第8話

 ピピピ―。

 朝の始まりを告げる音だ。俺は枕元に置いてある携帯に手を伸ばす。時刻は8時。携帯の明るい画面を見ていると段々と目が覚めてきた。ここで、俺はいつもと違う部屋で寝ていたことを思い出す。携帯を枕元に戻し、俺の腕の中で眠る彼女を抱き寄せた。ハグをすると幸せホルモンであるオキシトシンが分泌されるというが、俺もその例に倣っているようだ。冬だし、こうしてくっつき合っていると温かい。この心地よさをずっと堪能していたいものだが、刻刻と俺の始業時間には近づいてきている。彼女を起こさないように俺は体を起こした。しかし、俺の気遣いは届かず、彼女も目を覚ましたようだ。

 「んー、眠い。」

 「おはよ、起こした?ごめん」

 「ううん。ええよ。今何時?」

 彼女が眠そうにゆっくりと言葉を紡いでいる。寝起きだからなのか、イントネーションと言葉が関西弁だ。昨日も関西出身だと匂わせる発言があったが、もしかするとそうなのかもしれない。はたまた、関西人になる夢でも見ていたのか。俺はそんなことを考えながら、彼女の髪を撫でた。寝起きの女の子はみんな可愛いものだ。

 「8時。仕事は何時から?」

 「んー、、、。8時かぁ。仕事は9時。、、、って8時!?」

 彼女は突然飛び起き、「やばい、目覚ましかけ忘れた!」と、大慌てで身支度を始めた。起こさないように気を遣っていたが、結果として彼女を起こさせるようになって良かった。俺は彼女と一緒に出た方が良いだろうし、少し急いで身支度をした。彼女は歯ブラシを咥えながら、せっせと準備を進めている。ものの5分程度で準備を済ませた彼女は「これ、閉めたらポストに入れといて。じゃ、急いでるから!」と、机に鍵を置いた。

 一人に家に残された俺はまだ時間に猶予があるので、ゆっくりと準備をした。洗面台を勝手に拝借して、顔を洗っていると窓の外からヒールで走る音が聞こえてきた。この家の玄関でその音は止まり、玄関が開いた。「携帯忘れた!」と布団の近くに置いてあった携帯を手に取り、鞄にしまった。彼女は「今度こそ、バイバイ!」と、玄関で手を振ってくれた。俺も玄関に出て「おう、気をつけろよ。」と、伝えた。彼女は「ありがと。」と、笑って返事をした後、走って駅へと向かった。

 それにしても忘れ物の多い女だ。アラームは付け忘れているし、携帯も忘れるし。俺もその後すぐ身支度を終え、家を出た。

 彼女の家から駅に向かう途中で、昨夜のことを思い返していた。俺たちはチョコを食べたあと、体を重ねた。特別に気持ちが良い訳でも相性が良い訳でもなく、ただ行為をしたという感覚だ。燃え盛るようなセックスなんて映像や漫画の世界だろうし、こんなものだ。それにしても変わった女だった。嫌いな食べ物を普通は選んで食べるのだろうか。否、食べない。少なくとも俺は嫌いな食べ物をわざわざ食べるような悪い趣味は持ち合わせてはいない。そもそもだが、彼女はチョコが本当に嫌いだったのだろうか。そこも疑問である。

 彼女のことを考えていると、気づけば駅に着いた。案外昨日歩いた道を覚えており、迷わず辿り着くことができた。俺はsuicaを取り出すため、ポケットに手を入れた。冷たい金属のものに手が触れる。「あ。」忘れものは俺にもあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空虚の君へ 朝比奈 里香 @sakuya225

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る