第36話 秘密とは……

 リュートの声が路地裏に響き渡り、消えて行く頃にはリュートの姿はもうなかった。


 無音が辺りを覆いつくす。虚無が世界を支配する空間で僕の頭の中だけは、リュートの言葉が反芻していた。

 先ほど放たれた言葉が脳裏に焼き付いて離れない。意味深な言葉を言うことは常なのだが、その真意があまりに掴めない。

 何より、リュートがそう言ったことを言うときは大抵何かが裏に隠されているのだ。


「……あまり気は乗らないけれど……」


 考えることを諦め僕は路地裏を出る。近くのガードレールに繋いでおいた愛用のロードバイクに、足をかけると同時にペダルを漕いで前進する。


 向かう先は廃ビルだ。

 この手はどうしても使いたくはないが仕方ない。むしろあの男に協力してもらう方が、僕があの男の力を借りないというプライドを捨てるよりも遥かに難しいのだ。

 ここから廃ビルまでは十分かからない程度、その間に説得するためのメリットを考えなくてはならない。


 僕の予想通り八分四十七秒で廃ビルに着くことができた。

 そして僕の予定通りあの男を納得させるためのメリットを考えてきた。後はあの二人組の待つ三階へと乗り込むのみだ。


 ロードバイクを近くに留めて廃ビルへと入って行く。まだ三時を回った頃で外は明るいのだが、相変わらず廃ビルの中は光量が乏しい。


 しかし、もう幾度とこの廃ビルへは来ている甲斐もあってか、階段の位置や取分け古くなっている手すり、落ちたガラス片の場所と階上へ昇るための障害を軒並把握できてしまい、もはや異界へ這入るような恐怖は皆無だ。

 順調に二階そして三階へと昇り詰めていく。渡り廊下を歩き、あの二人組がいるであろう場所へと向かう。


 廊下を抜けきった際、微かにたなびくトレンチコートの端を確認して、僕は声をかける。


「ジン!」


 僕の声を聞いたジンは怪訝さを前面に出しながら、唸るような低い声をこちらに向けた。


「また来たのか、しつこいな……」

「また……?」


 疑問の意をジンにぶつけるが、ジンは僕を見ることもなく、卓の向かいに置かれた大きなソファに体を沈めた。


「何度も言っているが俺の答えは『ノー』だ。そろそろ諦めろ」

「おい……何言ってんだ?」


 ジンは何のことを、誰と話しているのだろうか。

 頭が混乱する中、ここからは見えないが、奥の部屋からハクの声がした。


「ジン。リュートとちゃう、ヒロや」


 ハクの言葉にソファから立ち上がったジンがようやく僕に顔を向けた。


「ああ、君だったか……まったく、最近の学生は揃って暇なのかい?」

「なんだよその言いぐさは、僕だってわざわざお前に会いたくない」

「けれど、会いに来たんだろ?」

「…………」


 図星だ。

 この男には頼りたくはないけれど。

 この男には借りたくはないけれど。

 この男には縋りたくはないけれど。

 僕はどうしようもなく、この男の力が必要なのだ。


「まあいい、わざわざ来たんだから話くらいは聞こう」


 ソファに座り込み、顎で目の前に置きっぱなしにされた机を指した。

 頷いて僕はその机の上へ座り、一呼吸おいてジンと向き合った。


「……リュートの秘密を知りたい」

「秘密ね……そんなものがあるのか?」


 そう尋ねながらもジンの顔には疑問の念は一切浮かんでいない。

 それに少しの嫌悪感を抱きながら僕は答える。


「リュートは何かを隠している。それが何なのか知りたいんだ」

「ふーん」


 ジンは相変わらず、こちらを試すように見つめてくる。

 ならばと思い、僕も一つ鎌をかけてみた。


「まさか、知らないのか?」

「…………」

「…………」

「まあ……リュートが何を隠しているのか、そんなことは簡単だ。ただ、君には言えない」

「どうして……?」

「リュートが君に隠していることを俺が言ってしまうというのは、あまりに不躾で不誠実だと、そう思わないか?」

「……ま、まあ」


 その通りだ。

 もしリュートが僕に隠しているのなら、それをここで聞いてしまうと言うのは所謂フライングということになり、それはつまりリュートに嘘を吐くことと同意だ。


「それに……君は覚悟ができていない」

「覚悟?」

「人の秘密というのはその人間の過去だ。そんな後ろめたい過去を覗くなら覚悟しないといけない。例えば自分を信じられなくなるような、例えば大切な人を忘れてしまうような、例えば友人をなくしてしまうような、そうなってしまう覚悟が君にはあるのかい?」

「過去を覗くなんて、そんなこと……」

「違うかい? 人間は未来を往くものじゃない、過去から続いているものだ。ともすれば、秘密を知るということは隠し続けた過去を覗くことと同義だろう?」


 ジンが僕に向ける視線が鋭く光る。

 これは取り繕ったような言葉ではない。ジンが心の底から訴えかける言葉だ。


「それでも――」

「とは言え、これは君に全く関係のない話とは断言できない」


 落胆しようとする僕を見透かすように、ジンは乾いた笑いをこぼした。


「え……」

「だから、秘密を教えることはできないが、君が秘密を知るための手伝いくらいはしてあげたって構わない」

「……急にどうしたんだ?」


 ジンがやけに協力的で、何か裏があるようにしか感じられない。


「なんだ、俺が協力することが嫌なのか?」

「そうじゃない。ただ、こんなにあっさり協力するなんて思ってなかったから……」


 ジンはソファに座りなおすと、またも作ったように「ハハハッ」と快活に笑った。


「さっきも言っただろ、君に関係のない話じゃあない。むしろこの問題は君自身が深く考えなければいけないんだぜ?」

「なんだか、よくわからないな……」


 リュートもそうだが、ジンも相変わらず言葉がいちいち回りくどい。本質的なことを先に言えばこちらもわかりやすいのに。

 というか、結局どちらなのだろう。この男は僕に協力してくれるのだろうか。


「協力はしない。君がそこまで彼の秘密を知りたいのなら、手伝いくらいはしてあげよう」

「手伝いって、いったい何をしてくれるんだ?」

「そう焦るなよ、今日はまだ無理だ。日を改めてこっちから連絡する」


 そんなことを言ってまた僕をからかっているのだろうか。

 そう思ってジンの顔を覗いてみるも、嘘をついているようには見えなかった。僕はおとなしく頷く。


「わかった……ありがとう。今日はこれで帰るよ」


 ぶら下げていた足を床に着け来た廊下を戻ろうとすると、後ろからジンが呼び掛けた。


「最後に一ついいかな?」

「なんだ……?」

「君に、秘密を知るという覚悟があるかどうかは分からないけれど、一つ忠告をしておくと……自分の目は疑うなよ。どんなに信じ難くてもその双眸で見たものだけが事実だ」


 相変わらず理解しがたい表現だ。しかし言いたいことは伝わった。

 秘密を知る以上はそれを正面から受け止めなくてはいけない。相手の秘密を知るとは過去を見るということ、たとえそれがどんなモノでも、目を逸らすことは相手への冒涜だ。

 言葉をしっかりと噛みしめ、ジンに向き合う。


「……ありがとう」


 そう言うも、ジンはもう既に興味を失ったようにソファに埋まりこみ、こちらに手をひらひらと振るだけだった。

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