席に案内された。天井から床まで一面のガラス張りで、その向こうには黒い御影石で作られた浅い池が広がっている。

 灰色の空から落ちて来る雨粒が生み出す波紋は、次々と現れては干渉し合い、消えてゆく。私たちの一生も、何十年をわずか数秒に縮めてしまえば、こういう風に見えるかもしれない。

 絵梨はその考えを意識的に断ち切ると、ハムサンドとダージリンを注文した。

 雨は夜まで降り続くらしい。それはつまり、撮影の再開は明日まで無理という事。

 束の間の自由。

 運ばれてきたダージリンを一口飲んで、絵梨は再び窓の外を眺めた。



「僕から見れば、絵梨ちゃんは自由そのものって感じだけどね」

「まさか、私けっこう不自由よ。別にこの足のことじゃなくて」

 彼女がそう言ってテーブルの下の爪先で軽く蹴ると、佐野一彦は大げさに顔をしかめてみせた。

「佐野くんさあ、昔の中国にいた西施って女の人知ってる?」

 絵梨は肘をついて、少し姿勢を変えた。この店の料理はおいしいけれど、椅子の座り心地はいま一つだ。

「西施?楊貴妃に負けないぐらいの美女だっけ」

「そう。彼女が眉をひそめた顔がこれまた美しかったって言うけどさ、佐野くんもそういう顔すると、美しさが際立つね」

「誉められてるのかな」

「そうよ。こんな言葉、聞き飽きてるでしょうけど、それでも言っちゃう」

 彼は「照れる」という言葉を知らないのではないかと思えるほど、誉め言葉を素直に受け止める。そして野生動物が己の美しさに無頓着なように、容姿についての自意識をほとんど持ち合わせていない。

「西施に喩えられたのは初めてだよ。それもお兄さんの影響?」

「そうね。理系なのに中国の古い話とか好きなの。三国志とかすっごく詳しいから、私も本なんか全然読まないのに、曹操とか呂布だとか、名前だけは憶えちゃった」

「素晴しいじゃない。絵梨ちゃんはお兄さんに英才教育を受けたんだ」

「嫌味なこと言うわね。そのせいでこんなに行き詰ってるのに」

 ウエイターが空いた皿を下げに来て、代わりにデザートのメニューを置いていった。佐野はそれを開くと、絵梨の方へ差し出す。

「どうぞ。僕はここではいつも、決めてるのがあるんだ」

「じゃ教えて。絶対それは頼まないから」

「ベイクドチーズケーキ」

 絵梨は黙って頷くと、ダークチェリーのタルトを選んだ。デザートとコーヒーはすぐに運ばれてきて、二人はそれぞれ自分の選択が正しかった事を確かめた。

「それで、絵梨ちゃんは、家を出るって本当に決めたんだ」

 半分ほどチーズケーキを食べたところで、佐野は最初の話題に戻った。絵梨は皿の上に一粒だけ転がり出たダークチェリーをフォークで刺し、頷いてから口に運んだ。

「これ以上、鬱陶しい女になりたくないんだもの。家は確かに私とお兄ちゃんが半々で相続してるし、二人で住むには何だか広いけど、あの人と一緒に住むには窮屈過ぎる」

「でも、最初はお兄さんが家を出るって言ったんだろ?」

「言いはしたけどね、あの人がそれを許すわけないもの。したたかなのよ。上手にお兄ちゃんのこと操っちゃうわ。

 向こうは正社員だけど、お兄ちゃんはまだポストもなくて非常勤ばっか。そんなだから、ちゃっかり子供なんか作られたのよ。もう六ヶ月だからじき産休に育休で、彼女、お金はとにかく節約したいモードなの。子供はやっぱり広い家で育てたいだろうし、合理的に考えれば私が出て行って、今の家に新婚さんが住むしかないってわけ」

「絵梨ちゃんが一緒に住んでも構わないんじゃないの?」

「冗談じゃない。佐野くんは同じことが起きても平気でいられる?」

 彼はそれには答えず、少しだけ悲しそうな目で微笑んだだけだった。

「私だって他の人にこんな馬鹿な話はしないわ。もう少しまともな人間だと思われたいもの」

「仲間に入れてもらえて嬉しいよ」

「そうでしょ?きょうだいに恋してる人なんて、滅多にお目にかかれないわよ」

「でも絵梨ちゃんの場合、血はつながってないんだから、自然といえば自然な気持ちじゃない?」

「親同士の再婚で家族になって十五年、向こうは完全にきょうだいとして見てるのに、こっちだけ片思いなんて不気味よ」

「不気味か」

 佐野はフォークをおくと、コーヒーを飲んだ。絵梨は急に気まずさを覚えて「何も佐野くんのことを言ってるんじゃないわ」と付け加えた。

「でも、私達って同類だと思う、とは言ったよね」

「それは言った。直感よ。だけど突き詰めて考えなくていいわよ。これは私の問題なんだから」

「もっと別の選択はないの?絵梨ちゃんの実のお母さんのところへ行くとか」

「あれば五年前の事故の時にそうしてた」

「でもその時は絵梨ちゃん長いこと入院してたんだろ?自分で色々決められる状態でもなかったんじゃない?」

「まあね。でもじっさい面倒みてくれたのは父方の伯母さんだったし、母親は再婚先に気兼ねして一度見舞いに来ただけだもの。いくら高校生でもどういう状況かは判ったわ。それに私はもう二十三よ、いまさら親なんか頼れない」

「でも定職にはついてない」

「バイトはしてます。写真も続けてる。お兄ちゃんは、家を出るなら引越しのお金は出すって言ってくれてるわ」

「でも家賃までは出ない」

「そうね、あの人がそんなの許さない。だったら一緒に住みましょうって言われちゃう。でなければさっさとお嫁に行きなさい。でも別にそれはいいの、十分予想してきた。本当に困ったら、水商売でも何でもして稼ぐもの。私はとにかくあの人とは住みたくないの」

「あのさ、絵梨ちゃん、だったら僕と住まない?」

 彼の言葉はまるで外国語のように聞こえ、頭の中で繰り返してからようやくその意味がつかめた。

「といっても期間限定だけどね、奨学金の審査に通ったんで、僕は秋からロンドンに留学する。でも部屋は解約しないでおくつもり。だから、しばらく我慢して一緒に住んでもらって、あとは絵梨ちゃん一人で留守番してくれたら有難いな。或いは、お兄さん夫婦の同居を少し延期してもらって、僕が出発してから移ってくるか」

「でも、佐野くんちって、お姉さんも住んでるんでしょ?」

 彼は黙って首を振った。

「五月から別々。勤務医って本当に忙しいから、病院のすぐ近くに引っ越したんだ。同じマンションに同僚が五人もいるらしいよ」

 それだけが引っ越しの理由じゃない。

 絵梨の直感はそう告げていたけれど、今はそれをどうこう言う時ではなかった。

「だったらとても嬉しいけど、少しでも家賃は払うわ。それで、できるだけ早く引越しさせてほしい」

「お兄さんに、僕からも一言挨拶した方がいい?」

「絶対駄目。たとえ相手が佐野くんでも、嫁入り前の妹が男の人と暮らすなんてお兄ちゃんには理解できないから。でも疑うって事も知らない人だから、女友達と住むって言うわ」



「お待たせしてごめんなさい」

 由香里が現れると、周囲の空気が一瞬で華やぐような気がする。四十も半ばを越えているのに、一回りほど年下である絵梨の友人たちとそう変わらないというか、下手をするともっと若々しく見える。

 整った顔立ち、艶のある髪、仕立の良いスーツ、贅肉のない身体、手入の行き届いた肌。一つ一つが彼女の美しさを構成していたけれど、何よりもやはり内側にあるものが、本人の意思に関わらず光を放っているように思えた。

「水曜は休診なんですけど、雑用がこの日に集まってしまって。段取りが悪くて我ながら嫌になるほど」

「気になさらないで。私、お腹が空いてたので、のんびりサンドイッチなんか食べてたんです」

「そう言っていただけると有難いけれど」

 由香里はコーヒーとシフォンケーキを注文すると、あらためて絵梨に向き直った。

「本当にお久しぶりですね。こんなところまで来て下さるなんて、嬉しいわ」

「いいえ、こちらこそ急に連絡してすみません」

「私達を会わせてくれた、この雨に感謝しないと。こちらではどういうお仕事をなさっているんですか?」

「県のふるさと遺産基金からの依頼で、山間部の廃校を撮ってるんです。一日に三カ所回る時もあって、雨で休めて正直ほっとしてます」

「そうして活躍されてる話を聞くと、こっちまで嬉しくなるわ」

「活躍、って言うか、何とか食べていける程度なんですけど」

「でも目が輝いてる。充実しているんですね」

 そう言って由香里が微笑むと、まるで佐野と話をしているような錯覚に陥りそうだった。彼女がシフォンケーキを食べ始めるのに合わせて、絵梨は自分のカップにダージリンを注ぎ足した。

「由香里さんは、もうこちらの生活には慣れましたか?」

「そうですね、日常のこまごました事は周りの人に教えてもらったりして、少しずつ。うちの子は東京よりもこっちの方がずっと好きなんですって」

「今、おいくつですか?」

「もうすぐ六つ。でも保育所のお母さんの中で私が一番年上みたい。下手をしたら親子ぐらい年が違うんです。東京ではあまり意識していなかったけれど、四十代で第一子はやっぱり少数派なのね」

「そんなの平気だわ。よければ写真とか見せていただけませんか?」

 由香里は「プロの方に?」と笑いながら、携帯電話のディスプレイに画像を出してくれる。

「ちょうど先週の水曜日、運動会だったんです」

 体操服に白い帽子をかぶり、少しおどけた様子で首をかしげている、優し気な顔立ちの男の子。

「笑顔が一彦さんにそっくり」

「この写真は特別よく似ているんです。でも性格はもっと頑固かしら。主人のお父さんに似ているってよく言われます。それでも時々、一彦と同じことを言ったりして、びっくりする事があります」

「いつも、お仕事が終わってから保育所へお迎えに?」

「ええ。でも今日はお姑さんが迎えに行って、夕方まで預かってくれます。同居ではないけれど、車で十分ほどのところに住んでいるので」

 続けて何枚か、息子の写真を見せてくれてから、由香里は携帯電話をバッグに戻した。

 自分にも画像をいくつかもらえないか?絵梨はそう頼んでみようかと思ったが、やはりやめた。私は彼女にとって、過去から来た存在だ。

「正直言って、由香里さんが東京から長野に移られるなんてちょっと驚きでした」

「そう?でも主人の実家があるから、いつかは移るつもりでいました。それが少し早くなっただけ。東京よりある程度不便なのはもう仕方ないとして、自然が豊かだったり、お野菜がおいしかったり、住んでみればいい事がたくさんありますよ」

「由香里さんが、北海道のご実家に帰られることは?」

「年に数回は。こちらに移る時には、父を呼び寄せることも考えましたが、友人や親戚も多くて心強いので、一人暮らしを続けるつもりらしくて。それに向こうには母と、一彦のお墓もありますし」

 そこで言葉を切ると、由香里は自分を励ますように笑みを浮かべ、「絵梨さんはお仕事以外では、どんな風に過ごしてらっしゃるの?」と訊ねた。

「相変わらず、かしら。私も東京を離れて五年以上になりますけど、やっぱり住めば都って感じですよね。でも何がいけないって、ずっと一人暮らしで何とも思わないところじゃないかしら」

 兄嫁からは時々、遠まわしに結婚の予定について問われる。それが絵梨の幸せを願って、だけではなく、自分の子供たちへの先々の負担を排除しておきたい、という考えからだというのはよく判っている。しかし絵梨には結婚が安全保障だとは全く思えなかった。彼女のそういうところが、たぶん兄嫁の神経にさわるのだろう。

 


「ねえ、もしその気になったら、私のベッドに入ってきても構わないからね」

 真夏の夜、佐野がロンドンへ発つ九月まではまだしばらくの時間がある。

 絵梨はダイニングの椅子に胡坐をかいて座り、シャワーをすませて冷蔵庫を開けようとしている彼にそう言った。

 二人が一緒に住み始めて、既にひと月近くなっていた。

 佐野は美大の大学院に在籍していたが、その傍らデザインスタジオで働いていた。絵梨は学生時代に少しだけそこでアルバイトをした事があって、二人はその時に知り合ったのだ。

 モデルだとか役者だとか、佐野はそういう世界で通用するぐらい整った容姿の持ち主だったし、誰に対しても親切な態度で接するものだから、デザインスタジオの女性たちは既婚者も含めて全員が彼のファンだった。

 絵梨よりも向こうが四つほど年上だったが、それを気にする必要もないほど打ち解けて話ができたし、何故だかよく食事やお茶に誘われた。

 他の女性から嫉妬混じりの嫌味らしきものを言われた事もあり、確かに不思議ではあったので、「どうして私のことよく誘うの?」と率直に訊ねたことがある。

 彼は至って真剣な表情で「絵梨ちゃんは僕のこと好きみたいだから」と答えた。

「でも、スタジオの女の人はみんな佐野くんの事が好きよ。自分でも判ってるでしょ?」

「それはちょっと違うっていうか、彼女たちは僕に好かれる自分が好きなんだ。僕のことなんか、別にどうでもいい」

「私は佐野くんといるのは楽しいわよ」

「そう。だからだよ、誘うのは」

 あれから二年近い時が過ぎ、一応は社会人になり、自分も少しは大人になったと絵梨は考えていた。今ではあの時の佐野の言葉が、少し理解できる気がする。そしてさっきのような言葉だって、躊躇なく口にできた。

「絵梨ちゃんに対しては、そういう気にならないな」

 彼は背を向けたままそう言って、冷蔵庫から出したミネラルウォーターのペットボトルを開けた。

「これのせい?」

 彼女がわざとらしくタンクトップを捲り上げ、腹部を走る傷痕を示すと、彼は少し首を巡らせ、視線を一瞬だけ投げてよこした。

「もっと下の方まであるけど、見たいかしら?」

「いや結構」と言われると、更に悪乗りして「でも私、処女ではないの。こんな女の子でも手を出そうって人はいるのよ」と続けたが、タンクトップの裾は元へと戻していた。

「絵梨ちゃんは十分に魅力的だよ。ただ僕はそんな気にならないだけ」

「そうお、じゃあ私がその気になった時には、佐野くんのベッドにもぐりこんでいい?私の最大の魅力は、絶対に妊娠しないところなの」

「了解。でも絵梨ちゃん、今日に限ってそういう過激な事言うのは、何か理由があるの?見たところ、酔ってるようでもない」

「そうね。強いて言うなら、家に荷物を取りに行ったせいかしら」

「それで、お兄さんに会った?」

「いいえ、いたのはあの人だけ。栃木の実家に帰らずにあの家で産んで、お母さんに手伝いに来てもらうんだって。大きなお腹抱えて、暑くてほんとに大変って、それでもアイスコーヒーと手作りのロールケーキ出してくれたわ。アイスコーヒーはね、氷までコーヒーなの。溶けても薄くならないってわけで、もう完璧」

「なるほど」

 佐野はそう言うと、ダイニングテーブルを挟み、絵梨の向かいに腰を下ろした。まだ濡れている髪は艶やかに光っている。

「話を聞く限り、とても親切でいい人だ」

「私だって、ちゃんと友好的な妹を演じてる。女をなめてもらっちゃ困るわね」

「かといって、男をなめるのもどうかな」

「別になめてないわ。ご依頼があれば舐めてあげるけど。けっこう上手だって言われるし」

絵梨がそう口答えすると、佐野はいきなり腕を伸ばしてきて彼女の頬を軽くつねり、手を放してからその目をまっすぐ覗き込んだ。

「黙ってようかと思ったけど、やっぱり言うよ。昨日の夜、ここにお兄さんが来た。君が遅番のシフトでバイトに行ってる間に」

「嘘」

「やっぱり何かおかしいと思ったんじゃない?富谷絵梨の兄ですって名乗られたら、ドアを開けないわけにいかなかった」

「でも、私には何の連絡も来てない。まさか佐野くん、私とつきあってるなんて言ってないよね」

「そんな失礼な事言わないよ。ただ、僕がもうすぐ留学するんで、その間留守を預かってくれる人が必要な事は言った」

「お兄ちゃん、それで納得してた?」

「どうだろう。少なくとも、怒ってはいなかったけど、何だかとても困ったような、面食らった感じだった。それで、絵梨は少し風変わりで時々横暴とも思える事を言いますが、根は優しいので、どうぞよろしくお願いしますって」

 それを聞いた途端、何かが喉元までせり上がってきて、絵梨はのけぞって哄笑した。無理やりそうでもしていないと、苦い涙が溢れてきそうだった。

「絵梨ちゃん、お兄さんは君のことが大好きだよ。確かにそれは、君が期待している意味での好き、とは違うかもしれないけど」

「偉そうな事言わないで。佐野くんのお姉さんはどうなのよ。少しでも自分が期待してる意味で振り向いてもらった事あるの?彼女が誰かさんの子供を産んでも平気でいられる?」

 佐野はそれには答えず、首にかけていたタオルで軽く髪を拭った。そして思い出したように、テーブルに置かれていた小さな赤い紙箱を手に取った。

「キャラメル食べる?」

「キャラメル?」

「友達にもらったんだ。フランスのカマルグでとれた塩が入ってるんだって」

 彼は紙箱を絵梨の目の前に置く。

「ねえ、僕のことお兄さんだと仮定して、どんな風に食べさせてあげたいかやってみせて」

「何それ、くっだらない」

 そう言いながらも絵梨は紙箱を開け、キャラメルを一粒取り出すと包み紙をはがし、「口あけて」と命令した。そして少し冗談めいた顔で言いつけに従った彼の口へ、ぞんざいに押し込んだ。

「次は自分がやってみたら?」と、絵梨は紙箱を彼の方へ滑らせた。

「わかった。じゃあ絵梨ちゃん、まず目を閉じて。それから口をあけて」

「かなりのアホ面になっちゃう」

 文句をつけながらも、彼女は言われた通りにしてみせた。するとその顎を支えるように佐野の指先が触れた。驚いて反射的に身を引き、唇を閉じかけたところへ、彼の唇が重ねられる。その舌が甘く香ばしい小さな塊をそっと送り込んできて、彼女はまるで生まれて初めて食べるもののように感じながら、キャラメルという馴染み深いお菓子を味わった。

「びっくりさせたかな」

 静かに身体を引くと、佐野は少し首を傾けて絵梨に微笑みかけ、自分もキャラメルを一粒手にとって口に含んだ。

「僕って絵梨ちゃんより、よっぽどどうかしてるだろ?」

 平然とそう言ってのける彼に対して、一瞬でもうろたえてしまった事が絵梨には腹立たしかった。

「別に私だってあれ位のこと、考えないわけじゃない。ただ、キャラメルじゃなかったってだけの話よ」

「なるほど」

 彼は素直に強がりを受け入れてくれたように見えた。しかし絵梨は自分の頬が熱いままなのを隠すわけにもいかず、憮然とした表情で甘い塊を舐め続けた。


「後悔とかしている?」

 女からこんな質問するのもどうかと思ったけれど、絵梨は訊かずにはいられなかった。

 ベッドの隅に追いやられていた水色のタオルケットを手繰り寄せて羽織ると、身体を起こす。ずいぶん長い間ぼんやりしていた気もするし、そうでもないようにも思える。

 佐野は重ねた腕を枕にしてうつ伏せに横たわったまま、何も言わずに少しだけ彼女の方へ首を廻らせ、その黒い瞳を閉じた。長い睫毛がベッドサイドの明かりを受け、頬に影を落としている。

「こんな事言うと理性を疑われるかもしれないけど、私ね、佐野くんのことを一種の天使だと思ってるの」

「それは本当にどうかしてる」

 彼は目を閉じたまま、そう答えた。

「まあいいじゃない、私の考えなんだから。で、放っておいたらそのうち天に戻ってしまうんじゃないかって気がして」

「それが今夜、僕の部屋に来た理由?」

「そうよ。貴方はもう堕天使だから、ずっと地上にいなくてはならないわ」

「僕はずいぶん前から堕落してる。ご心配には及ばないよ」

 絵梨はタオルケットの中で両膝を抱えた。心配。確かにそれは自分の一方的な感情かもしれない。

 佐野の出発までひと月を切ってからというもの、彼女は何故だか彼ともう二度と会えなくなるような予感に苦しみ始めた。冷静に考えれば、それはただの寂しさで、いつも自分の好き勝手な行いを容認してくれる、いわば兄の代わりとしての存在を失いたくない、という甘えだ。しかしその一方で、彼の身を案じるような、そんな懸念がとりついて離れないのだった。

「ね、佐野くんてさ、初めて女の人と寝たのはいくつの時?」

「高三の夏だから十八かな」

 事もなげに答える、彼の白い背中に浮かび上がる肩甲骨は、まるで一対の翼だ。

「相手は?同級生?」

「ううん、たぶん十ぐらい上だったと思う」

「本当に年上が好きなのね。どこで知り合った人?」

「予備校の先生。美大受けるのに、実技のデッサンを習ってた」

「それで別な実技を教わっちゃったんだ」

 思わずそう茶化すと、佐野はわざとらしく溜息をついた。

「そういう下品なことを言わなければ、絵梨ちゃんて本当にいい子なのに」

「別にいい子って年でもないし。でもさ、その人のこと好きだったの?」

「まあね。高校の頃って、姉さんはもう東京の大学に行ってて、父は病院が忙しくてほとんどすれ違い。食事やなんかは家政婦さんがやってくれてたけど、とにかく家に一人でいるのが嫌で、そのために遅くまで練習があるバスケ部に入ってたぐらい。でも部活を引退したら本当に空っぽな感じがして、まあ予備校の彼女もきっと、それに気づいたんだろうね」

「ふーん。でもまあ、いい話じゃない。ドラマみたいで」

 絵梨がそう締めくくろうとすると、佐野は肘をつき、脇腹を下にして彼女の方を向いた。

「それで、絵梨ちゃんは?」

「え?私?」

「僕の話だけ聞いて終わりってのはずるいじゃない」

 そう言われると、途端に奇妙な対抗意識が頭をもたげる。

「私は一年ほど前。相手は写真学校の同級生」

「つきあってたの?」

「ていうか友達ね。昼間は会社勤めしてる人でさ、たぶん佐野くんと同い年じゃないかな。なーんか笑いのツボが合うから、喋ってると楽しかった。その人が作品展で私の写真撮りたいっていうから、だったらやっぱり裸でしょ、って」

「絵梨ちゃんからそう言ったの?」

「ちょっと気持ちを読んであげた感じね。気が弱くて、真剣な話のできない人だったから」

「なるほど。優しいね」

「どうかな。私もちょっと、そんな写真撮ってみたいという気があったの。私の裸ってインパクトあるじゃない。プロポーションじゃなくて、傷のつき具合だけど。それでさ、ちょうど今の佐野くんみたいな感じで横になって」

「なるほど」

「撮影は普通に終わったんだけど、途中でふと思いついたの。使用前、使用後みたいな感じで、未経験と経験済みでそっくり同じ写真撮ったら、見分けがつくかなって。まあそれで実行してみたわけ」

「その彼は、嬉しかったんじゃない?」

「どうだろう。いや困るよ、マジかよー?って、言ってた割にやったけどね。でも結果としては失敗というか、写真は別に見分けのつくもんじゃなくて、私ですら判別不可能」

 佐野はくすっと笑って、「それで写真は作品展に出したの?」と訊ねた。

「うん。一枚だけね。どっちを出したのか知らない。で、彼がタイトルを「石女」ってつけたら、それはちょっと、って駄目出しされて。私は初めて聞く言葉だったけど、石と女で「うまずめ」なんて、すごいと思ったのよ。でもなんか使っちゃいけない言葉らしくて」

「聖書にも出てくる言葉だけどね」

「そうなの?あの時それがわかってればね。とにかく、彼はそこで踏ん張れる人じゃないから、「一匹娘」ってタイトルに差し替えたの」

「その彼とは今も会ってる?」

「ううん。もう結婚してるわ。彼はずっと職場の女の子とつきあってて、子供ができてそのままゴールイン。今は奥さんの実家の八百屋さん手伝ってる」

「絵梨ちゃんと並行してつきあってたの?」

「そういう事にはなるわね。でも私たちは本気じゃなかったもの。六月に友達のウエディングパーティーでばったり会ったら、絵梨ちゃんごめん、あの写真もう無いんだ、って謝られちゃった。奥さんが、あんたもう八百屋なんだからそっちに集中しろって、作品全部捨てたらしいわ」

「すごいね」

「でも、そういうしっかりした奥さんだから、彼には合ってるかなって思ったわ」

「じゃあ、その写真ってもう見られないの?」

「ううん。私は経験前経験後、セットで持ってる。でも家に置いてきた。何かの拍子にお兄ちゃんが見てくれたら嬉しいな、なんて考えてね」

 多分永遠に起きない、そんな可能性をいちいち想像して、時限爆弾を仕掛けた気になっている馬鹿な自分。

「僕はその写真、見分けられるかもしれないな」

「ぜったい無理だって」

「でも、他人にしか判らないことってあると思わない?」

「例えば?ここにホクロがあるとか?」

 絵梨が手を伸ばし、佐野の右耳の裏にある小さな黒いしるしに触れると、彼はその上から指を重ねた。

「それとか、絵梨ちゃんはふだん憎まれ口ばっかりなのに、僕の腕の中では子猫みたいな声を出すとか」

 一瞬、ほんのしばらく前に二人の間で起こした炎が甦った気がして、絵梨は小さく息を呑んだ。どうせ向こうは社交辞令程度だろうとたかをくくっていたのに、思いのほか遠くまで連れて行かれて、自分の一部はまだこの部屋に戻っていないような感じ。それを見透かされたようで、急に腹立たしくなってくる。

「うるさい。どうも、お邪魔さまでした」

 つっけんどんにそう言うと、絵梨は佐野の身体を乗り越えて、床に落ちたTシャツを拾おうとした。彼はその腕を捕らえてそのまま抱き寄せる。

「朝までいてくれないの?」

「別に、いいけど」

 絵梨は自分が彼の肌の温もりに抗う術を持たないことに当惑した。そして思い直す、そのために自分はここにいるのではないのか?それが偽りの絆であろうと、彼を地上にしっかりと結びつけておくために。

「ねえ、佐野くんが出発するまで、わたし毎晩ここで眠っていい?」

「もちろん、絵梨ちゃんが望むなら」

 佐野を知るほとんどの女の子が、こういう時間を共に過ごすことを望むだろうに、絵梨はとても冷静な気持ちで彼の胸に耳を押し当てた。その奥底にある心臓は、彼女の存在とは無関係に落ち着いた律動を繰り返し、彼女が未だ会ったことのない女性の名前を刻み続けていた。



「一人でも平気っていうのはね、絵梨さんが強いからよ。きっと、どこででもしっかりと生きていけるわ」

 まっすぐにこちらを見つめる由香里の声には、とても真摯な響きがあった。同じような言葉でも、内に包んだ悪意しか伝えてこない時もある。もちろんそんな「悪意」に反応するような絵梨ではなかったが。

「さっき廃校の撮影っておっしゃったけれど、これからもずっと、そういう場所を撮っていくつもりなんですか?」

「依頼があれば他のものも撮りますけど、基本的には、人間のいない場所を」

「でも、いつも思うのだけれど、貴方の写真からはとても強く、人の気配がしますね」

「それは当然かもしれません。私が撮るのは、人に愛された記憶のある場所だから」

 絵梨がそう答えると由香里は静かに微笑み、自分を納得させるかのように頷いた。

 

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