彼は青春

 もやもやしたまま下校時刻を迎える。今週末はいよいよ文化祭だ。だから、文化祭で部誌を売る文芸部は、この時期ものすごく忙しい。だから文化祭が終わるまで翔太と一緒に帰るのは控えている。と言うのも、二人で話してそう決めたのではなく、俺が勝手にそうしているだけだ。翔太から誘ってくることはないので、俺が誘わなければ一緒に帰ることにはならない。翔太の部活が落ち着くまでは、俺は一人で帰る、つもりだった。

「ちょっと、二宮」

 七時間目を終えて、掃除の担当場所に向かおうとした俺を呼ぶ声。翔太の声だ。向こうから声をかけられるなんて珍しいので、俺は驚いて素早く振り向いた。めったにない事態に、嬉しくて頬が緩む。

「今日帰り何時」

 助詞も疑問符もない質問は翔太らしくて、頬が緩んだままで「特に決まってないよ、好きな時間に帰れる」と答える。その答えに少し考えた様子の翔太は、思いがけないことを口にした。

「俺、六時に帰れそうなんだけど、待っててくれない」

「……え?」

 あまりに予想外の言葉に、思わず拍子抜けした声が出た。翔太が、俺に、待っていてと言った。信じられなくて、何度も脳内で再生する。やっぱり言っていた。

「……嫌ならいいけど」

 なかなか返事をしない俺に、断りづらくて迷っていると思ったのか、翔太がどこか残念そうに呟く。

「ま、待つ! 待つから。待ってる」

 慌ててそう言うと、翔太が少しだけ、ほんの少しだけ嬉しそうにした気がした。

「じゃあ六時に昇降口で」

 「またあとでね」と手も振らずに俺の横を通っていく翔太。初めて翔太のほうから誘われた。今までずっとずっと俺からだったのに。それが思っていたよりも嬉しくて、いつもは面倒に思う掃除すらも楽しい。世界が輝いて見える。我ながら単純だ。掃除が終わって現在時刻は四時、六時まで二時間ある。何をして過ごそうか。きらきらした気持ちのまま、まず向かったのは部室だ。そこで黙々と文化祭が終わった週明け提出の課題を進める。いつもは課題なんて、提出の前日までやらないのに。これも翔太効果だとしたら、彼は相当すごい。集中すると案外すぐ終わるらしく、テレビを見ながらちまちま進める普段よりはるかに早く片づいた。五時十分くらいだ。俺はカメラを手に取って部室を出る。行き先はバスケ部が活動する第一体育館。クラスで仲良くしてくれている三人のうち、瞬がバスケ部で健人と雅也の二人はバレー部だ。体育で二人ペアを作れと言われたときや、何か困ったときに助けてくれるのは瞬が多い。俺も三人のうちで一番好きなのは瞬だ。

 「失礼します」と声をかけて体育館に入る。いち早く俺に気がついた瞬が声をかけてきた。

「あれ、雄大どうしたの?」

 授業中によく寝ていて先生にいじられることが多い瞬だが、部活になると頼りがいのある部長になる。彼が集合と言えば部員が全員集まるし、彼がゲームをすると言えば部員はチームを組んでゲームをする。かっこいい。

「あのさ瞬、写真撮っちゃだめ? バスケ部のかっこいいやつ撮りたくて」

 写真部らしく、部活動写真を撮ってみたい。動いている人を撮って、練習の成果を発揮したい。そう思って尋ねる。瞬は驚いたようにまばたきをして、それから爽やかな笑顔で了承してくれた。

 始まった練習をじっと眺める。懐かしい、やっていたころを思い出す。今思うと俺は結構好きだったんだな、バスケが。チームメイトや馴染めない空気は苦手だったけれど、バスケットボールというもの自体も、バスケをしている自分も、好きだった。カメラを構えてそんなことを思う。しばらく感傷的な気分に浸っていると、練習はゲームに切り替わった。部長に必要なのは能力よりも責任感や仕切る力だと言うけれど、瞬は実力もある。とても上手だった。体育祭のときはこの瞬に褒められたのだから、俺のバスケもそこそこ自信を持っていいと思える。シャッターチャンスを求めてファインダーを覗く。しばらくして休憩に入った瞬は、「良いの撮れた?」と俺に近づいてくる。いろいろ撮ったうちで一番うまく撮れた写真を見せる。ちょうど、瞬がゴールを決めたところだ。

「うわ、俺かっけえ! なあ見ろよこれ」

 写真を見た瞬はテンションが上がったようで、他の数名の部員を呼んで彼らにも見せる。その誰もが「良いじゃん」と褒めてくれるので、なんだか恥ずかしかった。

「雄大すげえじゃん」

 わしゃわしゃと頭を撫でられて、俺はなんだか瞬との距離が縮まったのを感じた。今まで感じていた隔たりが、少しだけなくなった。

「ああそうだ雄大、バスケうまいじゃん、ちょっとやってってよ」

 次いで発せられた提案は突然のお誘いだった。普段の俺なら断るが、今日は違う。なんだか素直になれる日だ。

「うん、ちょっとだけなら」

 カメラを安全な場所に置いて、制服の袖をまくる。五時四十五分。一回くらいなら問題ないだろう、と思った俺が甘かった。今日みたいなすっきりした気分でするバスケは楽しくて、そして、瞬を初めとするバスケ部員がみんな温かく優しくて、あまりに居心地が良いからついついやりすぎてしまったのだ。シュートが決まるたびに瞬とハイタッチをして、ただの遊びのゲームなのに勝ったら嬉しくて抱きついて。子どもみたいに、何も考えずに楽しんだ。気づいたとき、時計は六時十五分を指していた。翔太との約束は六時だ。さっと血の気が引くのを感じて、俺はすぐさまバスケ部にお礼を言い、走って部室に向かう。荷物をまとめていると後輩が来たので、「ごめん戸締りよろしく」と頼んで飛び出した。まずい、翔太のことだからもしかしたら呆れて帰っているかもしれない。

「おお二宮、ちょうどよかった、今時間あるか?」

 急ぎ足で階段を降りていると、踊り場で担任とすれ違った。もう二十分は翔太を待たせているのでためらったが、俺は典型的な日本人のようで、ノーと言うのが大の苦手だ。いいよな、という顔の担任にイエスの返事をしようとしかけたとき、背後から翔太の声がした。

「先約があるので」

 そのまま俺の手を引いて翔太が歩き出すので、俺は担任に頭を下げてついていくしかなかった。

「あの、翔太さーん……遅れてごめん、怒ってる?」

「別に」

 昇降口を出たあたりで、掴まれたままの手を揺らしながら声をかけると、ぱっと手が離された。一緒に帰ろうと誘っても無視されていたころを思うと、翔太のほうから迎えにきてくれるなんてものすごい進歩だ。仲良くなれたことを実感して嬉しくなる。

「潔癖じゃなかったっけ?」

 以前そんなことを話していたなと思いだしたので聞いてみると、翔太はああと呟いた。

「俺の潔癖は精神論だから。二宮は平気」

 思わぬ答えに気恥ずかしくなって、俺は黙った。きっと翔太も俺が人物写真を撮らないのと同じ理由で、潔癖症ぎみなのだろう。翔太の中で俺が触ってもいいと思えるくらいに昇格している事実が嬉しい。俺が自転車を取りに行くあいだも、翔太は先に行かずに待っていてくれる。これも大進歩だ。小さなことのひとつひとつに感動しながら、自転車を押して翔太の隣を歩く。

 他愛ない会話が途切れたころ、翔太がぽつりと言った。

「運動できるやつが好き?」

 いつも小さい声が、増して小さかった。聞き取れずに「ごめん、もう一回」と言うと、翔太は首を振る。

「なんでもない。あのさ、今日俺のこと庇ってくれたでしょ」

 誤魔化すような早口の次に出たのは、昼休みの話だ。庇う、なんて、そんな劇的なものじゃなかった。むしろ俺は、もっとはっきり、翔太のことをそういうふうに言うなと伝えられたのに、怖がってぼかしてしまったんだ。

「……もっとはっきり言えば良かったのに。中途半端だよ、俺」

 俺は今、きっと苦い顔をしているだろう。どうしても、日和見主義を捨てきれない自分に嫌気がさした。

「そんなことない。嬉しかったよ」

 翔太はそう言って、笑う。俺が大好きな、綺麗な笑顔だった。

「ま、待って翔太、そのまま顔固めて。動かないで。撮らせて」

 は、何、と言う翔太をよそに、リュックの中からカメラを取り出す。けれどそこにいたのは真顔の翔太で、さっきの笑顔は消えていた。

「しょ、翔太さーん……笑ってよ、もう一回、お願い!」

 必死に頼むが、翔太は嫌だと言って顔を背ける。背けた先に回りこむ、また背けられる、と繰り返してくるくる回っていると、いつだかもこんなことがあったなあと思い出す。なんだか笑えてきた。翔太も同じことを思っていたのか、俺たちは二人同じタイミングで吹きだした。

 そのタイミングを逃さないように、カメラを構えてシャッターを切る。翔太は撮られているのに気づきながら、そのまま笑っていてくれた。笑えと言われて笑うのは恥ずかしくても、自然な笑いは平気らしい。

「撮るからには綺麗にできてるんだろうな」

 やんわりと前の失敗をからかわれながら、カメラを覗きこむ。映し出された翔太は、綺麗で、鮮やかに笑っていた。

「やるじゃん二宮」

 なかなかの出来に我ながら感心して、翔太もそれを褒めてくれて、嬉しくて口元が緩んだ。

 今の俺なら、ずっと言いたかったことも言える。

「ねえ翔太、俺の親も弟も妹も、みんな二宮なんだけど」

 じっと翔太の目を見つめる。

 でも翔太は目をそらして、俺はがっくりと肩を落とす。

「早く帰ろう、……雄大」

 驚いて目を見張ったのも数秒、事態を理解した俺は、嬉しくて上がる口角を戻そうともしない。いや、できなかった。にやけてしまった自分の顔が頭に浮かぶ。

「待ってよ、翔太!」

 俺は先に歩き出した親友の名前を呼びながら、その背中を追いかけた。

 きらきらしていなくたって、傍から見たら地味だって、それでも俺の青春はここにあるんだ。

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