第38話 不通

 寒さの厳しい冬の朝、布団の中で身震いと同時に目を覚ます。

 コンクリート壁の小さな部屋は冷え切っており、木張りの床に薄い毛布ではこの季節はどうにも耐えられそうにもない。寒さで起こされるのも、もうこれで何度目だろうか。


 そんな気候に対する苛立ちを覚えながらも、俺の心は存外澄み切っていた。

 冷たい部屋で頭が冴えているとかそういう比喩の話ではなく、今まで朝起きる度に体に巻き付けていた枷が全て取り払われたような感覚だ。


 それはやはり、以前のヒロとのやり取りが関係しているのだろう。

 自分の弱さを認め、自分には無理だと伝えた瞬間、自尊心の失望と共に全身が身軽になったような気がした。自らが不可能なことを認めたとき、はじめて己を見つめなおすことができたのだ。


 人にはきっとそれが大切なのだろう。

 何かを隠し通すことはそう難しいことではない。白を切り、嘘をつき、言い逃れていれば隠していることは伝わっても、その本質までは分からない。しかし、分からないからこそ伝えることが大切なのだ。己の弱みをさらけ出すことは、己の弱みと向き合うこと、そうして初めて人は自分が何かわかってくるものだ。


「……」


 一つ大きなあくびをして布団から這い出る。起きると言うにはまだ早い時刻だが、この寒さではもう一度寝付くことも容易ではない。


 潔く起床してダラダラと朝まで時間を潰すことが好ましいだろう。

 立ち上がり洗面所へと向かう。冷えた室温は床にも浸透しているのか、足元から届く温度はキンと体をこわばらせた。


 水栓をしてレバーを傾ける。すると程なくしていかにも冷たそうな水が溜まり始めた。こんな時期にわざわざ冷たい水を選ぶと言うのはいかにも貧乏人のようだが、それも仕方ない、実際俺は貧乏人なのだ。寒さくらいは甘んじて受け入れよう。

 水が溜まりきったのを見てレバーを上げ、顔を水面にまで近づけた。

 しかし、俺は遂に水に自らの顔を付けることはなく、寸前で鼻先を留まらせた。


「…………」


 なに、今さら水の冷たいのに怖気づいたのではない。

 ただ俺は、いかにも冷え切って透きとおり、その水底までしっかりと目視できるはずのその水が、何故だか昏く、黒く、くすんで見え、

 そのどうしようもない引力に魅せられただけなのだ。

********


 扉を開けた途端、銀鈴に吹く風を思わせるような冷気が顔に飛び込む。一度こそ引き返し体制を立て直すが、不思議なことに少し前まではただ冷たいだけだったそれが、今ではそれが風流だと感じられる。体感する気温は以前より低くなっているというのに、精神的には苦痛はなくむしろ心地よく思ってしまうのだ。


 それでも季節の変化はあまりに顕著で、踏みしめていた霜は次第に感触を柔らかくし、道路の隅で震えるように咲いていた花は毛布のような白を身に纏い、あるいは顔を隠してしまっている。

 そんな景色を横目に捉え、足早に路地を通り過ぎていく。休日の朝に人の気配は少なく、季節も相まって生命の音はどこまでも静かだ。


 路地を抜け、ほんの少し歩いて行くと次第に目的地が見えてきた。

 能面のように装飾のないコンクリートの壁で周囲を覆い、赤褐色の屋根と取って付けたように等間隔に置かれる、滲んだ柿色の扉。まるでコンテナを二段積み上げたように無造作に構えるハイツだ。


 ここへ来るのは実に珍しい。

 つい一週間ほど前にも寄ったのだが、それこそ数か月のスパンを空けての来訪だ。実際にここへ来るのはこれで四度目だろうか。

 それほどにここへ来るということは、僕自身が切羽詰まっている状態の時にしか来ないのだ。前回はまさにそうであったのだが、今回に関してはどちらが焦っているのか、それとも誰が焦っているのか全く分からない。


 だからこそここへ来たのだ。


「…………」


 鉄の鳴る音を響かせて目的の部屋の前に立つ。扉を数回ノックするが返事はない。念のため携帯電話にも着信を入れてみるが応答する気配は一切感じられない。


「…………」


 もう一度今度は先程より強く叩いてみるが、やはり扉の向こうから返事はない。

 諦めかけ、最後にドアノブに手を当ててみる。甲高く軋んだ音を立ててそれを捻ると、軽い感触と共に扉が開けた。


「不用心なのか、それとも……」


 二つの可能性が脳裏をよぎったが、そんなことよりもまず家内へと侵入する。

 ユニットバス付きの狭いワンルーム、テレビなどの電子機器は少なく冷蔵庫と電子レンジがあるだけだ。リビングには中央に布団と毛布が片づけられていないまま雑に放置されている。生活感のある部屋だが、人の気配は全くしない。

 念のためバスルームを覗いてみるが、当然そこに誰かがいるわけがない。洗面所に水が張ってあるだけだった。


「やっぱりいないか……」


 小さくため息をついて部屋を後にする。

 携帯電話を取り出してハルへと着信した。ワンコールを終えるよりも早く電話はとられた。


「ああハル――うん、やっぱりいなかった――わからない。けど一週間もいないとなるとやっぱり――うん――あの二人に頼むのは気が引けるけど――そうだな、わかった」


 階段を駆け下りて、また目的地を設定して走り出す。こんなことなら自転車にでも乗ってくればよかった。しかし、僕の家からだと距離はあるが、ここからだと案外早く行けることが救いだろう。


 白い息を弾ませながら足を前に運んでいく。

 今度の目的地はあの二人が待ち構える廃ビルだ。

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水の人 吉正 @44masa

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