第36話 主従
ぎっしり詰まったウォルナッツの蜂蜜漬けとクランベリーのタルトはなかなか美味しくできていた。アッシュたちにも好評、良かった。
それにしてもあの精霊は何をしに来たのか。ある程度力が強くなると、自我が強くなって使役されるのを嫌がるので、名付け希望の精霊は今協力してくれてる精霊たちからそれよりも小さいものたちなのだ。――代わりにすごい数がいるけど。
答えはすぐわかった。
「申し訳ございません」
「うん? どうしました?」
台所に食器をノートと運び、その台所で頭を下げられた。
「タルトを台無しにした精霊は、私の配下でございます」
ぬか漬けの容器をちらりと見て言う。
容器がかすかに震えている。何か
リシュの声は聞こえるようにしているのだが、とても大人しくて吠えたのを聞いたことがない。狼って遠吠えはするけど吠えないんだってね。
「こいつの?」
「雪の
お前が飼い主か!!!
それにしても何故二人ともその場ですぐに言い出さなかったのか。
「……もしかしてアッシュは
「はい」
アッシュが黙っていた理由はクインの存在を知っていたならば、執事の能力を隠すため。知らないならば俺の精霊に対する能力を執事に隠すため。――執事がアッシュがいないタイミングで言い出したことから考えて後者で当たり。
なんだろうこの主従。
思わずまじまじと執事の顔を見る。パウディル=ノート、アッシュのアーデルハイド家の元執事。涼しげな白い顔、灰色の髪にアンバーの瞳。
「パウディルはアーデルハイドの分家、分家が本家を超えることは許されません。アッシュ様は私の能力は精霊が見えるだけ、と」
見てたら執事が頭を下げて言ってきた。
ああ、色味はアッシュととても似ている。って、俺がそれに気づいた、もしくは気づくと思って先に告げて来たのか。
「詮索する気はない。次、別なのを連れて来るときは最初は玄関から入れ」
ぬか漬け容器の紐を解いて蓋をあけると精霊が飛び出して逃げていった。
ぬか床はうまく透過できた模様。飛び散らなくて何よりです。
「こちらはまた個性的な匂いがいたしますが、塩漬けの一種でしょうか?」
すごく怪訝そうな執事。
「ああ、そのようなものだ。まだ肝心の具材が入ってないがな」
あとでカブを漬けよう。
「ジーン様の家は素晴らしく快適ですね」
「まだ手を入れたいところがあるけど、あとは手が空いたらゆっくりやってく予定だ」
執事が皿を洗って、俺が拭いて棚にしまう。
台所と風呂、地下の保存庫はカビ予防に漆喰を多めに塗ってあるので印象が白い。壁を直すために石の間の古い漆喰をガリガリ削ったのはいい思い出だ、二度とやりたくないけど。
上の階を支える
アズをかまっていたアッシュと執事が帰っていった。
イチジクのタルトの残骸は執事が持ち帰って、明日の朝に市壁の外にある、金がなくって中に住めない人たちの中でも貧しい人たちに渡して来るという。
机の上は百歩譲るとして、床に散れた分を人にあげるのは日本人感覚の俺としては気になるけど、床に落ちたものを口にするのは普通な衛生観念――いやこの世界で食べ物は貴重なのだ。
実際この町には食うに困る人も普通にいる。甘いもの高いし「豚の餌などにしたら恨まれますよ」と言われ、思い直してせめて均等に潰してクッキーサイズに整形し直し、キャラメルをかけて軽く焼き直した。
二人が帰った後は、一階の火を落として三階の様子を確認。
蝋燭は三時間ほど使えるものが銅貨三枚、もしくは四分銀一枚。大人一日分のパン代くらいするので毎日使うには贅沢だ。そういうわけで一般家庭では夜は暖炉の明かりのみだ。
二階の床は木だが三階の床はタイル敷き、暖炉の炉床も広めにした。無人で薪が燃え尽きるまで付けっ放し前提で火事防止仕様。しばらく煙突から煙が上がっていないと変だから。
海のある国だと油を入れた小皿にイグサの灯芯の明かりが使われる。安い油はイワシとかの魚油だが、臭ううえに煙が出る。次に鯨油、多少臭いがましな程度。植物油はないみたい?
陽が長いこともあって明るいうちに働いて、節約のためもあって夜は早寝というのが一般的。俺もさっさと家に【転移】して寝よう。
あの主従、もう公爵家の外なんだから気にせずバラせばいいのに。執事にも俺が精霊に触れることがバレたが、まあお互い様な感じだ。面倒だったらせっかく改装した借家を捨てることになるが、大丈夫だろう。
目立って国から興味を持たれて困るのはあの主従も嫌だろうし。俺は神々のおかげで面識がない限り、俺に対する事柄について興味を持続できなくなってるから平気。
それでいて自由騎士の地位と領地は認められてるのだから便利だ。名を売って、有名になりたかったら最悪な状態かもしれんけど。
快適、快適。
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