摩訶迦葉の決断
増田朋美
摩訶迦葉の決断
摩訶迦葉の決断
植松は、四畳半のふすまを開けた。
中に入ると、目に飛び込んできたのは、部屋の大部分を占めている、大きなピアノ、そして、その前に敷かれた粗末な布団の上に、たいへん綺麗な人が、あおむけになって寝ていたのである。男である植松も、敗けを認めてしまうほどの、かなりの美男子だった。その尋常ではない痩せ方といい、植松にはアウロラに捨てられたティトノスのようにみえてしまった。
「あ、あの。」
声をかけてもその男性は何の反応もしない。
「水穂さんとりあえずお茶持って来ましたからね、もうちょっとしたら、ご飯が届くと思いますので、もう少し待っていてくださいね。」
利用者が布団をたたいて、その男性に声をかけた。そうか、この人が水穂さんなのか!植松は、その名にふさわしいと思ってしまった。
「わかりました。そこへ置いてください。」
細い細い、しわがれ声であった。
利用者は、ハイよと言って、枕元に缶入りのお茶を置く。
「じゃあ、ここに置いておきますから、ご飯が来たら、今日こそ吐き出さないで全部食べてくださいね。何も食べない何て言語道断ですよ。間違いなく、餓死しちゃいますからね。」
利用者はきつく言った。そんなきつい言いかたってあるんだろうか。やっぱりこの人はほかの人から良い扱いを受けていないんだなと植松派感じ取った。それではいけない。アウロラに愛想をつかされて、捨てられてしまったティトノスは、最後は蝉と化してしまったが、これはギリシャ神話の世界ではなくて現実なのだし、この人は人間なんだから。蝉じゃなくて。
「ちょっとこの植松さんという人が、水穂さんに話をしたいそうです。じゃあ、植松さん、後はよろしく。」
利用者はそういって、そそくさと部屋を出て行った。後には、水穂と植松だけが残った。
水穂は、三度咳き込んだが、其れでも植松の方を向いて、
「お話って何ですか。」
としわがれた声で静かに聞く。
「いや、あの、自己紹介をしますと、名前は植松直紀で、職業は現在カウンセリング見習いをしております。今日はちょっとお願いがあって、まいりました。あの、ちょっとカウンセリングの実験台になって貰えませんか。」
そんなことをしどろもどろで植松は言った。
「カウンセリングなんて、お話することは何処にもありませんよ。」
水穂はそういうのであるが、
「いや、あなたには沢山あるのではありませんか?」
植松はきっぱりと言った。
「何の事ですか?」
水穂が言うと、
「だって色々あるじゃありませんか。本来なら指定の病院に入院してしっかり治療を受けなければなりませんのに、こうして粗末な布団で寝かされる羽目になっていらっしゃる。それではいけない。それにいくら昔ほど怖い病気ではないといわれたって、結核は、放置すればたいへんなことにななりますし。それに、現在の法律では、ご自身で専門病院に入院しないと、逮捕されてしまう可能性だってあるんですよ。」
植松は嫌らしい説教を始めてしまった。それはまさしく焼け石に水というか、本当に余分なことでしかなかった。もしできたら、体を横へ向けるしぐさをしたかった水穂だが、咳に邪魔されて、それは出来なかった。
「水穂さん、あなたはかなり重度でいらっしゃるようだ。それでは若しかしたら、もう手遅れになってしまうかもしれませんよ。でも、今の時代なら、多少後遺症が残ったとしても、日常生活が出来るくらいには、回復できるかもしれない。そのほうがいいでしょう。ですから、早く優先的に結核の治療をしてくれる病院を見つけましょう。」
「いいえ、そんなことしないでください。」
植松がそういうと、水穂さんは強く首を振った。
「なんでです?だって、治りたいという意思は誰でもあるでしょう?」
水穂は強く首を振る。
「そんな、だってこのままでいたら、いつまでも寝たままでいることになってしまいますよ。現に畳をこんなに沢山汚すほど重度なら、このまま放置し続けてしまうと、あなたは死んでしまう可能性もある。其れだけは嫌でしょう?それより仕事にもどって、平常通りの生活を送りたくありませんか?そういう気持は誰でもあると思うんですが?」
布団の周りに、わずかばかり血痕が残っているのがみえたので、植松が急いでそういうことをいうと、
「いえ、そんなことありません。僕には日常生活何てそんなモノはございませんから。」
水穂は弱弱しくこたえた。
「そんなものはないって、現にあるじゃありませんか。誰でも仕事というものがあるでしょう。そして、其れに出ることを生きがいとして生きているんでしょう。そのために、人間生涯健康という物を目指していくんじゃありませんか。もしそう思えないなら、それは明らかに病気が重いせいだから、そのためにも適切な治療をすることが大切なんですよ。」
植松はなおも話を続けた。
「ただ寝ていればいいという軽い病気ではありません。結核には其れ専用の病院というものがあって、そこで治療していかなきゃいけないんです。このままだと生きようとする意欲すらなくなってしまいますよ。」
「そんなもの、初めからなくたっていい。」
水穂はそこだけ強く言った。
「なくたっていいって、今は昔の農村とは違うんです。誰でも生きる権利というのは保証されているじゃありませんか。それをあなたは、わざわざ放棄しようとしていらっしゃる。」
「そんなものないんです。」
植松はそういうが、水穂はピシャンと言い放った。確かに昔の農村とかそういう所だったら、肺病が移るといやだからなどと言って、物置などに隔離しておくということもよく見られたが、今はそんなこと、あり得ない話だ。もしかしたらこの人、何か悪質な新興宗教でも入っていて、洗脳されているのかな、と植松は思った。
「もしかしたら、何か団体のようなものに入っていますか?勤務先が宗教団体とか?」
「いえ、そんなことありません。身分がただ低いだけの事です。」
水穂は其れだけ答える。その意味は、植松にはよくわからなかった。もう江戸時代もとっくに終っているのだから、士農工商のような身分はないのではないかと思っていたのだが?
「江戸時代じゃあるまいし、なんでわざわざ階級に当てはめるんです?そんなことしなくていいと思うんですけど?」
「いいえ。どれにも当てはまりません。それ以下の身分なんですから。だからもう消えたほうがいいんです。こんな人間に、治療を施してくれる病院なんて何処にもありませんよ。こんな汚い人を連れてきて、今年は、何て間が悪いんだって平気で言うのが関の山。」
植松の目が宙を泳ぐ。ますます訳がわからなくなった。それ以下の身分、汚い人とはどういう事なのか。間が悪いと平気で言うとはどんな事なんだろう?
「あなたは知らないんでしょう。」
ふいに水穂さんがそういうことを言い出す。
「知らないほうがいいと思います。こういう問題のことはわからないほうがいい。若い人は、そういうことを知っても、何も得にはなりませんもの。そういう事なんですよ。どうせ、聞いたって解決方法も思いつくこともないでしょうし。だから、こうなったらもうさっさと逝った方がいいんす。そういう事なんです。」
「いいえ。教えて下さい!」
水穂さんにいわれて植松はでかい声で言った。
「教えてください。水穂さん。僕は見習いですが、将来僕のところに、水穂さんと同じような人があらわるかもしれない。そうなった時どうしたらいいのか、教えてほしいんです!」
「現れる?」
と、水穂さんは疑い深そうに言った。
「そうですよ。おなじような人は、いろんなところにいるはずですから。そういう人があらわれた時に、僕はどうしたらいいのか。教えてください。水穂さんがどんな事情を抱えているのか、今までどんなことでくるしんできたのか!」
水穂さんの口元がそっと動く。事情を話してくれるのだろうか。どんな事情が語られても俺は絶対に、彼を見捨てたりしないぞ!と思いながら、植松は身構えた。
ところが。答えの代わりに返ってきたのは咳であった。そっとその口元から、赤くて生臭い液体が漏れてきたので、急いで拭き取ったのだが、其れと同時に利用者もやってきて、
「もう、水穂さんにあんまり負担をかけないでやってくれませんかね。あんまり質問し続けると、疲れてしまいますから、そこまでにしてください。」
と、間に割って入って、水穂の口もとを拭いたり、薬を飲ませたりするなど世話を始めた。利用者はその役目をしていても、何も文句をいわなかった。そういうところが、一番大切なのかもしれなかった。
「ちょっと待ってくださいよ。まだ質問が終ってないんですよ。水穂さんが抱えている事情って何ですか。それを聞かせて貰えなければ、僕は引き下がったりしませんよ。何ですか、あなたたちは、みんな水穂さんに適切な医療も何も受けさせようとしないで、見て見ぬふりをなさっている!それはかえって、水穂さんの病気を治してやれなかったら、どうするんです!そうしたら、皆さんの責任となるんじゃありませんか!」
植松は怒りが頂点に達したらしく、利用者にそう言い放ったが、
「いいえ、俺たちだって、水穂さんの事情を知っていても、本人の前でいうことは出来ませんよ!俺たちは、水穂さんのことを可哀そうだと思っているから、いわないで黙っているんじゃありませんか!見て見ぬふりなんかしませんよ。俺たちは、医療を受けさせてやることは出来ないんだって知ってるから、こうして世話をしてやってるんじゃありませんか!」
と、利用者は植松と同じくらいの声で怒鳴った。
「可哀そうって、、、そう思うんなら、ちゃんと医療を受けさせてやるように務めてやるのがなかまというものではないんですか!」
「いいえ、俺たちは仲間だからこそ、水穂さんの気持に寄り添おうとしているんでしょ。俺たちは、水穂さんの事情を知っていますから、口に出していう事はしません。それが水穂さんへの敬意だと思っていますんで!」
「敬意?治療しないで放置したままでいることが敬意なんですか。何だかアンタたちはやっている事と、言っていることが違いすぎる、まるで真逆だ!もしかしたら、水穂さんのことを、早く逝ってほしい存在だと決めつけて、親切にしているように見せかけて、逝くのを待っているのではないでしょうか。」
「そうですよ。植松さん。僕もそういう身分の人間なんですよ。生きていたって、何も変わる事のない、人間として認められないそういう存在何ですよ。」
咳き込みながら、水穂さんがそういうことをいった。隣で利用者が水穂さん無理してしゃべらないでください、と、背中をさすって矢理ながら言っている。
「俺には、水穂さんに、二度と人間として扱われない修行何かさせたくありません。そうするには、日本からさようならするしか方法はないって、青柳教授もいっていました。安全な外国にでも逝かない限り、この人が、安泰に暮らせることは、無理だと。」
「人間として扱われない修行、、、。それでは、まるでヒンズー教徒の不可触民に似たようなものじゃありませんか。しかし、不可触民制度は日本にあったんでしょうか?」
利用者にいわれて、植松はそういい返すが、
「ご自身で勉強されたらどうですか。」
と利用者はいい返した。そして、水穂さんに薬を飲ませて、静かに布団に横にならせてやった。
ふと、布団の横に一枚の着物があった。あれ、これって、よく若い女の子が着ているような着物だと思う。その男バージョンであることはまちがいない。しかしこの柄を着ている若い女の子たちが、着物のおばさんに良い目で見られていたことは、正直あっただろうか?
そういえば、ない。
「植松さん、そろそろ帰りますよ。僕も、帰らないと、ピアノの練習しなくちゃ。」
と、マーシーが、四畳半にやってきた。植松はせめて答えを得たいと思っていたのだが、この調子では答えはでないだろうなと思った。でも、枕元に置いてある、着物の柄、そう、何だか絵具を滲ませたような、青と黒で十文字を入れたあの柄を、植松は覚えていた。
二人は、とりあえず今日訪問させて頂いたお礼をして、製鉄所を後にした。タクシーを待ちながら、
「なあ、マーシーさ。」
植松はマーシーに聞く。
「水穂さんってどうしてあんなに重い病気なのに、何もしてもらえないんだろうか?」
「そうだなあ。もう手の施しようがないってことだろうな。」
マーシーもまた話をそらした。
「なんでみんな、話をそらすのかな。みんな、本当の事をいわないのかな?」
「本当のことをいったら、水穂さんが一番可哀そうだからじゃないの。あの人、それのせいで、僕たちが、してきたことよりはるかに辛いことを、一生懸命耐えてきたんでしょうし。だから、みんな何もいわないで、看病してやっているんじゃないかな。」
植松がそういうと、マーシーは静かに話した。
「あの着物がその象徴だよな。あれは、昔、道路で物乞いをするような人が、着用していた着物だよ。」
「道路で物乞い?道路で物乞い、、、。」
植松は教師になるために学んできたことを一生懸命思い出した。自分は、どちらかと言うと、社会科に関しては関心が薄く、自身の専攻であった、数学ばかり没頭していたが、たしか社会科でこういう話を聞いたことがある。たしか明治維新で、全部の身分の人が、平民とされた。もともと武士とか、公家や大名だった人を除いて。そう、全部の身分の人が。全部の身分の人が、全部の身分の人が、、、。
全部。それでは、平民ではなかった人も平民とされたんだ。
つまり、平民でなかったと思われる人がいた、、、。
「あ、そういう事か!」
おもわず植松は声を出す。
「わかってくれたか。」
と、マーシーが言った。それと同時に、タクシーがやってきたので、それ以上口にすることはしなかったが、植松は、そういう状況ではなくても、水穂さんのことを考えると、口にするのは嫌だった。
「そうか、、、。」
植松は、泣きたくなって、タクシーに乗り込む。それが分かれば、水穂さんは救いようがない。ああ、そういうことか。そう考えると、水穂さんにこれ以上道路で物乞いはさせたくなかった。あんな綺麗な人が、そんなに貧しい階級だったとは。
植松は、タクシーの中で泣くのをこらえながら、長い長い道路を移動していくのだった。
「なあ、今日の事書いてみたらどうだ?こういうことは、必ず遭遇するんだからさ。カウンセラーとしても、救えんない人が、少なからずいるって。」
ふいに、隣の席でマーシーが声をかけた。
「僕は、別の女性のことについて、書かせて貰うから、君は、そういうことをかけばいい。そうすれば二人一緒に同じ宿題をやったということは、誰にもわからない。」
確かにカウンセラーとしては失敗だ。でも、こういう人は、必ずとこかにいるだろう。日本に住んでいる以上、この手の差別はあることは確かだからだ。それをテーマにした小説も映画も沢山作られているが、いずれにしろ、主人公をしあわせにすることは出来なかった。
「ああ、そうするよ。そういうことにするよ。よし、俺、そうする。」
丁度この時、駅前にタクシーが止まった。
「へえ、そうか。まあ確かに、なんでも出来るわけじゃないってことを、書くのも大切だよなあ。」
道端にある屋台のおでん屋で、杉三が、植松の肩をたたいてそういった。植松は杉三と蘭に挟まれて、おでん屋の椅子に座っていた。
「でも、カウンセリングに失敗したことを書いてどうするんですか。そうしたら、」
「ええ、間違いなく、落第だと思います。」
蘭が聞くと、植松は、苦笑いしてそういったのだった。まあ、それが成功なのか失敗なのかは、添削者の涼にゆだねられるが、失敗したことを書いたというのだから、さほど好評にはならないだろう。
「マーシー、あ、高野さんは、いい文書であれば大丈夫だって言ってくれましたが、失敗したことを書いたんですから、まあ、大丈夫ではないですね。」
植松は、ビールをガブッと仰ぐ。
「まあまあ、別に気にするな。おまえさんの文書はな、なんでも出来ると思い込んでいる鼻たれのカウンセラー、つまるところの阿羅漢には、いい鉄槌になるぞ!」
杉三がにこやかにいう。杉ちゃん、君はどうして、そういうことを、ゲラゲラ笑って話してしまうんだと蘭は呆れながら、ため息をついた。しかし、ふいにあることを思いつく。
「あのさ、杉ちゃん。植松君も聞いてくれ。その、カウンセリングが出来ないってことを作文に書いたのなら、そのクライアントだったのは水穂だよな。」
「そういう事です。」
植松がそういうと、蘭は、さらに話を続けた。
「それでは、水穂の出身階級とか、そういうことを書いたのだろうか?それを提出したという事は、誰かが見るんだろうな?」
蘭は、これを書いてくれれば、誰か心理学の関係者が見てくれることになって、水穂も救われることになるかもしれないと思ったのだ。
「確かに書かせてもらいましたが、添削したのは涼先生です。ほかの関係者に、見せるようなことはしないでしょう。先生は盲目ですから。」
盲目であるから、誰かてつだってくれる人もいるはずだ。そういうことになれば、水穂のことを理解してくれる人が現れるかもしれない。よし、この作文にあらためて、期待をかけよう、蘭はそう思った。
「まあいい、それで摩訶迦葉君、君は落第して、そのあとどうするつもりなんだ。」
杉ちゃんが、ガブッとこんにゃくをたべながら、そう聞いた。
「ああ、そうですね。僕は、高野さんのように話を聞くのは難しいなと思いましたので、また通信制の高校とかそういうところで、教えようかなと思っています。でも、そういう所では、困っている生徒も多いですから、若しかしたら、覚えたことが、役に立つかもしれない。」
植松はちょっと自信を失くしたようであったが、それでも、ちゃんとそういうことを言った。そういうすぐに見通しが付くことは学校の先生をしていた人物であるということがわかる。
「それでは、もうちょっと、勉強をして、水穂のような人を救ってやろうとは思わないのかい?」
蘭は、そういったが、植松の意見は変わらないようだった。それをみて蘭はがっくりと肩を落とす。
「まあいいじゃないの。摩訶迦葉君が決めたことだ。それを、邪魔するのは、蘭、やめにしようぜ。ただな、これからは一個だけ、気を付けてもらいたい事がある。」
と、杉三は、植松の肩をたたいて、
「もう、新しい学校にいったら、二度と阿羅漢に騙されるんじゃないぞ!」
と、言ったのだった。
摩訶迦葉の決断 増田朋美 @masubuchi4996
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