魔女の乳房

ひじり

第1話 少女ニイナ

 森の奥にひっそりと佇む家。町の喧騒から遠く離れ、心地良い静寂に満ちている。


 ある日、一人の少女が私のもとにやってきた。

「わたしに魔法を教えてください!」

「は?」

 突然の来客に戸惑い、思わず間の抜けた声が出る。


「一生のお願いです。魔女さんのためならどんなことでもします」

 少女は私に詰め寄り、必死で頼み込んだ。


「そうは言われても……」

「土下座ならこの通りです!」

 玄関口にへばりつき、一向に離れる気配を見せない。どうしたものかなあと思い、私は彼女の顔を覗き込んだ。伏し拝んだまま、ぎゅっと目を瞑っている。


 不意に視線が合うと、少女はぱあっと笑顔になった。

「もしかして、教えてくれるんですか?」

「いやまだ何も言ってませんけど」


 正直なところ、私は魔法を教えたくない。

 使えたら便利なものだと思うけど、事故やトラブルは絶えないし、厄介事に巻き込まれることも少なくない。それは自分自身が身を以って経験してきたことだ。

 ここは丁重にお断りして、さっさと帰っていただこう。


「ごめんなさい、私忙しくて教えられないと思うので」

「大丈夫です、一生懸命勉強します」


「あ、でもちゃんと見てあげられないかも」

「気にしないでください、一人は慣れているので」


「あ、でもやっぱり……」

「お願いします。わたしに魔法を教えてください!」


「…………」


 どうにもまったく話の通じない子だった。聞く耳を持たないというか、譲る気がないみたいだ。ただその頑固さには、ある種の執念のようなものが感じられる。


 彼女はじっと、私の目だけを見つめていた。真っ直ぐとして、ひねりのない表情。滲み出る真剣さには、想いの強さが込められている。

「分かりました。魔法をお教えしましょう」

 そう言うと、彼女は飛び跳ねながら喜んだ。度胸だけは認めなくてはならない。



 その子の名はニイナといった。両親はいない。

 修道院で生活しており、森の家へは黙ってきたらしい。町に帰ったら叱られるかもしれず、本人はしきりに泊めてほしいとせがんだ。余程怖いシスターでもいるのだろう。ここまできたからには半端なこともできない。私は一緒に住むことを許可した。


 陽が沈み、森の中が一層暗くなる。風は木々を震わして、ざわざわと騒ぎ立てた。

「どうしてニイナはこの家まで来たんですか? 他にも当てはあったでしょう」

「そんなことないです。山奥で見つかりづらいですし、距離もあって良い場所です」


 ひんやりとした空気に、彼女のショートヘアがなびく。夜のベランダは、話をするのに丁度よい空間だ。月の仄白い明かりが二人の頬を照らしてくれる。


「それに、魔女さんが優しい方で本当に良かったです」

「何を言いますか、明日の朝から特訓ですよ。私も本気でいきますからね」

 なんだかくすぐったい気がして、私は少し強がった。ニイナが小さく笑うのを見て、自分も微笑ましく思う。



 朝、窓を開けるとやわらかな風が流れた。川のせせらぎ、鳥のさえずる声が自然の中で反響している。今日から修行が始まるのだ。


 ひとまず私は、魔法の基本原理や仕組みに関する書物を彼女に読ませることにした。あらかじめ選りすぐったものを渡すことで、一から百まで全部の基礎を学んでもらう。

 次に単元ごとのテストを作成。合格点を満たさなかった場合、同じものを学びなおすよう規則も設けた。こうすれば、知識の抜けをなくすことができる。


「今日から特訓ですね!」

「そうですね、まずはこの三冊。まるまる頭に叩き込んでください」

「了解です、先生!」

 ニイナは満面の笑みで分厚い本を抱えた。それから丁寧にページをめくっていく。


 そのときの自分は、すぐに音を上げるだろうと思って高を括っていた。

 しかし思いのほか根性のあった彼女は、あらゆる知識をスポンジのように吸収していった。試験はやるたびに満点を獲得し、みるみる成長していくのが分かる。私が意地悪で抜き打ちテストをしても、動じず高得点を取り続けた。


「あなた、もしかして天才ですか?」

 彼女の才能は、実に輝かしいものだ。

「そういうのやめてくださいよ。先生の教えが効いてるんです」

「私に教えた記憶はないのですが」



 こうして、ひと月も経たないうちにニイナは基礎知識を全て身に着けた。


 朝靄の中、孤独な森で感傷に浸る。

「先生、わたしやり遂げたんですね」

「よくがんばりました」

 あっという間に過ぎ去った日々。今世で一番濃い時間を送っているのは私たちではなかろうか。


「わたし、もっと勉強したいです。そして先生みたいな魔女になりたい」

「まあ今日くらいは軽い気持ちでいましょう。これから二人で宴をするんですから」

 一日限定お疲れパーティと称し、森の家はおおいに盛り上がった。豪勢な食事をし、庭を駆け、動物と戯れ、力尽きるまではしゃいだ。


 やがて辺りが暗闇に支配されると、私たちはベランダで寝転がった。淡い月光が、静謐な空間をさらにひそやかなものへと仕立てる。


「少し騒ぎすぎたかもしれません」

 ニイナはどうも反省しているようだった。

「でもたまにだったら良いですね。こういうのも」

「そうですね、たまにだったら楽しいと思います」

 朧げな感覚の中で、私はすっかり魔法のことを忘れた。



 翌日、なんとか寝坊せず目覚めることができた。ニイナはすっかり眠っいる。前日のパーティがあるから、今回ばかりは仕方ない。


 朝食のトーストをかじりながら、今日の計画を考えてみる。座学が終われば、次は実技しかないだろう。これは何かを読んで学ぶよりも、見様見真似でやってみるのが効果的である。手本は私がやるとして、どんな魔法を試そうか。


 悩んでいると、ニイナが起きてきた。ぼさぼさになったショートヘアを見て、私は一つ思いつくものがあった。

「ニイナ、空を飛びたいとは思わない?」


 木漏れ日が斑点を描く大きな庭。強い風もなく、箒を扱うには最高の場所だった。

「それじゃあまず、私が飛ぶのを見ていてください」

 愛用の箒に跨り、自分が宙に浮く姿を想像する。

 途端、身体が軽くなり、箒と私は重力に逆らって上昇を始めた。ある程度の高度までくると、思うがままに舞ってみせる。


「すごい……」

「簡単ですよ。何かを唱えるわけじゃないですし、考えることでもないですから。ただ想像し、飛ぼうという意志があればいいんです。では、やってみてください」


 庭を見下ろし、その時を待った。

 箒に跨るニイナをじいっと見つめる。私はただ待つことだけに集中した。

 彼女を見守り、少しだけ応援。戸惑っているみたいだったが、ここは心を鬼にして辛抱である。


ひたすら待った。だが、いくら眺めていても動く気配がない。

 様子がおかしいと思って、一度降りてみる。


「どうしたんですか?」

「いや、どうしても飛べないんです」

「大丈夫ですよ、諦めないで挑戦です」

「わかりました」


 ニイナは一生懸命だった。

 目を閉じ、持ち前の集中力で、ひたすら空を飛ぶ姿を想像した。


 日が暮れても、彼女は箒に跨っていた。



 次の日も、その次の日も、またその次の日も。ニイナは空が飛べなかった。


 そもそも、宙に浮くことさえできなかった。見習いの魔女だって取り組んでいる箒の操縦が、彼女にとっては非常に難しいことだった。


 それだけじゃない。蝋燭に火をつける呪文、微かに風を吹かせる呪文、水滴を大きく膨らませる呪文。何もかも、彼女には難しかった。


 これらは全て、初級者用の簡単な魔法だ。基礎の魔法を徹底して学んだ彼女なら、できて当たり前の範囲。


では、なぜできないのだろう。私は彼女に問うた。


「先生、心配しないでください。いつかできます。きっといつかできますから、もう少しだけ待っていてください。わたしは今までが上手くいきすぎていたんです。だから、気にしないで。自分も、そこまで気にしていないので」



 私はありとあらゆる可能性について考えた。


 術行使不全、魔力欠乏症、トラウマ。どれもパッとしない。

 それでは、何か別の病におかされているのだろうか。


 ニイナを病院に連れようする。

「絶対に行きません。町に行ったら叱られてしまいます」

 そう言うと頑なに首を振った。


 叱られたっていいじゃないか、私がついているのに。

 なぜ、だめなんだ?



 ある晩、私はニイナをベランダに呼んだ。

「最近どうですか? 魔法の調子」

「全然です。これっぽっちも成功しません」

 彼女はえへへと言って、笑った。

「なんで、成功しないんだと思います?」

「さぁ。わたしにはさっぱりです」


 夜風が吹いて、妙にうるさい。


「でもね、先生。わたしは魔法が使えなくても、大丈夫です。

 先生が一緒で、とても優しいから、幸せです」


 月の光がニイナの頬を白く輝かす。本当に満ち足りて、幸せな顔。


ただ私の優しさは、今の彼女のためにあるのではない。もっと先の、未来の彼女に捧げるためあるのだ。だから変わらない今を、幸せな今を疑わなきゃならない。


「ねぇ、ニイナ。本当のことを言ってくれませんか」

「何のことです?」

「嘘をついていますよね」

「どうしてですか?」

「分かっているなら、話してください」


 彼女は少し黙って、私にもう引く気がないことを悟った。


「バレてたんですか」

「いえ、ハッタリです」

「そう。先生らしいですね」


 そこで彼女は服を脱ぎ始めた。何もかも取り払い、素っ裸になる。

 私はこれだけ長い間一緒にいて、一度もその姿を見ることがなかった。


 それはなぜか。


「男なんです」

「なるほど。でも魔法が使えるのは魔女。女でなくてはなりません」


「えへへ。笑っちゃいますね。女が良いなら、なんでわたしはだめなんだろう。男だから? わたしは自分が男だなんて一度も思ったことありませんよ」


「身体が男なら、どうしようもないんです」


 顔がぐにゃりと歪む。辛く悲しい現実に耐え切れず、嗚咽や涙を吐き出させる。


「……わたし男じゃないよ? 女だよ。 なのになんで……?」


 ニイナは、私の乳房を掴んで泣き叫んだ。


 これが欲しかったと、言わんばかりに。

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