第37話 水

 ジンからの連絡もといハクが僕の家へ訪れた。

 ジンの代わりにまたハクが手伝ってくれるものかと思っていたが、そうではなくハクは本当に連絡を届けに来ただけのようで、僕が向かうべき目的地を告げると、颯爽と窓から飛び出してしまった。

 幸いにもハクに告げられた場所はこの近所で、僕も土地勘がある。ハクから伝言を受け取った僕はすぐにその場へと向かった。


 場所は立体駐車場跡地、数年前までは僕らが通う学校への最寄り駅やバスターミナルと連携していて、小規模だが多数の自転車と上階では自動車の駐車にも使用されていた。

 しかし、学校との距離がさらに近い駅に快速車両が停車することをきっかけに駅そのものの使用が激減。駅とバスターミナルは今でも何とか稼働しているが、駐車場だけが潰れてしまう形になった。

 僕が小学校に入学するころには既に使用されていなかったようで、ハルと一緒に秘密基地として遊んだ記憶もあり、案外ここには思い入れがあるのだ。

 歩いて駐車場の前まで来る。十数メートル先には駅とバスターミナルがあるが、遠目から見ても人の気配は無に等しい。昔はある程度賑わっていたのだが、今では活気を失い無人駅にする案も上がっているらしい。


 殺風景な様子を横目に駐車場の中へと這入っていく。自転車を誘導する通路を通りさらに奥へと進む。

 廃ビル程ではないがここも光の入りが悪く、若干の薄暗さと薄気味悪さが漂っている。


 なんだってジンは僕をこんなところに呼び寄せたのだろうか。

 こんな荒廃した場所でしか出来ないような話をするなど、むしろ胡散臭さを際立たせているようなものだ。


 壁に着けられた矢印を頼りに奥へと進むと駐輪スペースに辿りつく。それと同時に僕は気が付いた。というか納得した。

 いや、納得はしていないし、むしろこんなところに来るように言ったジンへは憤りしか感じないのだが、ここを指定した意味には見当がついた。


「なんだよそれ……」

 思わず声が出る。


 眼前では、数日前にハクと戦っていた嵐鼠(ランぺスタと言ったか?)が二体、リュートと対峙していたのだった。

 それも戦闘に入ってから随分と経っているのか、辺りは針とそれが刺さった跡で埋め尽くされている。


 しかし、嵐鼠に満身創痍という感はなく、それどころか嵐鼠の特徴である丸くなり全身を防御する行動も起こしていない。ただじっとリュートを見つめていた。

 リュートも嵐鼠二体を視野に入れながら、少しずつ距離を縮めている。その表情は真剣そのもので、僕がここにいることにもまだ気が付いていない様子だ。


「キィィィィ!」


 リュートが嵐鼠に飛びかかろうとした瞬間、嵐鼠が甲高い声を響かせる。その声に少し顔をしかめたようにしたリュートだったが、気にせず嵐鼠と距離を詰める。

 両手でしっかりと握った剣を嵐鼠の一体に振り下ろすが、嵐鼠は小さな体を跳躍させ背面を剣に向ける。

 リュートの剣はジャンプの勢いと嵐鼠の棘と衝突し、鋭い金属音とともにはじき返された。短い舌打ちが聞こえてくる。

 しかしリュートは弾かれた反動を利用して腰を回すと、今度は剣先を向けず腹で嵐鼠を狙った。一匹はかろうじて後ろに回避するが、宙を舞っていた一匹には見事リュートの剣が直撃する。

 嵐鼠は吹き飛ばされ遠くの壁に強く衝突した。


「キィッ!」


 残された一匹がいっそう強い声を鳴らす。

 それと同時にリュートに背中を向けるとそこに生えた棘をリュートに発射した。


 あとほんの少しで胸元を掠める前にリュートは剣を盾代わりに防御する。そしてすぐさま攻守一転。剣先を下に向けて握りこむようにしたリュートは、それを無防備な嵐鼠目掛けて突き刺す。


 勢いつけて放った一撃だが嵐鼠の棘は固く、リュートの剣は密集した棘とせめぎ合い、遂には嵐鼠の表皮に傷をつけることはなかった。

 そうして攻防が一旦止まったかと思うと、突如剣を握ったリュートの腕にもう一体の嵐鼠が飛び込んできた。


「……!」


 リュートの鈍い声がこちらにも聞こえてくる。

 先程リュートに飛ばされた嵐鼠は痛みを感じる気配もなく、体を棘で装甲するように丸めて、そのままリュートの腕に飛びついてきたのだ。

 機を見るが如く飛び出した一匹に呼応するように、もう一匹も体中の棘を鋭く伸ばしてリュートへと飛びかかる。


 かろうじてリュートは、もう一匹を横に移動することで回避すると、腕に刺さった一匹を剣の柄で叩くことで払い落とした。

 嵐鼠の棘が深々と刺さった腕からは、痛々しく血が滴っている。


 しかし嵐鼠はそんなリュートを休ませることなく猛攻を仕掛けてくる。リュートに躱された一匹は体勢を立て直すとすぐさま攻撃に移り、リュートへとまた飛びかかる。

 それを剣の腹で払いのけて回避するリュートだが、するとすぐさまもう一匹が攻撃を開始し、リュートに主導権を握らせようとしない。まさに防戦一方だ。


 リュートもリュートで、嵐鼠の攻撃をいなして一向に攻めに転じようとはしない。

 いや、リュートは攻めあぐねていると断言するには早いのかもしれない。

 リュートは攻めきれないのではなく、もしかすると嵐鼠への対抗策を知らないのかもしれない。


 ハクと嵐鼠との攻防を見た僕なら、二体を同士討ちさせて戦闘不能にするという対策を立てることができる。しかし、もしリュートがそれを知らないのであれば状況は最悪だ。リュートの剣は嵐鼠に有効打はなく、嵐鼠の放つ棘は確実にリュートに疲労と損傷を与えている。


 嵐鼠の突進を回避したリュートは、棘のない腹目掛けて剣を持ち上げるようにして振るうが、寸前で体を丸めた嵐鼠はまたしてもリュートの剣を弾いた。

 その隙を狙ってもう一匹がリュートに突進を仕掛ける。棘が背中に深々と突き刺さり、鈍い声とともにリュートが身悶える。


「リュート!」


 悲惨な光景に思わず叫びながらリュートの元へと駆け寄る。その時に初めてリュートは僕に気が付いたようだが、驚きよりも痛みが勝っているのかリュートの反応は希薄だ。


「ヒロ……?」

「リュート、そいつらは普通に攻撃しても駄目なんだ。そいつらを倒す方法は――」


 近づく僕がリュートに触れる瞬間、リュートの周りで大きな竜巻が起き、僕の言葉を遮った。


「……なんだ⁉」

「嵐鼠を討伐しようとするのなら単調に攻撃を重ねていても意味がない。これは知識的な話にもなるが、決して必要な知識とは言えない……」


 竜巻の中から聞き覚えのある胡散臭い声が聞こえる。

 徐々に風が収まっていき竜巻越しに映るシルエットが鮮明になっていく。


「……嵐鼠が持つ棘の硬度は絶対ではない。だから、能力次第ではその棘を貫くことだってできないことはない」


 リュートの背中に刺さった嵐鼠ともう一体いた嵐鼠を高々と掲げ、その胴体を剣で貫いたジンが竜巻の中から姿を現した。


「ジン……!」

「救世主の登場にはグッドなタイミングだろ?」


 相変わらず、憎たらしい余裕ぶった顔つきを見せるジン。その顔にこちらは鋭い眼光で返した。


「リュートがここで戦っていることを知ったうえで、僕をここに向かわせたのか?」

「まあ、それが一番手早い方法だった。おかげで君もある程度は状況を飲み込めたはずだ」

「…………」

「俺に敵対心を抱くのはいいけれど、リュートの心配をしてやるのが先決なんじゃないか?」


 ため息交じりに、諭すようジンは僕に向かってリュートを掲げる。

 背中に受けた傷は深いようで今も血が流れている。


「そうだ……どうしたらいい、どうすればリュートの傷を治せる?」

「安心しろよ、ちゃんと手はある……ハク!」


 駐車場の屋根を見つめながら名前を呼ぶ。その視線の先には鉄骨に腰を下ろしたハクの姿があった。かなり錆びのついた鉄骨に座っているというのに、いつものレースのブラウスには汚れ一つ見当たらない。


「ん……」


 名前を呼ばれたハクは鉄骨から体を投げ出す。フワフワと浮遊感を感じさせながら僕らの前まで下降した。


「どうだリュートの傷は、治せそうか?」


 ジンがハクに問いかける。僕もハクの顔を覗き込んだ。


「……さすがに再生は無理やけど、止血と回復くらいは今のうちでもいける」

「そうか、それじゃあ頼む」

「ん……」


 リュートの前に屈みこみハクが手をかざす。すると次第にリュートの顔色はみるみる良くなり、背中から流れ出る血液も引いていく。最後には完全に流血が止まり、棘によってできた穴も少し跡が残っている程に回復した。

 治療が終わったと見たジンは、襟を掴んでリュートの上体を起こす。


「…………」

「おい、起きろ」


 リュートの頬を二、三度軽く叩く。すると少ししてリュートはゆっくりと目を開き、周りを見渡すとあからさまに困惑してみせた。


「ヒロ……それにジンにハクまで……!」

「……背中の傷は大丈夫か?」


 しりもちをついたままのリュートに手を差し出す。しかしリュートはただそれを虚し気に見つめるだけで取ろうとはしなかった。


「ああ……何故だか回復している」

「ハクが治癒してくれたんだ」

「そうか、さすがだな……それより嵐鼠は?」


 腰を地面に下ろしたままリュートは首を回して辺りを見る。しかし嵐鼠の姿は見当たらない、ジンが倒した嵐鼠は既に消滅してしまっている。


「俺が倒しておいた。瞬殺だ」

「そうか……」


 リュートはまたも表情を曇らせると、うなだれてしまった。

 顔を上げようとしないままリュートは言った。


「ジンたちはどうしてここにいるんだ?」

「……ヒロから連絡を貰った」


 思わずジンを睨みつける。だがジンは僕に見向きもせずに無表情を保ったままだ。


「連絡……?」

「ああ。たまたま君が魔物と戦って苦戦しているから、ってな」

「そうか……わるいなヒロ、また不甲斐ない所を見せた」


 妙にリュートがしおらしい。普段の威勢はどこへ行ったのだろうか。

 そんなリュートの気も知らず、ジンは淡々と続けた。


「そろそろ限界なんじゃないのか?」

「…………」

「これからはこんなことが茶飯事になる。わざわざ進んで言う必要はないが、いつかはバレることだ。そしてこれが、関係のない人間を突き放す最後の機会だぞ?」


 抑揚のない声でジンは言い続ける。しかしリュートは黙って下を向いたままでいる。

 ジンが言っていた手伝いはするというのは、これだったのか。リュートの返答次第でリュートがこれまで隠していたことが明らかになる。顔を上げようとしないリュートから目を離さずに僕は唾を飲み込んだ。


「…………」


 相変わらずリュートは黙りこくっている。それを見てジンは身を翻して言った。


「まあ、それも選択だな……後悔しない道を選べ」


 しかし、帰っていこうとするその背中を、一つの声が止めた。


「……ヒロ」


 が、意外にもそれは後ろを向いたジンにではなく、僕に向けられた言葉だった。


「なんだ?」

「ヒロに伝えないといけないことがある」

「……なんだ?」


 冷や汗が背中を伝い、拳を握りこむ力が一層強くなる。


「…………ライトノベルの話、しただろ?」

「え……うん」


 以前、虎の魔物と戦った後のことだろうか。


「あれが、俺なんだよ」

「ライトノベルがリュートって……どういう意味だよ」


 言い終わって僕は少し考えた。例のライトノベルの内容を思い出す。たしか概要としてはよくある異世界転生モノで、元の世界ではダメだった主人公が異世界で順風満帆な生活をする。

 それがリュートということは、つまり――。

 僕がその信じがたい事実を脳内で再生するよりも早く、視線を落としたままのリュートが低い声で呟いた。


「俺……本当は弱いんだ」

「で、でもリュートは……」

「自分でもどうにかなる魔物を倒し続けるだけで、何も知らないお前たちからは受け入れられた。もとの世界では感じられなかった感覚だ。認められる――その心地よさに浸って俺はお前たちに見栄を張っていたんだ」

「……リュート」


 淡々と吐き出すようなリュートの語調は次第に強くなり、今度は自嘲じみた声で言った。


「失望しただろ、俺が弱いばっかりにお前らを守るどころかこんな姿まで見られてよ……」


 吐き出すような、呻くような暗く低い声が小さく響き渡り消えていく。

 外では日が沈みかかっているのか駐車場内に入る光がさらに限定され、薄く見えたリュートの表情は影に隠れて消えていった。


「さて……」


 沈黙を破ったのは、この状況にそぐわない実に頓狂な声だった。

 しかしその声で僕の心は現実へと引き戻される。それが意図だったかのように僕に目配せをしたジンは、またも「さて」と切り出して続けた。


「晴れてリュートの秘密を知れたみたいだけれど、ヒロ。それを踏まえたうえで一つ提案がある」


 まるで台本のように、単調な声が僕に向いた。

 顔に張り付いた見透かした薄笑いが神経を逆なでするが、ここは堪えてこちらも冷めた声で応える。


「なんだよ、それ」

「これを機にリュートとの関係を断絶しないか?」

「何言ってるんだよ……そんな勝手なこと」


 明らかに動揺する僕を、その動揺を露見させまいと必死になっている僕を嘲笑うかのように、ジンの声は語調を高くした。


「勝手じゃあない、これはリュートとの契約の条件だ」

「契約ってなんだよ……」

「俺がリュートを異世界に戻すことに協力する代わりに、君たちに秘密を話すことを条件とした。ただで手伝ってやるつもりはなかったからね」


 感情を静止しようと脳が必死に命令を送るが、一度高ぶった心は理念の制御など受けはしない。それどころか、理性すらも振り切る程に、僕がこの男に対して憤りを感じていることを理解してしまった。

 僕は声を無意識のうちに荒げていた。


「どうしてそんな意味のないことをするんだ。そんなことをしてもお前にはメリットなんて何もないはずだ。ただの酔狂感覚で人を不幸にして面白いのかよ」

「酔狂なんかじゃない。ただ気に食わないだけさ」

「どういうことだ」

「何一つ冒さずに藁にしがみつこうとすることが気に食わないのさ。困ればヒーローが助けに来てくれる世界なんてくそくらえだ。何も失わずに何かを得させたくない、ただそれだけだ」


 その言葉は確実に僕を不快にさせたが、しかし僕は言い返すことができない。ジンが放った言葉そしてその意味は、なるほど正論であるからだ。

 弱者が強者にすがりつき助けをこうむる、それではあまりに都合がよすぎる。ジンとて人間だ、ご都合主義で動いているわけではない。助けを求めるならばそれ相応のリスクを負わなければ不愉快だと、感情ではなく構造的にそう考えられるのだ。


 しかしそれは、結果的に一つの答えに辿りつくことになる。ジンはこの行動に何一つ悪意を持っていないということだ。言い換えるなら感情的な行動とは全く無縁な発言ということになる。

 痛みを味わってから助けを求めるべきである、と、そう考えられるからこの条件を出している。そこにリュートを不幸にしようとか、自分が幸福になろうという意思は存在しない。それはすなわち、この男には悪意と同時に善意という物がないということになり、つまり僕が何を言おうと、ジンは慈悲をかけることは全くないということに繋がるのだ。


 拳を握りこむ力が強くなる。このままジンに一発殴ってやりたい。

 しかしそれを実行したところで意味はない、むしろ状況は悪化するばかりだろう。だが、この行き場のない怒りをぶつけてやりたい。この感情の交差がさらに僕を激昂させた。


「ジン、お前…………」


 せめて、キッとジンを睨みつけるが、ジンはそれをも楽しむが如くまたも嘲てみせた。


「だが、この契約を勝手に僕が決定するのはよくない。まだ彼がどう判断するのかを聞いていない」


 僕らの視線がリュートに集まる。リュートもそれを感じたのか、落としていた頭を上げてようやく僕と目を合わせた。


「俺は……」


 絞り出したような小さな声が耳に届く。

 その声を僕は聞き逃さないように黙って次の言葉を待った。


「……俺は、ヒロと、ヒロたちと共に過ごしていた時間は楽しかった……と思う。けれど、それじゃあ駄目なんだ。俺は強くない、強くないとお前らを守ることはできない。お前らと共に過ごす時間は、俺じゃあ守れないんだ」

「…………」

「だからここからは手を引いてくれ、ヒロ。引き際ってモノがあるのだとしたら、多分それはここで、そしてここが最後なんだ」


 それだけ言うと、リュートは深々と頭を下げた。

 出会ってから今まで、一度たりとも見たこともないリュートのお辞儀に僕の心は大きく揺れる。


 リュートがここまでして僕に手を引かせようとしている。成り行きはともあれ、リュートをそこまでさせる物はなんなのか。決まっている、僕たちを安全にするためだろう。リュートの力では僕たちを完全に守ることができないから、頭を下げてまで僕らを守ろうとしている。

 その想いに心を打たれてみるのはどうだろう。

 僕がリュートの案件から手を引くことは致し方ないことで、リュートも僕を嫌って関係を断とうとしているのではない、むしろ僕らを守るために関係を切るのだと、納得してみるのはどうだろうか。

 そうすれば、僕の心も少しは和らぐだろうか。


――いや。


「……違うよな?」

「え……」

「違う、違うんだリュート。そうじゃない。リュートは僕らのことを考えて僕と関係を断とうとしてるんじゃない」

「何を言ってるんだ……?」


 思わず口走った言葉にリュートどころかあのジンまで唖然としている。

 惜しいことに、その瞬間の顔を脳髄に刻み込むことができなかったが、そのかわり僕の中で洪水のように流れる言葉の数々は音を媒介に外へ溢れだした。


「リュートが大事にしたいのは僕らじゃなかったんだ、リュートが本当に大事にしたかったのはリュート自身なんだ。弱くて何もできない自分を責めたくないから、僕らを気に掛ける振りをして自分を守っていただけなんだ」

「そんな、俺は……俺は自分を守るためなんかじゃない。ただヒロたちを危険な目に会わせないために……」

「うん……きっとそれはリュートの本当の想いなんだと思う。だけど、それにジンの力を借りる必要なんてないんだ…………リュート、最初の想いだ」

「最初の想い?」


 訝し気にリュートは僕を見つめる。エメラルドに輝くその瞳を僕も強く見つめ返した。


「弱いから頼ろうとしたんじゃない、守りたいから頼ろうとした。強くなりたいから頼ろうとした。僕だってそうだ、強いと思ったから一緒にいたんじゃない、安全だから一緒に過ごしてたんじゃない」


 溢れ出た言葉は僕の脳内でリフレインした物の半分にも満たない。しかし、こうして発しているうちに言葉は少しずつ整理され、一つの結論へと向かって行く。


「…………」


 黙って僕の話を聞くリュートに低い声で語りかける。


「なあ、リュート。ジンに僕と縁を切ることを条件にされた時、どうしてすぐにその条件を呑まなかったんだ?」

「それは……居心地がいいと思ったからだ。まだ一緒にいたいと思ったからだ」

「じゃあ、それがリュートの最初の想いなんだよ。それを捻じ曲げてまでジンと契約なんてする必要ないんだ」


 リュートの眼に少しずつ光が宿っていくのが見えたが、まだ表情は戸惑っているようにも見える。しかし、リュートも少しずつ考えが纏まってきたのか、先ほどよりも強まった語気で応えた。


「だけど俺じゃあ不十分なんだ、俺だけの力だとヒロたちをまた危険な目に合わせる……」


 言葉じりにつれて弱まっていくリュートに、僕は首を振った。


「それも違うんだリュート。危険だからとかそうじゃないんだ」

「…………?」

「僕は安全だと思うからリュートといたいわけじゃない。僕がリュートといたいから一緒にいるんだ。弱くたっていい、上手くいかなくたって居心地のいい場所にいることは、決して悪いことじゃないだろ?」


 しゃがみ込んでいるリュートに手を差し出す。それを見てリュートは僕に言った。


「本当にいいのかこんな俺でも」

「いいに決まってる」

「身の安全なんて保障できないぞ」

「ノーリスクだなんて元から思ってない」

「嫌になればいつだって手を引いてくれても構わないからな」

「いちいち面倒だな、それ以上言うと嫌になるぞ」

「…………」


 いつもの不敵で冷めた笑みを浮かべて、リュートが僕の手を取った。

 立ち上がるとリュートはジンに向き直って言った。


「ジン、もう少しだけ自分で何とかすることにした。悪いな……」


 思惑通りにいかなかったことで、さぞ悔しがっていると思いジンの顔を覗き込む。


 しかし、ジンは悔しがるどころか、僕らのやり取りに飽きたかのように腑抜けた顔をしてハクの頭を撫でていた。

 どこまでも僕の神経を逆なでする男だ。


「謝る必要なんてない。君がそう決めたのならそれで構わないし、もともと手を貸すつもりなんてなかったから、状況が元通りになるだけさ」

「そうか。そうだな……」

「…………」


 言いながらリュートは神妙な顔つきになる。

 それもそのはずだ。今までもそうだったように、これからもジンやハクが手を貸してくれることはない。何があろうと僕らでどうにかしていくしかないのだ。それを考えると不安感が襲ってくるのも当然だ。

 しかし、リュートの表情には不安はあれど迷いまであるようには見えなかった。リュートの瞳は斜陽が反射し輝いている。


「さて、帰るかヒロ」

「そうだな」


 出口へと歩き始めたリュートの背中を追っていく。

 しかし、後ろから聞こえた声が僕の足を止めた。


「ヒロ」


 その声の主に対して明らかに怪訝な表情で振り返る。


「まだ何かあるのか?」

「最後に一つ聞きたいんだが……」

「……手短に頼むぞ」


 頼みをしている側だというのにジンの態度は大きく、両手をコートのポケットに入れたまま僕を見据える表情は、見透かすどころか自信満々と言った感を覚える。


「どうしてそこまでリュートに執着するんだ?」

「どうしてって……」


 少し黙って考えようとするが、ジンはそんな僕を待つことなく続けた。


「リュートと一緒にいたい、その考えを否定するわけじゃない。ただ君の固執ぶりからはそれ以上の何かを感じる。どうしてそこまでして、リュートに関わろうとするんだ?」

「…………」


 言葉に詰まる。別に大した考えがあるわけじゃない、ただ一緒にいたいと思ったからいるだけだと、自分自身でもそう思っている。そこに理由などはありはしない。


「言い方を変えよう……君は、いわば水なんだよ」

「水……?」


 余計に分からない。


「今のこの状況を毒と薬で考えた場合、君はそのどちらでもない。何かをしたわけでもなければ、何かできる存在ですらない。もっと簡単に言えば……関係ない、と言われたことがあるんじゃないのか?」

「あ……」


 ずっとリュートに言われ続けてきた言葉だ。

 関係ないから関わるなと。その言葉とともに何度リュートに拒絶されただろうか。


「毒でも薬でもない水の君が、どうしてそこまで混ざりに行くのか。薬に成ることなどできない君が、何故なにゆえリュートの薬に成ろうとするのか。その理由が知りたい」


 薬――その言葉でようやくピンとくる。

 そうだ。薬に成る、その通りだ。

 僕を直視してジンは返答を待っている。その顔に向かって、見透かしたような表情はできないため代わりに、いつもリュートが僕に見せる乾いた笑みを作った。


「……そんなの昔からそうだ。困っている人がいるなら――助けを呼ぶ人がいるのなら――助けなくちゃいけないから助けるんだ。理屈じゃない」


 それを聞いてジンは、意外にも口の端をきりりと上げて応えた。


「どこまでも損をするタイプだな……」

「当然の行為をするんだ、損得なんてそもそも持ち合わせてない」


 言い切って僕はジンを横切っていく。その途中ジンが「その考えが損なんだよ」と呟いたのが聞こえたが、鼻で笑って先を往くリュートを追い、僕は走り出した。

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