わたしのお話を、少しだけ。

昏天に宵待草

 木刀が唸った。いっそ快いほど高く、打音。ややあって鈍く、漆喰を叩く音。

 肺から逃げ出そうとする息を、食いしばった歯が押し留めた。からからと転がる短木刀を霞みかけた視界に探す。足先が床に落ちる。そのまま一回転、柄を拾い上げて、

 ――再び高く、打音。

 放物線を描いた身体が蹴鞠のように弾んだあと、壁際まで滑って止まる。


「――本日は、ここまでとする」


 血払い、納刀の所作を終えた声が、重く降った。

 辛うじて構えていた短木刀を下げる。片膝を解いて、座礼のかたちを作る。


「ありがとうございました」


 やや乱れた結髪に一瞥をくれて、九瀬くぜ家当主――九瀬厳斎げんさいは、道場着の背を向けた。そのあとを幼い裸足が追いかける。

 聞こえるのがおよそ蝉時雨だけになってから、ようやく娘は面を上げた。

 抑えていた荒い息が収まるまで、しばらく。

 立ち上がって、向かうのは井戸。水をんで、場内を掃除して。そうするうちに昼餉ひるげの時間になる。

 今日はお稽古のない日だから、午後は書見台相手の自習だ。先生の問いに即答できるようにしておかなければ。


 九瀬家養女、九瀬りつはこの年、よわい十八を数えた。

 契約刀霊〈於宇おうひめ〉に砕かれる約束の日まで、あと二年余。


 ……そして。


 賽の河原の石積みのような日々がくつがえるまで、あと。



***



 どうやら何か、よくないことが起こった。その時点で理解できたのはそこまでだった。

 厳しい顔で話し込む太刀片手の当主と、その叔父のいわお。通りがかった律の顔を見るなり、彼らは家人に命じて、律を蔵へ押し込んだ。

 ……それから、半月余り。

 律を見せたくない来客のときなど、似たようなことは何度もあった。それでも今回は長いなと、そう思って。

 きちんと毎食出される食事をいただいて、なまるとまた叱られてしまうから、基礎鍛錬と型どりと、術の研鑽と。あとは蔵の中の書物を読んで、繕いものをして、やや季節外れの花火の音に首を傾げていた。


 ——それが。

 それがまさか、こんな。


「………っ、とう、さま」


 幼くして当主となった少年が、耐えかねて嗚咽を漏らす。

 その頭にずしりと、老いて岩のように節くれだった左手が乗った。


 霊境崩壊。全滅地区、七。

 死者、行方不明者、散った花守は数知れず。

 九瀬厳斎もまた、帰らなかった。


 ……そんなものを、下敷きにして。


「——ひいては、律」


 わたしは、この生に、意味を得ようとしている。


「九瀬の花守として、その責を全うせよ」


 磐は、渋面を繕おうともせず、そう命じた。


『……虫のいいことねェ』


 ふわりと姿を顕した白無垢の異形が嘆息する。


『十年は遅いワ、その言葉』


 磐が返した無言の眼光が、〈於宇姫〉の紫がかった鏡面に映る。


「——謹んで」


 その応酬を遮って、律が手をついた。


「拝命、いたします」


 深く深く結髪が下がる。

 切り揃えられた黒髪がさらりと、畳にこぼれた。



***



 いつだったか、邸の屋根に登ろうとしたことがある。

 どうしてかは覚えていない。果たして登れたのかどうかも。

 だから、邸周辺の街並みがどんなものなのか、地図でしか知らなくて。

 目の前に並ぶ家々がかつてどんな姿だったのか、この荒れようが大霊災の前からなのか後のものなか、わからない。

 通りの寂しさが本当に寂しいのかどうかも。

 失われたものは甚大であるはずなのに、その実態が薄い。苛酷であったという撤退戦の最中、律は何も知らずにただ座して、狭い空を見上げていただけだった。

 怯えることすら、しなかったのだ。


「——……」


 残心、血払い、納刀。

 すすきのように誘っていた手たちが、根本を刈られて霧散する。


 こんなものでは到底、足りない。

 もっと、もっと霊魔を祓って、祓って、瘴気を退けて。

 この手の届く限りにひとを、誰かを救って救って救わなければ。でなければ、あまりにも。


「……ああ」


 けれど、この両手で足りるとは、この命ひとつで贖いきれるとは、思えなくて。


 見上げた空は昏く、遠かった。



***



 律がようやくひとりぶんの命を救って、最初のたからものを得たのは、これより十日後。

 そして。

 彼女がその姓を『百鬼なきり』と、そう改めることになるのは、さらに半月ほど後のこととなる。

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<禱れや謡え、花守よ>九瀬律 くー @q00_9oo

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